さてある時、一人の牧師さんがとっても悩んでいました。ご家族と一緒にハイウェーを車で走っていた時の事です。道路にある標識を見て、「わたしも神様からこのような標識がほしい」と願っていました。
食事時になったので、車をパーキングに止められました。ご家族は食事をしに食堂に入りましたが、ご本人は食事をする元気がなくて車の横に椅子を出して一人座っていました。
すると目の前にある公衆電話が鳴り始めたのです。「お店の人が取るだろう」と思っていましたが、誰も取らないので重い腰を上げて、電話を取られました。すると電話口から、「N先生ですか?」と自分の名前を言われてびっくりしました。
電話の主の方は、自殺しようと思っていました。しかし、3~4年程前この牧師さんの説教を聞いたことがあり、死ぬ前にもう一度この先生の説教を聞きたいと思っていました。しかし、住所も電話番号も知りませんでした。もうだめだ・・と机の上に顔を伏せたところ、目の前に数字がずっと並んだのです。「なんだろう」と思い、急いでその数字を書きとめました
そして、電話を掛けたのでした。
「あなた、わかっていますか?これは私のオフィスの電話番号ではありませんよ。別の州のハイウェーのたまたまよったパーキングエリヤの公衆電話の電話番号ですよ」その後二人は会ってお互いに励まされたのでした。
この話を、病院の隣の教会の安息日学校の青年のクラスで話していました。
すると青年が手を挙げて、「私の知っている人も同じようにして教会の電話番号を教えてもらったそうです」と話しました。
また、ある時病院で医師がニコニコして話されていました。お話を聞くと「在宅で、末期の癌で助からないと言われていた人のために、お祈りしていたらよくなったんだよ」そのお顔は喜びに輝いていました。
ところが1年?くらいたってその医師に、「あの時は良かったですね」と聞きましたら、「え~と何だっけ?」と言われてしまいました。
イエス様がこの地上にいらした時、数多くの人々を御癒しになられました。聖書に書いてある通りです。主は私たちの罪のため十字架にお掛りになられましたが、よみがえりになられ、今もなお生きておられます。そして聖書に書いてあるお約束の通り、この医師のお祈りにお答えになられ一人の人の命が助かったという証でしたが、医師はすっかりお忘れになっていらっしゃったのでした。
さて、「証とは、新しいことを提示することではなく、人々が忘れていたことを思い出させるものです。」とあります。
私は、聖職者ではありませんので、説教することはできません。そこで、今日は「私が目で見た事、耳で聞いた事、手で触ったことについてお話させていただこうと思います。」
主は今に至るまで多くの御業を通して私たちを導いてきてくださいました。今日は証を聴くというよりも、今まで私たち一人ひとりに主がなしてくださった数々の御業を思い出してくださったらうれしく思います。
病院について、服を着替え、その患者さんの部屋に入りました。部屋に入った時の患者さんの第一声は「何しに来た!」でした。牧師さんはお座りになられ、30分くらいいろいろ話していらっしゃいました。
すると・・・その男に人が話し始めたのです。「おれは、線路の踏み切の切り替え手だった。ある時、クリスマスイブの日、俺は酒によっていた。そして、切り替えを間違ってしまったんだ。そこで電車が入ってきた・・・
そして、一人の女性の方と、その娘さんを殺してしまったんだ・・・そしてそれ以来ずっと30年間森にひとりで過ごしていたんだ・・・」
その話をずっと聞いてきた牧師さんが、静かに言いました。「あなたの罪は許された」
すると、カチンときた男は「なんでお前がわかるんだ!」と怒鳴りました牧師さんは静かに言いました。「あなたの罪は許された。その時死んだ女の人は私のお母さんなんです。そして、その時死んだ娘は私の姉なんです。僕が許すから・・・あなたの罪は許された。」
私が、千葉県の総合病院で働いていた時の事です。ちょうど教会の講演会が迫っていた頃でした。
その病院で、良く話をしていた栄養科の事務の方に、講演会のチラシをお渡しすると驚いた声で「わたし(隣にある)病院って知ってる!」とおっしゃいました。
それこそ10数年前、杉並区に住んでいらした頃、子供さんが御病気になられ、病院にいらっしゃったのでした。そこで、子供さんが病院内で吐いてしまいました
すると、ハウスキーピングの方がいらっしゃり、丁寧にお掃除をしてくださり、きれいにしてくれた上、ギフトショップでクッキーを買ってくださったとのことでした
その方はとっても感動されていらっしゃいまして、「今でも覚えている」と熱心に話してくださいました
彼女は、その後お兄さんの通っている教会に行かれ、バプテスマを受けられたそうです。
医療伝道は、「福音の右の手である」と証の書に書いてありますが、10数年前に撒かれた種を、神様が成長させてくださっておられるのを見せていただくのは本当に感謝です。
「今、思えばきっと誰かが祈っていてくださったんだ」と今でも涙を流してその時の事を、話されていらっしゃいます。そして「誰が何と言おうと病院、大好き」とおっしゃっておられました。そしてこの方は、つい最近、教会でバプテスマをお受けになられたのでした。今、私の通っている教会で毎週日曜日に開かれている聖書研究会でご一緒させていただております
また原稿にはなかったのですが、先週教会でバプテスマ式がありました。
