僕が小学校のころ・・・友達と一緒に図工室に扉を開けて入りました・・・入ってすぐ左、黒板の隣に一人の人の非常にむごたらしい絵が飾ってありました。その方は手と足に釘打たれて血を流している絵でした。
何も知らない僕でした・・
思わず友達に「こんな死に方はしたくないねえ」と言います。
友達は無言・・・
まさか、20年以上過ぎて、「あの絵をもう一度見たい」と思うようになるとは・・・
大学の恩師の憲法の教授・・・メイフラワー号でアメリカにわたった清教徒の話をします。
「信仰のために国を捨てた・・・みなさん、これが簡単なことだったと思わないでください。やつら本気だったんだ。その証拠に初めの冬に、彼らの半分は死んでる」
「しかしねえ、アメリカで友人が自然を見せてくれた時、これらが自然につくられたと思う?と聞かれた時、信じたねえ」
民法の教授は聖書にはかなり精通していて、講義の時には、ペテロさんの話や、ユダの話まで出ました。そして「人間って言うのは、先生、先生と言われるたびに馬鹿になっていくものだ・・・だから何十年言われているわたしなんていう人間は・・・」と苦笑い・・・
専門学校で生物の先生、ある時、広島に原子爆弾が投下された時、奇跡的に守られたクリスチャンたちの話を聞き、授業が突然進化論から創造論に変わりました。「古代の海の・・・」の進化論が・・・「アダムとエバかね」と学生に講義・・・
その方は長崎ご出身の先生・・・クラスメート1/6が原爆症で次々なくなられたそう・・・きっと心に思うものがあったのかもしれません。
「わたしの兄弟たちよ。あなたがたの多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人よりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身を制御することのできる完全な人である。」
それでもなお・・・先生の職に献身されていかれる方々が・・・いらっしゃることを知っています。
周りの人々に反抗している子に、一人のクリスチャンが切々と話していたのをいつも思い出します。
「先生を助けなさい。あなたは先生一人を批判しているけど、先生は40人みなくちゃいけないのよ」と・・・
先生を助けるとは?・・・その一つは勉強など困っている級友を助けること・・・すると自分もよく勉強が理解できるようになるそうです。
教会と同じかも。「先生を助けなさい・・・」ということは困っている人を助けること??
しかし、え~伝道なんてできない、と回れ右!でした・・・
「伝道は説教だけではない。病気と苦しみにある人々を和らげ、困っている人々を助け、落胆している人々や信仰の弱い人々に慰めの言葉を語る者は伝道しているのである。」
とっても力になった言葉でした。
心の中に描かれたイエス様の十字架のお姿・・・そのお姿が心の中に残っているのは・・
「わたしたち教師が、他の人よりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。」
「それでもなお」と・・献身された多くの先生方のおかげです。
2009年12月15日火曜日
途中でやめない
「必要なのは熱心なクリスチャンの熱意である。―何かを行うことによって示される熱意である。・・・ナイアガラ瀑布の流れを止めることができないように、キリストを身につけている人に対して、主をあかしすることを妨げることはできない。」
僕の見てきたクリスチャンたち、それは決して「止める」とか「後退」ありませんでした。「とどまるな、前進!」は合言葉・・・
集会も始めたら何十年やめません。教会の近隣の掃除も始めたら決して止めることはありません。奉仕はそれこそ365日・・当然お盆も夏休みもありませんでした。
しかし、・・・いつも、いつも口々にお詫びをされていました。
「こんな者で、ごめんね」「イエス様、大人のわたしたちの模範が悪くて、若い人たちが苦しんでいます。」
熱心になって・・・何をするのだろう・・・・人はとっても間違えやすいものです。
聖書はいつも正しい道へ導いてくださいます。
熱心になって悔い改めなさい・・・
僕の見てきたクリスチャンたち、それは決して「止める」とか「後退」ありませんでした。「とどまるな、前進!」は合言葉・・・
集会も始めたら何十年やめません。教会の近隣の掃除も始めたら決して止めることはありません。奉仕はそれこそ365日・・当然お盆も夏休みもありませんでした。
しかし、・・・いつも、いつも口々にお詫びをされていました。
「こんな者で、ごめんね」「イエス様、大人のわたしたちの模範が悪くて、若い人たちが苦しんでいます。」
熱心になって・・・何をするのだろう・・・・人はとっても間違えやすいものです。
聖書はいつも正しい道へ導いてくださいます。
熱心になって悔い改めなさい・・・
最後の厳粛な働き
最後の厳粛な働きには、えらい人たちはほとんどたずさわっていない。彼らは自己満足し、神様によりたのまないので、神様は彼らをお用いになることができない。主は忠実なしもべたちを持っておられるが彼らはふるわれて試みられる時に人々の目の前にあらわれる。バアルにひざをかがめなかった尊い人々がいまはかくされている。彼らはあなたがたの上に集中された輝きとなって輝いている光を持っていなかった。だが粗野な、魅力のない外面の下に真のクリスチャン品性の輝きが、あらわされることがある。昼間は、天を見ても星は見えない。星は大空に固着してそこにあるのだが、目には見わけられない。夜になると、その真の光輝がみられるのである。
各々の魂に試みがやってくる時はそんなに遠くない・・・そのとき、教会の中では金とくずとが分けられる。真の敬虔とそのまねやめっきとがはっきり区別される。われわれがその光輝を称賛した多くの星がそのときやみに消え去る。豊かに穀物の床しか見えなかったところからさえ、もみがらが雲のように風にのってはこび去られる。聖所の飾りだけを身に着けて、キリストの義を着ていない者はみな自分の裸の恥をさらしながら現れる」
こういう事は、確かにあることです・・この文書をみて、自分が、えらい、星だ、金だ、ふるわれていない、と思っているときは、心配に?・・・ふるわれたらどうしよう・・・しかし、心の貧しさを感じているときは、悩んでいるときは、励ましになります。同じ文章見ても・・・違うものですね。
「将来ふるわれたらどうしよう」
「信仰は今、信仰は今よ」「今日、今日でいきるのよ」「明日のことを思いわずらうなでしょ。」
太平洋戦争のとき、天皇を神と認めず、イエス様を神様と信じたために投獄された牧師さん「わたしたちは、指一本怪我しただけで、痛いものですよ。しかし殉教者の徳は彼らがその徳が必要となるときまで与えられなかった。その徳が必要となった時、それが与えられたのですよ。」
「今日が最後の日であっても、わたしはりんごの木を植える」
今日という日、いえいえ、今という時にイエス様と一緒に歩むことが、一番です。
もしこれらの言葉がなかったら、何十年も、いえ一生不安の中で過ごしたかも・・生きた信仰者の方々の証は尊い宝物です。
各々の魂に試みがやってくる時はそんなに遠くない・・・そのとき、教会の中では金とくずとが分けられる。真の敬虔とそのまねやめっきとがはっきり区別される。われわれがその光輝を称賛した多くの星がそのときやみに消え去る。豊かに穀物の床しか見えなかったところからさえ、もみがらが雲のように風にのってはこび去られる。聖所の飾りだけを身に着けて、キリストの義を着ていない者はみな自分の裸の恥をさらしながら現れる」
こういう事は、確かにあることです・・この文書をみて、自分が、えらい、星だ、金だ、ふるわれていない、と思っているときは、心配に?・・・ふるわれたらどうしよう・・・しかし、心の貧しさを感じているときは、悩んでいるときは、励ましになります。同じ文章見ても・・・違うものですね。
「将来ふるわれたらどうしよう」
「信仰は今、信仰は今よ」「今日、今日でいきるのよ」「明日のことを思いわずらうなでしょ。」
太平洋戦争のとき、天皇を神と認めず、イエス様を神様と信じたために投獄された牧師さん「わたしたちは、指一本怪我しただけで、痛いものですよ。しかし殉教者の徳は彼らがその徳が必要となるときまで与えられなかった。その徳が必要となった時、それが与えられたのですよ。」
「今日が最後の日であっても、わたしはりんごの木を植える」
今日という日、いえいえ、今という時にイエス様と一緒に歩むことが、一番です。
もしこれらの言葉がなかったら、何十年も、いえ一生不安の中で過ごしたかも・・生きた信仰者の方々の証は尊い宝物です。
生活編
ある方がおっしゃいました。「教会にいるときは白、家族と一緒にいる時は灰色・・・一人でいるときは黒・・・」心の状態(心の色?)の事を話されていたのでした。
この手の話は(も?)女性の方がはるかに得意・・・かなり楽しい証がいっぱいあります。劣勢を意識しつつ書いていこうかな?
僕が伝道旅行に連れて行っていただいた時です。ある教会に入り、礼拝の後昼食が終わります。自然と証会になっていきました。僕も証の中に・・・話の流れの中に話そうとしたけど、話せない、あれ、おかしいな・・・よしもう一度・・・どうしても言葉が出てきません。すると僕の視線が足元に・・・
「わ!」なんとトイレのスリッパをそのまま履いて集会室に出ていたことに気づきます。
何食わぬ顔をして?静かに立ち上がり、トイレへ、そこでおいてあった部屋用のスリッパに履き替えて何知らぬ顔をして、集会へ・・・
するとなめらかに証に入っていくことができました。
もし、そのままイエス様の証をしていた後で、「あれ、それトイレのスリッパですよ」なんて言われたら、どんな証をしていても印象はガタ落ち・・他のクリスチャンの方々の証の力まで損なっていたかも・・・
ある文書伝道者の家に行くと、部屋はちらかしっぱなし、汚い!庭も草ぼうぼう・・・う~ん・・・
逆に、ある伝道者の方が、かばんを空けたら、すべてきれいにつまっていて、周りの人が「この人は本物だ」と思われたとか・・・
あんまり悩んで、悩んで、答えが出ない時には、それこそ、頭だけが空回り・・・いい答えが出ません。そこで足元を・・・すると意外な突破口を発見します。
こういう証、いえ話を書いていると「あの~、あんまりレベル下げないでよ」と言われそう・・・
あるクリスチャンの有名な言葉・・・
「整理、整頓、清潔はクリスチャンのモットーである」
「より良いものを、それが教育の合言葉である」
さて、ちょっと片付けようかな・・・??
この手の話は(も?)女性の方がはるかに得意・・・かなり楽しい証がいっぱいあります。劣勢を意識しつつ書いていこうかな?
僕が伝道旅行に連れて行っていただいた時です。ある教会に入り、礼拝の後昼食が終わります。自然と証会になっていきました。僕も証の中に・・・話の流れの中に話そうとしたけど、話せない、あれ、おかしいな・・・よしもう一度・・・どうしても言葉が出てきません。すると僕の視線が足元に・・・
「わ!」なんとトイレのスリッパをそのまま履いて集会室に出ていたことに気づきます。
何食わぬ顔をして?静かに立ち上がり、トイレへ、そこでおいてあった部屋用のスリッパに履き替えて何知らぬ顔をして、集会へ・・・
するとなめらかに証に入っていくことができました。
もし、そのままイエス様の証をしていた後で、「あれ、それトイレのスリッパですよ」なんて言われたら、どんな証をしていても印象はガタ落ち・・他のクリスチャンの方々の証の力まで損なっていたかも・・・
ある文書伝道者の家に行くと、部屋はちらかしっぱなし、汚い!庭も草ぼうぼう・・・う~ん・・・
逆に、ある伝道者の方が、かばんを空けたら、すべてきれいにつまっていて、周りの人が「この人は本物だ」と思われたとか・・・
あんまり悩んで、悩んで、答えが出ない時には、それこそ、頭だけが空回り・・・いい答えが出ません。そこで足元を・・・すると意外な突破口を発見します。
こういう証、いえ話を書いていると「あの~、あんまりレベル下げないでよ」と言われそう・・・
あるクリスチャンの有名な言葉・・・
「整理、整頓、清潔はクリスチャンのモットーである」
「より良いものを、それが教育の合言葉である」
さて、ちょっと片付けようかな・・・??
2009年11月23日月曜日
再創造
ある教会員の方が自動車で走っていました。
そこへ、若者の乗った自動車が正面からつっこんできて、正面衝突しました。
その方はすぐに教会の病院にかつぎこまれました。
眼球は飛び出し、耳は千切れ飛んでいました。
人工眼球が用意されましたが、手の施しようがない状態でした。
そこへ教会の方々が集まってきました。
牧師さんが「ここに信仰のある方々だけが、残ってください」とおっしゃいました。
そして、みんなが膝まづいてお祈りされました。
皆が祈っている間、その患者さんは残った片方の目で・・・
「真っ黒だった手」がピンク色にもどっていくのが見えたそうです。そしてお祈りが終わったとき、千切れ飛んでいた耳がなおっていて、飛び出した眼球は治っていました。
その方はすぐに、刑務所に行きました。
そして、彼の自動車に正面衝突をして、そこに入っていた若者に出会い・・
癒された・・・神様の不思議な再創造の話をされたそうです。
そして、「キリストへの道」など、刑務所で聖書研究が始まり、まわりの囚人にまで広がっていったのでした。
そこへ、若者の乗った自動車が正面からつっこんできて、正面衝突しました。
その方はすぐに教会の病院にかつぎこまれました。
眼球は飛び出し、耳は千切れ飛んでいました。
人工眼球が用意されましたが、手の施しようがない状態でした。
そこへ教会の方々が集まってきました。
牧師さんが「ここに信仰のある方々だけが、残ってください」とおっしゃいました。
そして、みんなが膝まづいてお祈りされました。
皆が祈っている間、その患者さんは残った片方の目で・・・
「真っ黒だった手」がピンク色にもどっていくのが見えたそうです。そしてお祈りが終わったとき、千切れ飛んでいた耳がなおっていて、飛び出した眼球は治っていました。
その方はすぐに、刑務所に行きました。
そして、彼の自動車に正面衝突をして、そこに入っていた若者に出会い・・
癒された・・・神様の不思議な再創造の話をされたそうです。
そして、「キリストへの道」など、刑務所で聖書研究が始まり、まわりの囚人にまで広がっていったのでした。
2009年11月21日土曜日
去年の出来事~書いたときは「最近の出来事」 一年経ちます
さて、信仰を育てていただいた教会から離れて、もう一年半、それでも何と、何と多くの不思議な出来事に恵まれたか、びっくりします。毎日、毎日の記録をつけるようにはしていますが、主のいつくしみの不思議な御業のない日は1日もないというとっても不思議なお恵みです。
離れて初めの頃は、何もかも初めてでした。知っている人誰もいない初めての職場、初めての住まい、初めてのお店、近所・・・。
時には、身体中、痛みが走り、夜眠れない状態の時がありました。もともとクリスチャンは他のために祈るのであって、自分のためには祈らないものだと思いますが、恥ずかしながら、お祈りすると、痛みがなくなり、その晩からずっと眠れるようになった経験をしました。
また、今までは食事や病気の時、本当に多くの教会の兄弟、姉妹方の暖かい保護と、薬、食事、などなど数え切れないほどの祝福をもって支えていただきましたが、今度は次の教会の兄弟、姉妹ばかりではなく、神様を知らない、あるいは信じていない方々からも、通常では考えられない方法で支えていただき、守られています。
困った時には、兄弟姉妹の信仰をお借りしなさいとまで勧められていますが、全然、「お借りできない」状況ですと、ただ主イエス様にすがるしか方法がなくなります。
しかし、主は驚くべき方法で毎日、毎日憐れみ深く、また安息日もお約束通り、守っていただき、仕事でも、生活でも導いてくださっています。振り返るとお祈りに応えて、数々の出来事が起こっていることに気付きはじめています。
「わたしたちの必要とするもの―物質的、霊的祝福―を日ごと求めるように教えることによって、神様はわたしたちの益のために1つの目的を達成しようとしておられます。神様は、わたしたちが神様の絶えざるご配慮に依存していることを認めさせようと望んでおられるのです。それは、わたしたちをご自身との交わりにいれようと望まれるからです。キリスト様とのこの交わり、すなわち、祈りと、みことばのこの上なく尊い真理を学ぶことを通じて、飢えた魂は養われ、渇く者はいのちの泉で潤されるのです。」
この言葉は、本当に真実です。この言葉通り、一言も違わずその通りです。
聖書の中には、「見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ。わたしはあなた方の時代に一つの事をする。それは、人がどんなに説明して聞かせても、あなたがたのとうてい信じないような事なのである」という事柄が書いてありますが、「信仰とは説明はできないが、体験によって知ることができる」ということもまた、真実であり、また事実だと、生活を通して実感させられます。
去年の夏は、僕にしては珍しく、風邪をひきませんでした。一度風邪を引くと2~3ヶ月くらいずっと続く、そんな毎年でした。しかし、今年は仕事上、絶対に休めませんでした。しかし今回は、僕としては不思議なくらい、守っていただきました。
ところが、最近おもいっきり風邪をひきました。先週月曜日夜、咳が止まらず、結構?大変でした。
連休明け、火曜日は替わりの人がいないのでどうしても出なければならないし、やむを得ずイエス様に必死でお祈りしました。
咳が止み、静かになりました。
そして先週ずっと出勤出来ました。
その中で、月曜日は職場でお医者さんの食べる夕食をいただきました。食欲が全然無くて何も食べたくなかったのですが、いただきました。
また他にも、牛乳とおいしい「どら焼」までいただきました。(^^) 夜は久しぶりに眠れました。
そして職場で火曜日はお昼をいただき、夕食もいただきました。火曜日は食欲もあり、おいしくいただきました。
イエス様に感謝です。
そしてまたその他にも、溢れるほどのパンの山とバナナ二本。牛乳、お菓子、お茶、ケーキまでいただきました。
神様がやさしく守って下っています。
さて、話はちがいますが、学生の頃、イスラム教の正典「コーラン」を読み、大学の講義を聞きました。天国では救われた人々がお酒を飲みながら、地獄に落ちて苦しんでいる人を見て、救われたことを喜んでいるそうです。
「お酒が飲めない?」からではないですが、僕にとっては、天国ではありませんでした。また、イスラム教の教えていることが真実だとしたら、僕は100%天国には入れないでしょう。
イエス様が、もしお祈りにお答えくださらなければ、今週は仕事に出られませんでした。もし、主が十字架にかからなければ、僕のような者は100%天国に救われないでしょう。
「彼は、あやまちや罪があまりに大きいので、主は私たちの祈りをかえりみてくださらず、私たちを祝福し、救ってはくださらないと思わせようとします。私たち自身のうちには、欠点以外何も見られず、神様にとって魅力あるものは何も見られません。サタンは、無駄だ、品性の欠陥を改めることはできないとわたしたちに告げます。私たちが神様のもとに来ようとする時、敵は祈ってもむだだ、あなたはあの悪事をしたではないか、あなたは神様に対して罪を犯し、自己の良心にそむいたではないかとささやくでしょう。しかし、わたしたちは、「御子イエス様の血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」と敵に告げることができます(ヨハネ第一・1-7)、私たちが罪を犯した、祈ることができないと感じる時こそ、まさに祈るべき時なのです。恥じ、誇りをいたく傷つけられているかもしれませんが、祈り、かつ信じなければなりません。「『キリスト・イエス様は罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人の頭なのである。・・・」
あの十字架があるからこそ、信じがたい力をもって立ち上がることができます。そして、また、主イエス様が「生きて欲しい」と願われるのであれば、「生きてみようかな」と思うのです。
離れて初めの頃は、何もかも初めてでした。知っている人誰もいない初めての職場、初めての住まい、初めてのお店、近所・・・。
時には、身体中、痛みが走り、夜眠れない状態の時がありました。もともとクリスチャンは他のために祈るのであって、自分のためには祈らないものだと思いますが、恥ずかしながら、お祈りすると、痛みがなくなり、その晩からずっと眠れるようになった経験をしました。
また、今までは食事や病気の時、本当に多くの教会の兄弟、姉妹方の暖かい保護と、薬、食事、などなど数え切れないほどの祝福をもって支えていただきましたが、今度は次の教会の兄弟、姉妹ばかりではなく、神様を知らない、あるいは信じていない方々からも、通常では考えられない方法で支えていただき、守られています。
困った時には、兄弟姉妹の信仰をお借りしなさいとまで勧められていますが、全然、「お借りできない」状況ですと、ただ主イエス様にすがるしか方法がなくなります。
しかし、主は驚くべき方法で毎日、毎日憐れみ深く、また安息日もお約束通り、守っていただき、仕事でも、生活でも導いてくださっています。振り返るとお祈りに応えて、数々の出来事が起こっていることに気付きはじめています。
「わたしたちの必要とするもの―物質的、霊的祝福―を日ごと求めるように教えることによって、神様はわたしたちの益のために1つの目的を達成しようとしておられます。神様は、わたしたちが神様の絶えざるご配慮に依存していることを認めさせようと望んでおられるのです。それは、わたしたちをご自身との交わりにいれようと望まれるからです。キリスト様とのこの交わり、すなわち、祈りと、みことばのこの上なく尊い真理を学ぶことを通じて、飢えた魂は養われ、渇く者はいのちの泉で潤されるのです。」