となりの病院の緩和ケア病棟にご入院中だったご主人が・・・信仰告白はされませんでしたが、お亡くなりなられたその日、ご主人が「イエス様、イエス様」と話されたのでした。ご葬儀のあと、奥様が教会に通われるようになり、先週の安息日他の方と一緒にバプテスマになったのです。
「教会へのあかし」に次のように書いてあります。「神のための働き人1人1人にこの思想が刺激となり、励ましとならなければならない。この世では神のためのわれわれの働きは、ほとんど成果がないように見えることがよくある。我々は熱心に根気よくよいことをしようと努力するが、それでもなお、その結果を目の当たりに見ることを許されないこともある。われわれにとってその努力はむだになったように見えるかもしれない。しかし救い主は、われわれの働きが天に知られていて、その報いが必ず与えられるとわれわれに確証しておられる。」
聖書に次のように書いてあります。コリント人への第一の手紙15-58
「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」
さて、病院での働きを支えてきてくださったのは、職員だけではありません。
ある時、ひとりの患者さんがご入院されました。病名はガンの6箇所転移一度、開いてみましたがまた閉じてしまいました。
ところが、患者さんは「わたしは癌になって、イエス様という方を本当に良く知ることができた。本当に感謝だ」と話されました。そして病棟でも、「癌になって感謝」「癌になって感謝」と話されていらして、他の患者さんから「すみません。少し静かにしてくれませんか」と言われるほどでした。
結局、もう一度手術をすることになりました。
地元の牧師さんがいらっしゃり、医師と一緒に祈られました。お祈りが終わると、牧師が医師にお尋ねになりました。「先生、大丈夫でしょうか」「ダメでしょうね」「そうでしょうね」
しかし、この患者さんは、手術台に登られる際、「これで死んだとしても神様に感謝です。」と話されたのです。
7時間半かかると言われた手術が30分で終わりました。6箇所開いてみると綺麗なピンク色をしていて、ガンはすっかり治っており、患者さんはご退院されていらっしゃったのです。
最近、この話を病院の7階で食事に来られていた患者さんと話していました。
すると、この患者さんは
「思い出した。ずっと前に国立T病院であと6ヶ月の命と言われていた、知っている人がこの病院にかかり、すっかり治ってしまいました。もう10数年前たって今でもお元気です」
イエス様が10人の癩病人をお癒しになられた時、神様を褒め称えるために帰ってきたのはたった一人であった、記されています
きっと目に見えないところでもっともっと多くの主イエス様の不思議な癒しの御業がなされていることでしょう
さて、医療伝道機関は、福音の右の手と書かれていますが、一番大切なのは教会であります。「キリストが地上で最高の関心を注がれる唯一の対象」と書いてあります。
そして、この教会の使命は「第三天使のメッセージ」別の名前を「信仰による義のメッセージ」を伝えることにあります。これは1888年のメッセージとも呼ばれておりますが、お読みいたします。
「神の御言葉、義の言葉、生命の言葉が”今”、”この場”で与えられています。あなたは今、義に造り変えられる事を望みますか?今、その御言葉によって生きようとなさいますか?これこそ信仰による義認です・・・世界で最も単純なことです。」
レビュー&ヘラルド ATジョーンズ
自分は、価値がない、信仰もない、証もない、良いところも一つもない・・・と思っていた時に、このメッセージはそれこそ生命の言葉でした。
今まで素晴らしい経験をしたから・・・でもなく、逆に黒星続きだったから・・・でもない。家に帰ってゆっくり考えてから・・・でもなく
もっと強い信仰を持ってからとか、もって聖書研究したり、祈ってから・・・とは書いてありません。「今、この場で」
今いる、この教会で・・・と書いてあるのです。
そして、「人間は信仰によって、つまり神様の言葉に頼る事によって義と造り変えられるだけでなく、造り変えられたのと同じ方法で生き続けるのであり、・・・同じ経験を重ねるのです。」
そして、この神様が人生を大きく変えてくださるのです
「信仰によって義とされるというのは、信仰によって律法を守れる者に造り変えられることです。」サインズオブタイムズ EJワゴナー
「主は我々の承諾なしに我々の罪を取り去る事はなさいません。私はいつでも主を選ぶか、自分の罪を持ち続けるかの選択をしなければなりません。・・・これから後神様が罪だと示されたら、それが何であろうと捨てる事をためらうべきでしょうか。・・・主にこう言いましょう『主よ、私は今選びます。わたしはこの罪とあなたとを引換えます。わたしはあなたを選びます』一体どこの誰が自分の罪を示されて失望する必要があるのでしょうか。
さて兄弟がたの何人かはこの選びをさっそくなさっているかもしれません。ここに来た時は何も感じていなかった、今まで気づかなかった何かを聖霊が彼らに示されました。・・・するとそのように示された事を感謝して、罪を捨てるかわりに・・・彼らは失望するのです。『一体どうしよう。私の罪はこんなに多いのか』と・・・