この言葉は、本当に真実です。この言葉通り、一言も違わずその通りです。
聖書の中には、「見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ。わたしはあなた方の時代に一つの事をする。それは、人がどんなに説明して聞かせても、あなたがたのとうてい信じないような事なのである」という事柄が書いてありますが、「信仰とは説明はできないが、体験によって知ることができる」ということもまた、真実であり、また事実だと、生活を通して実感させられます。
去年の夏は、僕にしては珍しく、風邪をひきませんでした。一度風邪を引くと2~3ヶ月くらいずっと続く、そんな毎年でした。しかし、今年は仕事上、絶対に休めませんでした。しかし今回は、僕としては不思議なくらい、守っていただきました。
ところが、最近おもいっきり風邪をひきました。先週月曜日夜、咳が止まらず、結構?大変でした。
連休明け、火曜日は替わりの人がいないのでどうしても出なければならないし、やむを得ずイエス様に必死でお祈りしました。
咳が止み、静かになりました。
そして先週ずっと出勤出来ました。
その中で、月曜日は職場でお医者さんの食べる夕食をいただきました。食欲が全然無くて何も食べたくなかったのですが、いただきました。
また他にも、牛乳とおいしい「どら焼」までいただきました。(^^) 夜は久しぶりに眠れました。
そして職場で火曜日はお昼をいただき、夕食もいただきました。火曜日は食欲もあり、おいしくいただきました。
イエス様に感謝です。
そしてまたその他にも、溢れるほどのパンの山とバナナ二本。牛乳、お菓子、お茶、ケーキまでいただきました。
神様がやさしく守って下っています。
さて、話はちがいますが、学生の頃、イスラム教の正典「コーラン」を読み、大学の講義を聞きました。天国では救われた人々がお酒を飲みながら、地獄に落ちて苦しんでいる人を見て、救われたことを喜んでいるそうです。
「お酒が飲めない?」からではないですが、僕にとっては、天国ではありませんでした。また、イスラム教の教えていることが真実だとしたら、僕は100%天国には入れないでしょう。
イエス様が、もしお祈りにお答えくださらなければ、今週は仕事に出られませんでした。もし、主が十字架にかからなければ、僕のような者は100%天国に救われないでしょう。
「彼は、あやまちや罪があまりに大きいので、主は私たちの祈りをかえりみてくださらず、私たちを祝福し、救ってはくださらないと思わせようとします。私たち自身のうちには、欠点以外何も見られず、神様にとって魅力あるものは何も見られません。サタンは、無駄だ、品性の欠陥を改めることはできないとわたしたちに告げます。私たちが神様のもとに来ようとする時、敵は祈ってもむだだ、あなたはあの悪事をしたではないか、あなたは神様に対して罪を犯し、自己の良心にそむいたではないかとささやくでしょう。しかし、わたしたちは、「御子イエス様の血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」と敵に告げることができます(ヨハネ第一・1-7)、私たちが罪を犯した、祈ることができないと感じる時こそ、まさに祈るべき時なのです。恥じ、誇りをいたく傷つけられているかもしれませんが、祈り、かつ信じなければなりません。「『キリスト・イエス様は罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人の頭なのである。・・・」
あの十字架があるからこそ、信じがたい力をもって立ち上がることができます。そして、また、主イエス様が「生きて欲しい」と願われるのであれば、「生きてみようかな」と思うのです。
2009年11月17日火曜日
価値ある生き方 (5)
聖書の中にイエス様の4つの畑のたとえがあります。
道端に落ちた種
石地
茨の地
そして良い畑
僕が農業やるなら100%、良い地にしかまかないだろうな。しかし、あえて種は4つの畑にまかれています。しかも、「種」とは「一粒の種、もし死ななければ」とイエス様の犠牲を指しています。
自分の心が人に踏みつけられて「道ばた」のように固く思える時も、鳥が来て種を取っていってしまうように思われる時でも、石地のように思える時も、いばらの地に見えるときも、イエス様は種をお蒔きになられるようです。
悔い改めのくわをもって固い地を耕かし、自我の石を取り除き、いばらを抜きながら、前進です。
また、道端にも種をまかれるイエス様のことを思うとまだまだやることが、たくさんあることに気づきます。「あの人、道ばただから、いばらいっぱいだから・・・」と外見で判断してはならないようです。
僕の好きな言葉の中に「あなたがかえりみないその時こそ、その魂があなたの同情を最も必要としている時かも知れない」というものがあります。
反対している人でさえも・・・
血液の中の酸素の量を調べる機械にパルスオキシメーターというものがあります。今、ほとんどの病院で使用されていて、救急医療も含めて多くの人々の命を救っています。これは日本人の発明です。
それを開発者が学会で初めて発表したときに、その学会の座長がその器械に猛反対したそうです。後で、ある人がその座長に聞きました。「先生、どうしてあの時反対されたのですか?」
先生が答えたそうです。
「あまりにも素晴らしい発明だから、反対した」
イエス様の弟子たちから、猛反対を受けた「ナルドの香油」のお話もまた、イエス様が預言されたように全世界に伝えられ、至るところにその香りを放っています。
反対されたり、迫害の証を読むとき、「えーやだー、こんな目に会いたくない」と思う時は、何にも戦っていない時です。
人生の常である、躓いたり、失敗したり、反対を受けたり、上手くいかなかったりする、すなわち最も証を必要とする時、その時に最も力をいただくのは「雄々しく戦ってきた聖徒の方々の姿」です。
また相手が「許せない!」との超醜い罪深い心に勝利するのは(いろいろありとあらゆる事をやりましたけれど)、イエス様が十字架に架けられておられる中で、「父をお許しください、彼らは何をしているのか、分からずにいるのです」と仰せになったお姿でした。
心に「全て許し」と思うこと、それともう1つ「1万タラント借金」のたとえに関して、「この恩知らずの僕は自分が貸したお金のことばかり考えていた」との言葉でした。
(今は絶版「豊かな人生の秘訣」福音社 たしか英語名CHRIST’S OBJECT LESSONS 、当時ドイツかどこかの女王からも著者に丁寧なお礼状が届いた、とっても良い本です。)
心が解放されるありがたさ、これはその醜さ、罪深さを知っているだけに本当にありがたいものです。
この心の解放を告げるために、「山に、河に、町に、村に、道端に、石地に、茨の地に、身は炎に焼かれながらも」福音は伝えられています。
道端に落ちた種
石地
茨の地
そして良い畑
僕が農業やるなら100%、良い地にしかまかないだろうな。しかし、あえて種は4つの畑にまかれています。しかも、「種」とは「一粒の種、もし死ななければ」とイエス様の犠牲を指しています。
自分の心が人に踏みつけられて「道ばた」のように固く思える時も、鳥が来て種を取っていってしまうように思われる時でも、石地のように思える時も、いばらの地に見えるときも、イエス様は種をお蒔きになられるようです。
悔い改めのくわをもって固い地を耕かし、自我の石を取り除き、いばらを抜きながら、前進です。
また、道端にも種をまかれるイエス様のことを思うとまだまだやることが、たくさんあることに気づきます。「あの人、道ばただから、いばらいっぱいだから・・・」と外見で判断してはならないようです。
僕の好きな言葉の中に「あなたがかえりみないその時こそ、その魂があなたの同情を最も必要としている時かも知れない」というものがあります。
反対している人でさえも・・・
血液の中の酸素の量を調べる機械にパルスオキシメーターというものがあります。今、ほとんどの病院で使用されていて、救急医療も含めて多くの人々の命を救っています。これは日本人の発明です。
それを開発者が学会で初めて発表したときに、その学会の座長がその器械に猛反対したそうです。後で、ある人がその座長に聞きました。「先生、どうしてあの時反対されたのですか?」
先生が答えたそうです。
「あまりにも素晴らしい発明だから、反対した」
イエス様の弟子たちから、猛反対を受けた「ナルドの香油」のお話もまた、イエス様が預言されたように全世界に伝えられ、至るところにその香りを放っています。
反対されたり、迫害の証を読むとき、「えーやだー、こんな目に会いたくない」と思う時は、何にも戦っていない時です。
人生の常である、躓いたり、失敗したり、反対を受けたり、上手くいかなかったりする、すなわち最も証を必要とする時、その時に最も力をいただくのは「雄々しく戦ってきた聖徒の方々の姿」です。
また相手が「許せない!」との超醜い罪深い心に勝利するのは(いろいろありとあらゆる事をやりましたけれど)、イエス様が十字架に架けられておられる中で、「父をお許しください、彼らは何をしているのか、分からずにいるのです」と仰せになったお姿でした。
心に「全て許し」と思うこと、それともう1つ「1万タラント借金」のたとえに関して、「この恩知らずの僕は自分が貸したお金のことばかり考えていた」との言葉でした。
(今は絶版「豊かな人生の秘訣」福音社 たしか英語名CHRIST’S OBJECT LESSONS 、当時ドイツかどこかの女王からも著者に丁寧なお礼状が届いた、とっても良い本です。)
心が解放されるありがたさ、これはその醜さ、罪深さを知っているだけに本当にありがたいものです。
この心の解放を告げるために、「山に、河に、町に、村に、道端に、石地に、茨の地に、身は炎に焼かれながらも」福音は伝えられています。
価値ある生き方 (4)
日本の実話です。
あるお母さんに息子がいました。その息子がぐれて、悪をくり返したあげく、やくざの仲間にはいってしまいました。
しかしある時、息子が家に帰ってきます。
お母さんは息子さんの足音ですぐにわかります。
「この子に何かあった・・・」。お母さんが息子に聞いてみます。
「親分に不義理なことをして、指をつめて来いと言われた」息子は苦しそうに言います。
その時、お母さんは言います。「指をつめたら許してくれるのか」
息子は言います。「許してくれる」
「そうか」 お母さんは立ち上がり、迷うことなく、自分の指を切り落としました。
そして、その血だらけの指を包んで息子を連れてヤクザの親分のところへ行きます。
ヤクザの親分がその「お母さんの指」を見たとき、親分の体が震えたそうです。
お母さんは言います。「もう今後息子と関わりをもたないでください」と。
帰り道、お母さんは息子さんに言います。
「二度と、あの人たちの仲間になってはいけないよ」
あるお母さんに息子がいました。その息子がぐれて、悪をくり返したあげく、やくざの仲間にはいってしまいました。
しかしある時、息子が家に帰ってきます。
お母さんは息子さんの足音ですぐにわかります。
「この子に何かあった・・・」。お母さんが息子に聞いてみます。
「親分に不義理なことをして、指をつめて来いと言われた」息子は苦しそうに言います。
その時、お母さんは言います。「指をつめたら許してくれるのか」
息子は言います。「許してくれる」
「そうか」 お母さんは立ち上がり、迷うことなく、自分の指を切り落としました。
そして、その血だらけの指を包んで息子を連れてヤクザの親分のところへ行きます。
ヤクザの親分がその「お母さんの指」を見たとき、親分の体が震えたそうです。
お母さんは言います。「もう今後息子と関わりをもたないでください」と。
帰り道、お母さんは息子さんに言います。
「二度と、あの人たちの仲間になってはいけないよ」
価値ある生き方 (3)
アメリカの証です。
あるご主人方が,集まってお酒を飲みながら,自分の奥さんの自慢話をしていました。
「うちの奥さんの鼻の高いこと、世界一だ」
「うちの奥さんの料理のうまいこと、世界一だ」などなど。
その時、ある男が言いました。「うちの奥さんの怒らないこと、これが世界一だ」と・・・。
それを聞いた旦那さんが方はいっせいに「本当?」と言いました。アメリカでは奥さんは、いばって?いるそうです。
「よし、それではみんなで見に行こう」「そうしよう」とみんなでその家に行くことになりました。
その時刻、夜の三時半・・・。
ご主人が家の戸をたたきました。「おーい,ご主人様のお帰りだぞ!」
「なんですって、今何時だとおもっているの」・・・ではなく、
奥さんはすぐに家をあけました。
そこにいるのは、大勢のご主人の友達・・・。「今帰ったぞ、さあ、ご馳走、ご馳走!」とご主人はできるだけ奥さんを怒らせようとたきつけます。
「あんた、今何時だと思っているの、3時半になんか、出すものないわよ」ではなく、
「ごめんなさいね、わたしは料理が下手だから、少しおまちくださいね」
奥さんはお料理を作り始めます。
さすがの友達も、「わかった、わかった、お前の奥さん世界一だ」とみんな、食事ができる前に帰ってしまいました。
ようやく食事ができました。奥さんが運んでくると、「あら、お友達は?」
ご主人「帰ったよ、うん今帰った」
「え!帰った?あんた一人で食べなさい!」と御主人に頭からどばっとマカロニをかけた・・・のではなく、
奥さんは「ごめんなさいね、私の料理の作るのが遅くて、みなさん帰ってしまったのね。あなた、どんなに恥ずかしい思いをしたか、ごめんなさいね」とご主人に謝ったそうです。
さすがのご主人も参ってしまいました。「おれは、お前にこんなにつらく当たるのに、どうしていつもやさしくしてくれるんだ?」 彼女のチャンスがやって来ました。
「あなたは、イエス様を信じて私と一緒に天国へ行ってくれません。ですから、この地上で、あなたをできるだけ幸せにしてあげるの。私の幸せは天国に行ってから、それから始まるのですから」
「ごめんね、ぼくが悪かったよ」
それから、ご主人はイエス様を信じ、教会の長老さんになられたそうです。
あるご主人方が,集まってお酒を飲みながら,自分の奥さんの自慢話をしていました。
「うちの奥さんの鼻の高いこと、世界一だ」
「うちの奥さんの料理のうまいこと、世界一だ」などなど。
その時、ある男が言いました。「うちの奥さんの怒らないこと、これが世界一だ」と・・・。
それを聞いた旦那さんが方はいっせいに「本当?」と言いました。アメリカでは奥さんは、いばって?いるそうです。
「よし、それではみんなで見に行こう」「そうしよう」とみんなでその家に行くことになりました。
その時刻、夜の三時半・・・。
ご主人が家の戸をたたきました。「おーい,ご主人様のお帰りだぞ!」
「なんですって、今何時だとおもっているの」・・・ではなく、
奥さんはすぐに家をあけました。
そこにいるのは、大勢のご主人の友達・・・。「今帰ったぞ、さあ、ご馳走、ご馳走!」とご主人はできるだけ奥さんを怒らせようとたきつけます。
「あんた、今何時だと思っているの、3時半になんか、出すものないわよ」ではなく、
「ごめんなさいね、わたしは料理が下手だから、少しおまちくださいね」
奥さんはお料理を作り始めます。
さすがの友達も、「わかった、わかった、お前の奥さん世界一だ」とみんな、食事ができる前に帰ってしまいました。
ようやく食事ができました。奥さんが運んでくると、「あら、お友達は?」
ご主人「帰ったよ、うん今帰った」
「え!帰った?あんた一人で食べなさい!」と御主人に頭からどばっとマカロニをかけた・・・のではなく、
奥さんは「ごめんなさいね、私の料理の作るのが遅くて、みなさん帰ってしまったのね。あなた、どんなに恥ずかしい思いをしたか、ごめんなさいね」とご主人に謝ったそうです。
さすがのご主人も参ってしまいました。「おれは、お前にこんなにつらく当たるのに、どうしていつもやさしくしてくれるんだ?」 彼女のチャンスがやって来ました。
「あなたは、イエス様を信じて私と一緒に天国へ行ってくれません。ですから、この地上で、あなたをできるだけ幸せにしてあげるの。私の幸せは天国に行ってから、それから始まるのですから」
「ごめんね、ぼくが悪かったよ」
それから、ご主人はイエス様を信じ、教会の長老さんになられたそうです。
代償
さて、病院で使う消毒剤で最も強力なもので、(ちょっと専門的ですけど)グルタラール製剤というものがあります。これは、いわゆる「揮発」すなわち消毒剤から、気化するため、看護婦さんたちの健康に影響が出るといわれている薬です。
現在、ディスオーパ(スレッドに商品名書いてもいいのでしょうか…)という「揮発しない」製品が出ています。現在、僕の病院ではそれを使っています。しかし、「高い」です。しかし、「看護師を守るため」、特別に入れていただいたものです。
かつて病院では、注射針に針刺し事故防止装置がついていませんでした。針刺し事故とは、患者さんに刺した針を看護師がもう一度自分に刺してしまう事故です。その結果B型肝炎、C型肝炎、エイズなどに感染する可能性もあります。
ある時、注射針のメーカーさんと話をしていました。
「良い商品なんだけど、どうしても病院の委員会を通らないんです」
「しかし、1人の看護婦には、親があり、中には兄弟がいて、ご主人がいて、恋人がいて、中にはこれから結婚される方もいる。子さんがいらっしゃる方もいます。また、これから生まれてくる子供たちがいます」
「空気も汚くなった、川も、海も、山も・・・。ほんの少しでも良い世界をのこしてあげないと」
「 うちの病院では委員会が通らなくて、だめだけど、ぜひ他の病院でも広めてください。事故を起こした看護婦さんにあなたが抜けていたからだよ、じゃなくて私たちが、守ってあげないと」
「看護婦さんがどんなに疲れていても、苦しくても、どんなにあわてていても、急いでいても安全なように守ってあげるのが私たちの仕事です」
「いろいろ反対はあるかもしれないけれど、たった一人でも看護婦さんが、これで助かったらみんなで乾杯しましょう」
「一人の看護婦さんが、天国に入って自分の全生涯見せられたとき、『イエス様、わたしはこの時、「この安全針」で助かったんですね』と言えると良いですね」
その時、メーカーの営業の方々が立ち上がってくださいました。ある会社では、営業さんがタッグを組んで社長に直訴してくださいました。ある会社では、「上司から目をつぶってやれ」と言われました、とおっしゃっていました。そして、すべてのメーカーが、安全機構なしの針と同価格で入れてくれたのです。
院内の方々も信じてもらえませんでした。「そんなことはない!もう一度調べろ!」と言われれました。しかし調べると、それはやはり破格の金額でした。
今、病院で看護婦さんが使っている注射用の針、それはメーカーさんが一丸となり、看護婦さんの命のため、幸せのため入っているものです。
何年かたって、メーカーの次の営業の方が来られた時、「Sさん、彼、これ首を覚悟でやったんですよ」とおっしゃっていらしたことが、忘れられません。
「一人の人には、親がいて、また、人によっては兄弟がいて、また、お子さん、旦那さん、奥さんがいる」、これは教会で教わったことです。
1人の人生の尊さは、教会で教わりました。100万円かかって1人の人が救われるのなら安いものだ、と今でも世の中からつまはじきにされた方々に全財産、全生涯、億のローンを持たれながら、言うこと聞かない1人のためにいまも働いていらっしゃいます。そしてこのスピリットがたくさんの人々に、感動を呼び起こし、熱い炎を、そして温かい心を作り出しています。そして、その方々が、その火を今度は他の方々に分けあたえています。
「首覚悟」で病院の看護師の命のために働いてくださった方は、それから間もなく会社を辞められました。理由は教えてくれませんでした。
誰も感謝しないかも知れないけれど、馬鹿にするかもしれないけれど、神様を知らない方々が、教会の証に心が揺り動かされて、「看護師のために」と働いてくださったものです。
今、病院で働いている看護師たち、それは決して「安っぽい命」ではありません。
その方を育てて来られた親御さん、また兄弟、配偶者、子供たち、また、これから生まれてくる子供たち、その幸せを願ってみんなが1つとなって、働いてくださいました。
一人の命もまた、また「感謝しないかもしれないけれど」、「馬鹿にするかもしれないけれど」、父なる神様が、御子を手離して与えられたものです。「罪深い、もうだめだ」と思っているかもしれないけれど、すべてご存知でイエス様は命を捨ててくださいました。
「わたしに従いなさい」と。
「イエス様助けてください」とお祈りして聖書を開いて、何万回?助けていただいたかわかりません。
さてある時、先ほどの「社長に直訴してくださった」メーカーの営業本部長さんがいらっしゃいました。
「みな、初めに会社に入るときは、『人のために役に立ちたい』と入ってくるんですよ。しかし、3年、4年と経つと『営業成績』や『営業利益』などで最初のスピリットを忘れてしまうんです。しかし、この「安全針」の話があってから会社のものがみんな「最初のスピリット」と思い出したんです。そしたら、この針の売り上げが次の月倍に、またその次の月はその倍に、またその次の月はその倍に増えたんです。ありがとうございました。」
成績でも、利益でもない。
イエス様は、「神様の愛で心がときめいた尊い瞬間、初めの愛」を与えて下さっています。
「あなたは初めの愛から離れてしまった」
だからもう一度、変わらない愛のイエス様に戻りなさい、そのような招きを受けています。
現在、ディスオーパ(スレッドに商品名書いてもいいのでしょうか…)という「揮発しない」製品が出ています。現在、僕の病院ではそれを使っています。しかし、「高い」です。しかし、「看護師を守るため」、特別に入れていただいたものです。
かつて病院では、注射針に針刺し事故防止装置がついていませんでした。針刺し事故とは、患者さんに刺した針を看護師がもう一度自分に刺してしまう事故です。その結果B型肝炎、C型肝炎、エイズなどに感染する可能性もあります。