もじ以前には考えてもみなかった罪を示されたとすれば、それは主がこころの深みを清めようとしておられる、というまでの事で、いつかそれはついに心の底にまで達するのです。そしてご自分の御旨にそわない、不純で汚れたものの最後の一つを取りだして我々に示される時、われわれが、『そんなものよりキリストを持った方が良い』と言うならば働きは終了し、生ける神様の印がその人の品性の上に押されるのです」
世界総会ブリテンATジョーンズ
さて一つ小さな証ですが、
私が、病院の命令により派遣されて臨床工学技士の専門学校に行った時の事です。
受験要項に「土日休み」と書いてある事を確認し、また、入試の面接でも「土曜日は休みですね」と念を押し、学校に入りました。
ところが最終学年になった時、臨床実習が始まり、土曜日学校に出てきなさい、と言われたのです。担任と話しても平行線でした。学校側は成績表も出さない、授業料の振込用紙も送ってこなくなりました。
そして、校長先生と面接することになったのです。
以前は、こういう時はドキドキで、それこそ必死に悲壮な顔で祈っていました。
しかし、この時は心は晴れ晴れとしていて「神様、証の時が来ました」との思いでいっぱいになったのです。周りにいたとてもよくしてくださった工学博士の先生から「世界で一番幸せそうな顔をしている」と言われました。
カンカンになって怒っている校長先生と面接が始まりました。教会に行くから、学校を休ませて欲しいと言っても平行線だったので、今まで数々みさせていただいたイエス様の証をしました。すると、怒っていた校長先生の顔が和らいでいったのです。そして、その証を文章にしなさい、と言われたので、合計3回学校に提出しました。その証は臨床工学部の先生方、他大学から来ていた非常勤の先生方、また大勢の学生にも広まりました。
そして、それが大学病院や、医療機器メーカーにも伝わり、何百万円もする高額な数々の機器、医療物資が看護大学、病院、伝道地、また震災時は福島の教会に届けられたのです。
そして、私自身も校長先生の怒りが解けたばかりか、笑顔になり、無事に卒業し、今は臨床工学技士として病院にて働かせていただいております。
祝福の山に
「神様は大いなる愛をもって、わたしたちのうちに聖霊による尊い徳を育成しようとしておられます。神様がわたしたちに障害や迫害や困難の来るのをおゆるしになるのは、のろいとしてではなく、わたしたちの生涯の最高の祝福としてでます。」とは本当の事だと思いました。
また、神様は教会を愛しておられますが、病院や看護大学もまたその大きな、深い愛をもって愛しておられる・・・事を知ったのでした。
足りない事、正すべき事、数々あるとは思いますが、今後ともご加祷とご援助、またご指導のほどよろしくお願い致します。
さて、先ほどの「キリストが地上で最高の愛の関心の唯一の対象」という言葉の前にはこう書いてあります「キリストの教会は、どんなに弱く、欠点があろうと」と・・・
信じる人々一人一人は神様の宮と言われています。ですから、最高の愛の関心の唯一の対象とはわたしたち一人一人になのかもしれません。
信仰による義のメッセージに次のように書いてあります。「無償の賜物はすべての人のものとなりました。それが何の価もいらない賜物である事自体、それが例外なく与えられるのを証明しています。もしそれが何らかの特別な資格を有する者に与えられるのであれば、もうそれは賜物とは呼べません。ですからキリストの義と生命の賜物が地上のすべての人に与えられたというのは事実であり、聖書が明らかにそう証言しています。もし本人が拒みさえしなければ、今まで生を受けたどんな人間も救われてならない理由はないのです。多くの人々はこんなに気前よく与えられている賜物を受けようともしないのです」サインズ EJワゴナー
この地上でも親切な人、やさしい人もいることでしょう。しかし、それでもこの地上には罪があります。しかし天には罪がありません。もっとやさしい、愛に溢れた方々がいらっしゃることでしょう。
しかし、イエス様は・・・その方々の中でも宇宙で一番、愛に溢れた御方でいらっしゃいます。
あの人のため、この人のために生命をお捨てになられた・・・というならまだ私にも理解できます。しかし、イエス様のこの私のために十字架にお掛かりになられたということは理解をはるかに超えたことです。そしてこの神様の御子がもう一度この地上に帰ってくるとお約束なさっておられます。
最後にもう一つ証を致します
病院でおなくなりになられたクリスチャンの方がいらっしゃいました。
その亡くなられる時、こうおっしゃったのです
「神様は、今まで最善の事をしてくださった。だからこれからも最善の事をしてくださる。」と。この方は、イエス様が癒してくださるとお信じにはなられませんでした。また、天国に入れるともお信じにはなりませんでした。そうではなくイエス様ご自身を信じておられたのだと思います。
瞑想の言葉にありますが、
「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
イエス様、宇宙でたった一人、私の罪の故に手と足に十字架の傷跡を持っておられる御方に栄光が代々限りなくありますように。
最後に、聖書の御言葉をもってこの礼拝を閉じようと思います
エペソ人への手紙3章20節からです
「どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、教会により、また、キリスト・イエスにより、栄光が世々限りなくあるように。アアメン」
0 件のコメント:
コメントを投稿