ある時、注射針のメーカーさんと話をしていました。
「良い商品なんだけど、どうしても病院の委員会を通らないんです」
「しかし、1人の看護婦には、親があり、中には兄弟がいて、ご主人がいて、恋人がいて、中にはこれから結婚される方もいる。子さんがいらっしゃる方もいます。また、これから生まれてくる子供たちがいます」
「空気も汚くなった、川も、海も、山も・・・。ほんの少しでも良い世界をのこしてあげないと」
「 うちの病院では委員会が通らなくて、だめだけど、ぜひ他の病院でも広めてください。事故を起こした看護婦さんにあなたが抜けていたからだよ、じゃなくて私たちが、守ってあげないと」
「看護婦さんがどんなに疲れていても、苦しくても、どんなにあわてていても、急いでいても安全なように守ってあげるのが私たちの仕事です」
「いろいろ反対はあるかもしれないけれど、たった一人でも看護婦さんが、これで助かったらみんなで乾杯しましょう」
「一人の看護婦さんが、天国に入って自分の全生涯見せられたとき、『イエス様、わたしはこの時、「この安全針」で助かったんですね』と言えると良いですね」
その時、メーカーの営業の方々が立ち上がってくださいました。ある会社では、営業さんがタッグを組んで社長に直訴してくださいました。ある会社では、「上司から目をつぶってやれ」と言われました、とおっしゃっていました。そして、すべてのメーカーが、安全機構なしの針と同価格で入れてくれたのです。
院内の方々も信じてもらえませんでした。「そんなことはない!もう一度調べろ!」と言われれました。しかし調べると、それはやはり破格の金額でした。
今、病院で看護婦さんが使っている注射用の針、それはメーカーさんが一丸となり、看護婦さんの命のため、幸せのため入っているものです。
何年かたって、メーカーの次の営業の方が来られた時、「Sさん、彼、これ首を覚悟でやったんですよ」とおっしゃっていらしたことが、忘れられません。
「一人の人には、親がいて、また、人によっては兄弟がいて、また、お子さん、旦那さん、奥さんがいる」、これは教会で教わったことです。
1人の人生の尊さは、教会で教わりました。100万円かかって1人の人が救われるのなら安いものだ、と今でも世の中からつまはじきにされた方々に全財産、全生涯、億のローンを持たれながら、言うこと聞かない1人のためにいまも働いていらっしゃいます。そしてこのスピリットがたくさんの人々に、感動を呼び起こし、熱い炎を、そして温かい心を作り出しています。そして、その方々が、その火を今度は他の方々に分けあたえています。
「首覚悟」で病院の看護師の命のために働いてくださった方は、それから間もなく会社を辞められました。理由は教えてくれませんでした。
誰も感謝しないかも知れないけれど、馬鹿にするかもしれないけれど、神様を知らない方々が、教会の証に心が揺り動かされて、「看護師のために」と働いてくださったものです。
今、病院で働いている看護師たち、それは決して「安っぽい命」ではありません。
その方を育てて来られた親御さん、また兄弟、配偶者、子供たち、また、これから生まれてくる子供たち、その幸せを願ってみんなが1つとなって、働いてくださいました。
一人の命もまた、また「感謝しないかもしれないけれど」、「馬鹿にするかもしれないけれど」、父なる神様が、御子を手離して与えられたものです。「罪深い、もうだめだ」と思っているかもしれないけれど、すべてご存知でイエス様は命を捨ててくださいました。
「わたしに従いなさい」と。
「イエス様助けてください」とお祈りして聖書を開いて、何万回?助けていただいたかわかりません。
さてある時、先ほどの「社長に直訴してくださった」メーカーの営業本部長さんがいらっしゃいました。
「みな、初めに会社に入るときは、『人のために役に立ちたい』と入ってくるんですよ。しかし、3年、4年と経つと『営業成績』や『営業利益』などで最初のスピリットを忘れてしまうんです。しかし、この「安全針」の話があってから会社のものがみんな「最初のスピリット」と思い出したんです。そしたら、この針の売り上げが次の月倍に、またその次の月はその倍に、またその次の月はその倍に増えたんです。ありがとうございました。」
成績でも、利益でもない。
イエス様は、「神様の愛で心がときめいた尊い瞬間、初めの愛」を与えて下さっています。
「あなたは初めの愛から離れてしまった」
だからもう一度、変わらない愛のイエス様に戻りなさい、そのような招きを受けています。
2009年11月16日月曜日
価値ある生き方(2) ~クリスチャンには休暇がない~
「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」とは主イエス様のお言葉ですsしかし、教会もまた、休暇のないところです。
毎日、夜10時まで開かれていて、どのような人が何時来ても良いようになっています。
困っている人が来ると、「いつでも電話していいよ」とおっしゃいます。
灯台はいつでも灯りをともしていることに意義があります。
「クリスチャンよ、イエス様の光はあなたから輝きでるのを決して忘れないでほしい。」
え~!毎日?
その献身的な姿は目に焼きついています。人が正しいことをしたいと願うのは、そのような姿を見るからなのかもしれません。
聖書の中に書いてあるイエス様のお姿 「彼は自分の魂の苦しみにより、光を見て満足する。」
ひょっとして、その光って、罪深い僕が悔い改める姿なのかなと思うと心に熱いものがこみ上げてきます。
多くの人が、自分の楽しみ、自分の人生、娯楽などに打ち騒いでいるとき、人の幸せのために生きる姿、それはなによりの説教です。
病院では病気の人は戦いです。それこそ休暇がありません。また、人生に絶望していたり、死んでしまいたいと思ったり、いじめられたりしている人々もまた戦いです。休暇はありません。少なくとも自分の場合はそうでした。
その中で、絶えざるお祈りのおかげで何度助けていただいたかわかりません。
教会ではバスで伝道旅行に行くときがあります。未信者のご家族の方々と一緒に交えての旅行です。みな、楽しく歌を歌ったり、証をしたりしていきます。皆で周りの景色に感動したり、とっても楽しい旅行です。
皆さん、楽しそうにされていますが、信仰の先を行く方々は、心の中ではその間、ずっと祈っていらっしゃいます。
さあ、ここまで書くと、「えー!たいへーん」となるでしょうか。
「伝道は最高のリクリエーションである」と有名な言葉があります。
証しているときや、人がイエス様の証に感動してくださる姿、涙ぐんでくださる姿、人生の重荷が軽くなる姿、それを見る喜び、それは最高級の“Re-Creation”(再創造)です。
毎日、夜10時まで開かれていて、どのような人が何時来ても良いようになっています。
困っている人が来ると、「いつでも電話していいよ」とおっしゃいます。
灯台はいつでも灯りをともしていることに意義があります。
「クリスチャンよ、イエス様の光はあなたから輝きでるのを決して忘れないでほしい。」
え~!毎日?
その献身的な姿は目に焼きついています。人が正しいことをしたいと願うのは、そのような姿を見るからなのかもしれません。
聖書の中に書いてあるイエス様のお姿 「彼は自分の魂の苦しみにより、光を見て満足する。」
ひょっとして、その光って、罪深い僕が悔い改める姿なのかなと思うと心に熱いものがこみ上げてきます。
多くの人が、自分の楽しみ、自分の人生、娯楽などに打ち騒いでいるとき、人の幸せのために生きる姿、それはなによりの説教です。
病院では病気の人は戦いです。それこそ休暇がありません。また、人生に絶望していたり、死んでしまいたいと思ったり、いじめられたりしている人々もまた戦いです。休暇はありません。少なくとも自分の場合はそうでした。
その中で、絶えざるお祈りのおかげで何度助けていただいたかわかりません。
教会ではバスで伝道旅行に行くときがあります。未信者のご家族の方々と一緒に交えての旅行です。みな、楽しく歌を歌ったり、証をしたりしていきます。皆で周りの景色に感動したり、とっても楽しい旅行です。
皆さん、楽しそうにされていますが、信仰の先を行く方々は、心の中ではその間、ずっと祈っていらっしゃいます。
さあ、ここまで書くと、「えー!たいへーん」となるでしょうか。
「伝道は最高のリクリエーションである」と有名な言葉があります。
証しているときや、人がイエス様の証に感動してくださる姿、涙ぐんでくださる姿、人生の重荷が軽くなる姿、それを見る喜び、それは最高級の“Re-Creation”(再創造)です。
2009年11月15日日曜日
価値ある生き方 (1)
今、NPOでペットボトルの蓋を集めて、それによってワクチンを恵まれない子供たちに届けようという運動があるそうです。
「お金を出せばいいじゃん」「どうせ、ほとんど誰かのポケットにはいってしまうよ」
ごもっともなお話です。
捨ててしまうゴミのようなペットボトルの蓋でも、「人を助けることができるんだ」「それならば、ましてや人間は、はるかに優れたものじゃないか」
僕の好きな言葉があります。「たとえ救われる人がたった一人だったとしても、イエス様は十字架の苦しみを受けられたであろう」
「あなたの努力が、99人の人から嘲笑や迫害しかうけなかったとしても、もし一人が救われたら、あなたは神様のために立派なことをしたことになるのです」
「もし自分がそのたった一人だったらどうだろう。100人分感謝しなきゃ・・・」
教会にいるといろいろな方々に出会います。才能があり、知恵があり、やさしく、「世の中で大成功するよ」と思う人。約束された将来、有望な地位を捨て、富や誉がいっぱいあった、あるいは用意されていた人生を捨てて、「人の救いのため」微笑みつつ生きている方たち。これも、またすごい奇跡です。
教会のため、人の救いのため、全財産、全時間かけて働いていらっしゃる方がいます。
ある時、その方に救われた人がこうたずねられました。「どうしたら、お返しすることができますか」
その方が微笑んでおっしゃいました。「あなたが幸せになることよ」
道端におちているペットボトルの「ふた」でさえ、ちいさな命を助けようとしています。
イエス様は今もなお、大勢の天使の方々、そして人間をお遣わしになられ、人を救っておられます。
「お金を出せばいいじゃん」「どうせ、ほとんど誰かのポケットにはいってしまうよ」
ごもっともなお話です。
捨ててしまうゴミのようなペットボトルの蓋でも、「人を助けることができるんだ」「それならば、ましてや人間は、はるかに優れたものじゃないか」
僕の好きな言葉があります。「たとえ救われる人がたった一人だったとしても、イエス様は十字架の苦しみを受けられたであろう」
「あなたの努力が、99人の人から嘲笑や迫害しかうけなかったとしても、もし一人が救われたら、あなたは神様のために立派なことをしたことになるのです」
「もし自分がそのたった一人だったらどうだろう。100人分感謝しなきゃ・・・」
教会にいるといろいろな方々に出会います。才能があり、知恵があり、やさしく、「世の中で大成功するよ」と思う人。約束された将来、有望な地位を捨て、富や誉がいっぱいあった、あるいは用意されていた人生を捨てて、「人の救いのため」微笑みつつ生きている方たち。これも、またすごい奇跡です。
教会のため、人の救いのため、全財産、全時間かけて働いていらっしゃる方がいます。
ある時、その方に救われた人がこうたずねられました。「どうしたら、お返しすることができますか」
その方が微笑んでおっしゃいました。「あなたが幸せになることよ」
道端におちているペットボトルの「ふた」でさえ、ちいさな命を助けようとしています。
イエス様は今もなお、大勢の天使の方々、そして人間をお遣わしになられ、人を救っておられます。
イエス様のお名前の御力
さてある時、信仰の先を行かれる方が「聖書関連の本」を読もうとしました。ところが、開こうとしてもどうしても開けませんでした。
「えい!」と力をかけて開きました。すると、そこには悪魔の方法、そして、それを見破る方法が書いていました。
こういう証は世界各国にあります。
ある牧師さんがいわゆる「霊媒師」の集会に行った時のことです。聖書ではそういうところには行ってはならない、と書いてありますが、その牧師は「あえて」いきます。すると、その集会の主が「今日、ここには来てはならない人が来ています」と言います。牧師は怖くなり、慌てて逃げ出します。すると、誰もいないのに後ろから捕まえられそうになります。「イエス様助けてください」と叫びます。すると、その手がぱっと外れます。家に帰って背中を見ると、背中に爪の後が残っていたそうです。
また朝鮮戦争のころ、ある教会員の息子さんが出兵しました。するとある時、「息子さんが戦死した」との連絡がアメリカ軍より来ます。
お母さんは、毎日嘆き悲しみます。するとある時、家をノックする音がします。それが「死人を呼び出す霊媒師への案内」でした。集会で「息子さんが現れて会いたい、と言っています」とのことでした。聖書ではそういうところへ行ってはならないと書いてあったため、行きませんでした。しかし、その案内が毎日来るのでお母さんは行くことにしました。そして、その集会に来てみると、その呼び出された「息子」に会いました。昔話もし「本物」でした。お母さんは、教会に行くことを止め、お金を払ってその集会に行くようになりました。そして言いました。「教会で言っていたことはうそだ」
ところがある時、また家をノックする音がしました。ドアを開けると「息子」が立っていました。「あれ、今日は会う日ではないわよ」とお母さんがびっくりして言いました。
息子は言いました。「何、言っているんだお母さん。僕は戦争に行って敵軍の捕虜になっていたんだ。友軍に助けられ、今日戻ってきたんだよ」。
お母さんは何がなんだか分からなくてびっくりしました。この後、このお母さんはその「偽者を見せた」霊媒師を相手取って裁判を起こしたそうです。夏なのでというわけではないですが、全て現実の話です。
もし、今まで書いてきた光の力強い天使の方々がいらっしゃらなかったら、恐れて当然です。しかし、「友なき友」のイエス様はすでに悪魔に勝ったお方です。忠実な一人の魂が悪魔に連れ去れるぐらいならば、天国の全ての天使をお遣わしになられても、その魂を守られます。あるクリスチャンの家をゲリラ兵が攻撃しようと思ったとき、その家見ると天の軍勢が守っていて攻撃できなかったそうです。「イエス様、お助けください」の声にいつでもあの釘付けられた御手を伸ばしてお救いになられます。
『イエス様お助けください、私たちは死にそうです』この叫びを上げて、かえりみられない魂はないのです。
人には言えない悩みを、たくさんの人が持っています。最近その中で、結構多くの方が持っているものが、「金縛り」「心霊写真」などサタン(敵という意味)特有の人を不安がらせる悩みでした。
クリスチャンの方々なら、必ず経験している「イエス様の御名にまさる名はなし」ということと、その悪魔でさえ信じておののいているイエス様のお力。
ある方が、ある普通の集会に出席していたとき、そこにいたある方が突然何やら呪文を唱え始めると、そこにいた方が椅子ごと宙に浮いたそうです。そして、次の人の前に来ると、その人もまた椅子ごと宙へ、そして次、次、とだんだんその方のところへ順番が近づいてきました。その方が「イエス様助けて!」と心の中で叫ぶとその人は前だけ通りすぎていきました。
アメリカではなんと「グランドピアノ」まで宙に浮くそうですから、すごいものです。戦争を引き起こし、恐ろしい犯罪を起こし、人を狂わせる、「敵」の力は今でも現実のものです。
このイエス様と悪魔の戦い、「敵」に勝利する秘訣を書いてあるのは、もちろん聖書です。(他にも、キリスト教の歴史を通して聖書にそって書いてあるのでとっても良い本には「各時代の大争闘」(福音社)があります。この本が書かれるにも壮絶な敵の妨害があり、著者も敵に殺されかかっていますが・・・しかし、イエス様が御守りになられ無事でした。)
敵が一番嫌がるのが、「イエス様のお力が大きくなること」です。敵の力を大きく言っているとだんだん勢力が大きくなるといわれています。逆にイエス様の愛、お力、強さ、偉大さのことを話しているとイエス様の勢力が強くなる、それで、ここではイエス様の証だけを載せようと決心しています。
イエス様はお弟子さん方にこうおっしゃっておられます。「だから、あなたがたに害を及ぼす者はまったく無いであろう」。すでに征服された敵として、見るようにとも言われています。
では、どうやってイエス様の御守りをいただくのか。
それがイエス様に詫びる心、「イエス様お助けください」「イエス様罪人の私をお許しください」の心、感謝の心、悔い改めの心、と教わっていることが、なんと、なんとありがたいことかと思います。
しかし、そのこともまだ知らず、なんと多くの人々が悩み、苦しんでいることか、恐れていることか。
「みんな、言えなくて黙っているだけなんだ」と思いました。
天使の方々は、「聖なるかな、聖なるかな」と同じお言葉を話していますが、そのことにより、神様に栄光を帰していると言われています。同じ証を何回言っても、良いそうです。
「えい!」と力をかけて開きました。すると、そこには悪魔の方法、そして、それを見破る方法が書いていました。
こういう証は世界各国にあります。
ある牧師さんがいわゆる「霊媒師」の集会に行った時のことです。聖書ではそういうところには行ってはならない、と書いてありますが、その牧師は「あえて」いきます。すると、その集会の主が「今日、ここには来てはならない人が来ています」と言います。牧師は怖くなり、慌てて逃げ出します。すると、誰もいないのに後ろから捕まえられそうになります。「イエス様助けてください」と叫びます。すると、その手がぱっと外れます。家に帰って背中を見ると、背中に爪の後が残っていたそうです。
また朝鮮戦争のころ、ある教会員の息子さんが出兵しました。するとある時、「息子さんが戦死した」との連絡がアメリカ軍より来ます。
お母さんは、毎日嘆き悲しみます。するとある時、家をノックする音がします。それが「死人を呼び出す霊媒師への案内」でした。集会で「息子さんが現れて会いたい、と言っています」とのことでした。聖書ではそういうところへ行ってはならないと書いてあったため、行きませんでした。しかし、その案内が毎日来るのでお母さんは行くことにしました。そして、その集会に来てみると、その呼び出された「息子」に会いました。昔話もし「本物」でした。お母さんは、教会に行くことを止め、お金を払ってその集会に行くようになりました。そして言いました。「教会で言っていたことはうそだ」
ところがある時、また家をノックする音がしました。ドアを開けると「息子」が立っていました。「あれ、今日は会う日ではないわよ」とお母さんがびっくりして言いました。
息子は言いました。「何、言っているんだお母さん。僕は戦争に行って敵軍の捕虜になっていたんだ。友軍に助けられ、今日戻ってきたんだよ」。
お母さんは何がなんだか分からなくてびっくりしました。この後、このお母さんはその「偽者を見せた」霊媒師を相手取って裁判を起こしたそうです。夏なのでというわけではないですが、全て現実の話です。
もし、今まで書いてきた光の力強い天使の方々がいらっしゃらなかったら、恐れて当然です。しかし、「友なき友」のイエス様はすでに悪魔に勝ったお方です。忠実な一人の魂が悪魔に連れ去れるぐらいならば、天国の全ての天使をお遣わしになられても、その魂を守られます。あるクリスチャンの家をゲリラ兵が攻撃しようと思ったとき、その家見ると天の軍勢が守っていて攻撃できなかったそうです。「イエス様、お助けください」の声にいつでもあの釘付けられた御手を伸ばしてお救いになられます。
『イエス様お助けください、私たちは死にそうです』この叫びを上げて、かえりみられない魂はないのです。
人には言えない悩みを、たくさんの人が持っています。最近その中で、結構多くの方が持っているものが、「金縛り」「心霊写真」などサタン(敵という意味)特有の人を不安がらせる悩みでした。
クリスチャンの方々なら、必ず経験している「イエス様の御名にまさる名はなし」ということと、その悪魔でさえ信じておののいているイエス様のお力。
ある方が、ある普通の集会に出席していたとき、そこにいたある方が突然何やら呪文を唱え始めると、そこにいた方が椅子ごと宙に浮いたそうです。そして、次の人の前に来ると、その人もまた椅子ごと宙へ、そして次、次、とだんだんその方のところへ順番が近づいてきました。その方が「イエス様助けて!」と心の中で叫ぶとその人は前だけ通りすぎていきました。
アメリカではなんと「グランドピアノ」まで宙に浮くそうですから、すごいものです。戦争を引き起こし、恐ろしい犯罪を起こし、人を狂わせる、「敵」の力は今でも現実のものです。
このイエス様と悪魔の戦い、「敵」に勝利する秘訣を書いてあるのは、もちろん聖書です。(他にも、キリスト教の歴史を通して聖書にそって書いてあるのでとっても良い本には「各時代の大争闘」(福音社)があります。この本が書かれるにも壮絶な敵の妨害があり、著者も敵に殺されかかっていますが・・・しかし、イエス様が御守りになられ無事でした。)
敵が一番嫌がるのが、「イエス様のお力が大きくなること」です。敵の力を大きく言っているとだんだん勢力が大きくなるといわれています。逆にイエス様の愛、お力、強さ、偉大さのことを話しているとイエス様の勢力が強くなる、それで、ここではイエス様の証だけを載せようと決心しています。
イエス様はお弟子さん方にこうおっしゃっておられます。「だから、あなたがたに害を及ぼす者はまったく無いであろう」。すでに征服された敵として、見るようにとも言われています。
では、どうやってイエス様の御守りをいただくのか。
それがイエス様に詫びる心、「イエス様お助けください」「イエス様罪人の私をお許しください」の心、感謝の心、悔い改めの心、と教わっていることが、なんと、なんとありがたいことかと思います。
しかし、そのこともまだ知らず、なんと多くの人々が悩み、苦しんでいることか、恐れていることか。
「みんな、言えなくて黙っているだけなんだ」と思いました。
天使の方々は、「聖なるかな、聖なるかな」と同じお言葉を話していますが、そのことにより、神様に栄光を帰していると言われています。同じ証を何回言っても、良いそうです。
2009年11月12日木曜日
再創造
「新しく造りかえられることこそ重要なのである」
たぶん、キリスト教の持つ最大のお力の一つのような気がします。奴隷商人だったジョンニュートンさんが「アメージンググレース」をつくられ、歓楽と冒涜の奴隷だったジョンバニアンさんが天路歴程を書かれ・・・。
このお力だけは、悪魔でさえ呆然と立ちつくすと言われるくらいすごいものです。
「禁煙なんて簡単さ、わたしはもう280回?もやっている」とおっしゃっていたのはマークトゥエインさん・・・。病院関係者なので、このために患者さんがどれほどの努力を払っていらっしゃるかは少しだけ知っています。禁煙ドックのため多額のお金を払い、禁煙外来、禁煙の薬、講習、禁断症状との闘い、禁煙OB会の組織・・・。
教会の経験あるクリスチャンの方は・・・超ヘビースモーカーで脳に腫瘍もでき、命が危ない青年に「タバコ呑んじゃいけないよ」とか、「~しちゃいけないよ」とはおっしゃいません。「男なら、1本、2本じゃなく、いっぺんに口にも鼻にも、耳にも20本くらい吸え!」くらいの勢いです。「しかし肺がんになるよ・・・」
伝道旅行にもアルコール中毒の初めての方には晩酌をつけてあげたり・・・。すると飲まれませんでした。
「聖霊様のお働きになられる余地をつくるのがクリスチャンの使命なのよ・・・」
そして、その若者も自分で気づいたら・・・タバコをやめていることを知ります。しかも禁断症状もなしに・・・。僕も医療に一応触れているので?他の方にいろいろ試行錯誤して禁煙させよう!としたこともあります。しかし、ことごとく失敗・・・。
ところが久しぶり会うと、その方も自然に「のみたくなくなったんだ」と言ってやめている姿に愕然・・・。造り主の御前に絶句する思いです。
さて、新生とは説明することはできないが、経験することはできる。この造り変えられていく過程は、「さなぎが蝶になる」とか「脱皮」?とかいろいろ説明されていますが、すごいものです。
「どんな人でも馬鹿にしちゃいけないよ。すべての人には神様の息がかかっているのだから」と教えられましたが、まさしくその通り。神様はどんな人をも造り変えることがおできになることをまのあたり見てきました。
「風は目に見えませんが、風の通った結果は、はっきりと見たり感じたりすることができます。聖霊が人の心に働くのも、ちょうど同じです。人の目には見えませんが、再創造の力が魂に新しい命を与え、神様のみかたちにしたがって新しい人をつくるのです。聖霊の働きは音もなく目にも見えませんが、その結果は明らかなものです。聖霊によって心が新たにされるならば、生活がその事実を証明します。わたしたちはどのようにしても自分の心を変えたり、神様と調和したりすることはできないのです。また、自己や自分の良い行いに頼ることもできませんが、心のうちに神様の恵みをやどしているかどうかはわたしたちの生活にあらわれてきます。性格に、習慣に、いっさいの行動に変化が起こりますから、過去と現在との間にはっきりと決定的な対照が見られるようにあります。人の性格はときどきの善行とか過ちでわかるのではなく、日常の言動の傾向によって知ることができるのです。」
多分、この御力抜きに、いろいろ説明しても周りに益にはならないかな・・・。人知ではとうていはかり知れないものです。しかし、それは事実、しかも喜ばしい現実です。
「世にはキリストのゆるしの愛を知り、本当に神様の子になりたいと望んでいながら、自分の性格が不完全で、生活にはあやまちが多いために、果たして自分の心が聖霊によって新たにされたかどうかと疑う人がいます。こうした場合に決して失望、落胆してはなりません。私たちは何度となく、欠点やあやまちを悔いてイエス様の足もとに泣き伏すことでしょう。けれども、そのために失望してはなりません。たとえ敵に敗れても、神様に捨てられ、拒まれたのではありません。キリストは神様の右に座し、わたしたちのために執り成しておられます。」
最後に今ふと、かなり久しぶりに思い出しました。フォントを思いっきり最小 min にしたいのですが、それこそ山の神、川の神・・・至るところのお地蔵さんを拝んで歩いていて、キリスト教に反対していたどっかの~すら・・・こんなところで証を書いているのです。
超不思議なものです???・・・
「何、言ってんの、まだまだ!」と愛の言葉が耳に響いてきます。
新しく造りかえられるとは、「新しく造り変えられ続けること」らしいです。終わりの時、「残りの教会は自分たちの罪深さに完全に気づいている」そうです。イエス様と共に歩むならば、人間もまた教会も・・・新しく造り変えられ続けるでしょう。
たぶん、キリスト教の持つ最大のお力の一つのような気がします。奴隷商人だったジョンニュートンさんが「アメージンググレース」をつくられ、歓楽と冒涜の奴隷だったジョンバニアンさんが天路歴程を書かれ・・・。
このお力だけは、悪魔でさえ呆然と立ちつくすと言われるくらいすごいものです。
「禁煙なんて簡単さ、わたしはもう280回?もやっている」とおっしゃっていたのはマークトゥエインさん・・・。病院関係者なので、このために患者さんがどれほどの努力を払っていらっしゃるかは少しだけ知っています。禁煙ドックのため多額のお金を払い、禁煙外来、禁煙の薬、講習、禁断症状との闘い、禁煙OB会の組織・・・。
教会の経験あるクリスチャンの方は・・・超ヘビースモーカーで脳に腫瘍もでき、命が危ない青年に「タバコ呑んじゃいけないよ」とか、「~しちゃいけないよ」とはおっしゃいません。「男なら、1本、2本じゃなく、いっぺんに口にも鼻にも、耳にも20本くらい吸え!」くらいの勢いです。「しかし肺がんになるよ・・・」
伝道旅行にもアルコール中毒の初めての方には晩酌をつけてあげたり・・・。すると飲まれませんでした。
「聖霊様のお働きになられる余地をつくるのがクリスチャンの使命なのよ・・・」
そして、その若者も自分で気づいたら・・・タバコをやめていることを知ります。しかも禁断症状もなしに・・・。僕も医療に一応触れているので?他の方にいろいろ試行錯誤して禁煙させよう!としたこともあります。しかし、ことごとく失敗・・・。
ところが久しぶり会うと、その方も自然に「のみたくなくなったんだ」と言ってやめている姿に愕然・・・。造り主の御前に絶句する思いです。
さて、新生とは説明することはできないが、経験することはできる。この造り変えられていく過程は、「さなぎが蝶になる」とか「脱皮」?とかいろいろ説明されていますが、すごいものです。
「どんな人でも馬鹿にしちゃいけないよ。すべての人には神様の息がかかっているのだから」と教えられましたが、まさしくその通り。神様はどんな人をも造り変えることがおできになることをまのあたり見てきました。
「風は目に見えませんが、風の通った結果は、はっきりと見たり感じたりすることができます。聖霊が人の心に働くのも、ちょうど同じです。人の目には見えませんが、再創造の力が魂に新しい命を与え、神様のみかたちにしたがって新しい人をつくるのです。聖霊の働きは音もなく目にも見えませんが、その結果は明らかなものです。聖霊によって心が新たにされるならば、生活がその事実を証明します。わたしたちはどのようにしても自分の心を変えたり、神様と調和したりすることはできないのです。また、自己や自分の良い行いに頼ることもできませんが、心のうちに神様の恵みをやどしているかどうかはわたしたちの生活にあらわれてきます。性格に、習慣に、いっさいの行動に変化が起こりますから、過去と現在との間にはっきりと決定的な対照が見られるようにあります。人の性格はときどきの善行とか過ちでわかるのではなく、日常の言動の傾向によって知ることができるのです。」
多分、この御力抜きに、いろいろ説明しても周りに益にはならないかな・・・。人知ではとうていはかり知れないものです。しかし、それは事実、しかも喜ばしい現実です。
「世にはキリストのゆるしの愛を知り、本当に神様の子になりたいと望んでいながら、自分の性格が不完全で、生活にはあやまちが多いために、果たして自分の心が聖霊によって新たにされたかどうかと疑う人がいます。こうした場合に決して失望、落胆してはなりません。私たちは何度となく、欠点やあやまちを悔いてイエス様の足もとに泣き伏すことでしょう。けれども、そのために失望してはなりません。たとえ敵に敗れても、神様に捨てられ、拒まれたのではありません。キリストは神様の右に座し、わたしたちのために執り成しておられます。」
最後に今ふと、かなり久しぶりに思い出しました。フォントを思いっきり最小 min にしたいのですが、それこそ山の神、川の神・・・至るところのお地蔵さんを拝んで歩いていて、キリスト教に反対していたどっかの~すら・・・こんなところで証を書いているのです。
超不思議なものです???・・・
「何、言ってんの、まだまだ!」と愛の言葉が耳に響いてきます。
新しく造りかえられるとは、「新しく造り変えられ続けること」らしいです。終わりの時、「残りの教会は自分たちの罪深さに完全に気づいている」そうです。イエス様と共に歩むならば、人間もまた教会も・・・新しく造り変えられ続けるでしょう。
2009年11月10日火曜日
事情
「イエス様は、ひとりひとりの魂の事情をご存知である。
自分は罪深い者だ、とても罪深い者だとあなたは言うだろう。
あるいはそうかもしれない。しかしあなたが悪ければ悪いほど、 イエス様が必要なのである。
主は泣いて悔い改める者を決して退けられない・・・。
主は、ふるえている魂に勇気を出しなさいと命じられる。
主は、赦しと回復とを求めてみもとに来る全ての者を快く赦して下さる。」
この言葉は、礼拝の週報に載っていたものです。
「久しぶりだな・・・」と思わず、思いました。当時、この文章を読んでいたとき、それは「必死」でした。それは、生きるか、死ぬかと真剣でした。それから・・・、これらの言葉は断片的にもいつでも思い出して助けていただいた言葉です。
そして、今は「これらの言葉は真実だった」と証できるかな・・・と思います。
近頃、かつて励まされた数々の聖句、証を思い出す機会がとっても多くなりました。「この約束も、この約束も本当だった」と思い返しています。
僕が、クリスチャンの方にお祈りしていただき、何年も水がたまっていた膝をいやしていただいたことがあります。膝が軽くなった時思い出した言葉は、「いやされたと信じて歩きなさい、そうすれば実現する」。
また、エリヤさんが何年も雨が降らなかった時、7回お祈りされます。そして、僕が小さな雲を見つけると、すぐさま「雨にとどめられないように車を整えて下れ」と王様に言うように命じます。エリヤさんは、小さな雲の中にあふれるばかりの雨を見出した。「これだ」と思いました。すると、痛みのため自転車では上れなかった坂を上れるようになり、正座ができるようになりました。
さて、癒されて1週間後、クリスチャンの看護学生が、とっても優しい声でこう聞きました。「足、大丈夫?」
この言葉は、心に深く染み入りました。
「いやし」の証が出ると、よく言われるのが「本物だろうか」「偽者じゃない」という論争です。僕の中でも反射的に、そういう言葉に身構えている姿がありました。
その時、「神様だもの、癒されて当然」ではなく、「足、大丈夫?」の言葉が心に入ったのです。
本物か、偽者か、そんな醜い裁く心ではなく、「心からその人を思う思いやり」が心を溶かしたのでした。
遠くの国に医療の奉仕に行く方々がいます。「いろいろ問題ある。こんな不正もある。そんなことしなくても、お金だせばいいじゃない」という話も聞きます。
しかし、今は「それで治った方々の幸せを喜ぶ」ようになりました。証を書いていて時々、読み返して「超恥ずかしい」文章にも会います。しかしその時ですら、暖かく「心で受け止めてくださった」方々がいらっしゃいます。
罪と必死で戦っていた姿、それは決して「きれいな」姿ではありませんでした。しかし、その戦っている姿を「いやしめもせず」「馬鹿にすることもなく」じっと、涙しながら見守ってくださった姿、そのおかげで今の人生があります。
心の罪との戦い、それは「聖なる戦い」とも呼ばれています。ビルに突っ込むことが聖なる戦いではありません。心の中の戦いです。
「彼らの聖なる戦いを記録天使に書いていただこう。彼らの涙を綴ってもらおう」。
「この醜い心」と「難行苦行によって」ではなく、「悔い改めの心によって戦う」ことが「聖なる戦い」です。
信仰の戦いの中にある「クリスチャン戦士」の方々に出会うとき、「あなたの姿が一番きれいだ」と言える心の目をもっていたいと思っています。
自分は罪深い者だ、とても罪深い者だとあなたは言うだろう。
あるいはそうかもしれない。しかしあなたが悪ければ悪いほど、 イエス様が必要なのである。
主は泣いて悔い改める者を決して退けられない・・・。
主は、ふるえている魂に勇気を出しなさいと命じられる。
主は、赦しと回復とを求めてみもとに来る全ての者を快く赦して下さる。」
この言葉は、礼拝の週報に載っていたものです。
「久しぶりだな・・・」と思わず、思いました。当時、この文章を読んでいたとき、それは「必死」でした。それは、生きるか、死ぬかと真剣でした。それから・・・、これらの言葉は断片的にもいつでも思い出して助けていただいた言葉です。
そして、今は「これらの言葉は真実だった」と証できるかな・・・と思います。
近頃、かつて励まされた数々の聖句、証を思い出す機会がとっても多くなりました。「この約束も、この約束も本当だった」と思い返しています。
僕が、クリスチャンの方にお祈りしていただき、何年も水がたまっていた膝をいやしていただいたことがあります。膝が軽くなった時思い出した言葉は、「いやされたと信じて歩きなさい、そうすれば実現する」。
また、エリヤさんが何年も雨が降らなかった時、7回お祈りされます。そして、僕が小さな雲を見つけると、すぐさま「雨にとどめられないように車を整えて下れ」と王様に言うように命じます。エリヤさんは、小さな雲の中にあふれるばかりの雨を見出した。「これだ」と思いました。すると、痛みのため自転車では上れなかった坂を上れるようになり、正座ができるようになりました。
さて、癒されて1週間後、クリスチャンの看護学生が、とっても優しい声でこう聞きました。「足、大丈夫?」
この言葉は、心に深く染み入りました。
「いやし」の証が出ると、よく言われるのが「本物だろうか」「偽者じゃない」という論争です。僕の中でも反射的に、そういう言葉に身構えている姿がありました。
その時、「神様だもの、癒されて当然」ではなく、「足、大丈夫?」の言葉が心に入ったのです。
本物か、偽者か、そんな醜い裁く心ではなく、「心からその人を思う思いやり」が心を溶かしたのでした。
遠くの国に医療の奉仕に行く方々がいます。「いろいろ問題ある。こんな不正もある。そんなことしなくても、お金だせばいいじゃない」という話も聞きます。
しかし、今は「それで治った方々の幸せを喜ぶ」ようになりました。証を書いていて時々、読み返して「超恥ずかしい」文章にも会います。しかしその時ですら、暖かく「心で受け止めてくださった」方々がいらっしゃいます。
罪と必死で戦っていた姿、それは決して「きれいな」姿ではありませんでした。しかし、その戦っている姿を「いやしめもせず」「馬鹿にすることもなく」じっと、涙しながら見守ってくださった姿、そのおかげで今の人生があります。
心の罪との戦い、それは「聖なる戦い」とも呼ばれています。ビルに突っ込むことが聖なる戦いではありません。心の中の戦いです。
「彼らの聖なる戦いを記録天使に書いていただこう。彼らの涙を綴ってもらおう」。
「この醜い心」と「難行苦行によって」ではなく、「悔い改めの心によって戦う」ことが「聖なる戦い」です。
信仰の戦いの中にある「クリスチャン戦士」の方々に出会うとき、「あなたの姿が一番きれいだ」と言える心の目をもっていたいと思っています。
滅びるのは難しい
「信仰による義とは、実際的な行為であって、単なる理論ではありません。それは、実際には大変な悪人なのに天国に入れてしまうというのではなく、そうする必要がないようにつくり変えるのです」 「信仰によって義とされる、とは律法を行う者につくり変える、ということです」
ある日、僕が教会員の人に話していました。「僕なんか、死んだほうがいい」と。教会の人は一生懸命説得してくださっていました。
聖書には、「あなたがたは神様の宮であって、神様の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神様の宮を破壊するなら、神様はその人を滅ぼすであろう」と書いてありました。
さて、その週の安息日、そんなことはつゆとして知らない、一年に一度いらっしゃる牧師さんが礼拝説教でした。
礼拝説教の内容はなんと「自殺してはいけない」でした。「ああ、この教会は神様がご支配されておられる」と痛感しました。
その話の中で、ある少女が学校でいじめられていました。もう、いよいよ自殺しようとしたその日、何気なく最後に学校の机の中に手を入れると、一枚の手紙が入っていました。
そこにはこう書いてありました。「自分だけだ、と思わないでね・・・」。この一枚の手紙により彼女は助けられました。
主は一人の罪人を救うため、礼拝説教まで導かれるのだと思いました。そして、その後も無数のお恵みにより「生きる喜び、希望ある人間」へつくり変えてくださいます。これは、ただ陰の祈るクリスチャンの方々がいらっしゃったおかげです。
もちろん、つくり変えられるのは「自殺」ばかりではありません。私たちの罪は髪の毛よりも多いのですから・・・。
しかし、裏切った時にも、逃げたときにも、主はそこで待っておられました。「主の恵みはあなたを追う」とあります。
「カラスの子が神様に向かって呼ばわり、食物がなくて、さまようとき、カラスにえさを与える者はだれか」。この御方は食事をも備えたもうお方です。(迫害や病で食事も食べられず苦しんでいらっしゃる方いらしたら、ごめんなさい。)
神様は人を救われるために追われます。そこから、「滅びる」ことは本当に難しいです。
1日振り返っただけでも、主のお恵みは溢れるばかりに見つかります。
スズメたちは、いつも主を賛美しています。明日は枯れて、火に投げ入れられる草木も同様です。しかし、罪に固まるとそれすらも見えなくなってしまいます。
祝福ってどういう心にそそがれるのでしょうか。「ああ、自分は罪ばかりだ、罪の奴隷だ、絶望だ!」という心?しかし、主は「自分は、豊かになった、何の不自由も無い」と思っていたら素通りされていかれるように思います。
「罪人であるわたしをお許しください」と涙ながらに叫ぶとき、「イエス様助けて!わたしたちは死にそうです」と叫ぶとき、主イエス様の祝福が一番近くに感じられるようです。
悔い改めとはギリシャ語で「メタノエオー」。考えが変わるという意味だそうです。すなわち、魂がイエス様に向きなおることだそうです。
ある日、僕が教会員の人に話していました。「僕なんか、死んだほうがいい」と。教会の人は一生懸命説得してくださっていました。
聖書には、「あなたがたは神様の宮であって、神様の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神様の宮を破壊するなら、神様はその人を滅ぼすであろう」と書いてありました。
さて、その週の安息日、そんなことはつゆとして知らない、一年に一度いらっしゃる牧師さんが礼拝説教でした。
礼拝説教の内容はなんと「自殺してはいけない」でした。「ああ、この教会は神様がご支配されておられる」と痛感しました。
その話の中で、ある少女が学校でいじめられていました。もう、いよいよ自殺しようとしたその日、何気なく最後に学校の机の中に手を入れると、一枚の手紙が入っていました。
そこにはこう書いてありました。「自分だけだ、と思わないでね・・・」。この一枚の手紙により彼女は助けられました。
主は一人の罪人を救うため、礼拝説教まで導かれるのだと思いました。そして、その後も無数のお恵みにより「生きる喜び、希望ある人間」へつくり変えてくださいます。これは、ただ陰の祈るクリスチャンの方々がいらっしゃったおかげです。
もちろん、つくり変えられるのは「自殺」ばかりではありません。私たちの罪は髪の毛よりも多いのですから・・・。
しかし、裏切った時にも、逃げたときにも、主はそこで待っておられました。「主の恵みはあなたを追う」とあります。
「カラスの子が神様に向かって呼ばわり、食物がなくて、さまようとき、カラスにえさを与える者はだれか」。この御方は食事をも備えたもうお方です。(迫害や病で食事も食べられず苦しんでいらっしゃる方いらしたら、ごめんなさい。)
神様は人を救われるために追われます。そこから、「滅びる」ことは本当に難しいです。
1日振り返っただけでも、主のお恵みは溢れるばかりに見つかります。
スズメたちは、いつも主を賛美しています。明日は枯れて、火に投げ入れられる草木も同様です。しかし、罪に固まるとそれすらも見えなくなってしまいます。
祝福ってどういう心にそそがれるのでしょうか。「ああ、自分は罪ばかりだ、罪の奴隷だ、絶望だ!」という心?しかし、主は「自分は、豊かになった、何の不自由も無い」と思っていたら素通りされていかれるように思います。
「罪人であるわたしをお許しください」と涙ながらに叫ぶとき、「イエス様助けて!わたしたちは死にそうです」と叫ぶとき、主イエス様の祝福が一番近くに感じられるようです。
悔い改めとはギリシャ語で「メタノエオー」。考えが変わるという意味だそうです。すなわち、魂がイエス様に向きなおることだそうです。
2009年11月8日日曜日
種をまく人
僕は牧師でも、宣教師でもないですので、聖書の意味を解き明かすなんて無理です。しかし、それでも聖書は本当に素晴らしい恵みいっぱいの本です。
聖書の中にある種まきのたとえ、4つの畑、道端、石地、茨の地、良い畑・・・。僕なら、絶対に良い畑だけに蒔きます。道端に落ちたら拾って良い畑へ・・・。ところが、種を蒔かれるイエス様は、4つのすべてにお播きになられます。そんなこと無駄じゃない、結果ももうわかっているのに。初めから終わりまで見通される御方が誰よりもご存知なのに?
いろいろな人々と証をしていると、びっくりすることがあります。ビジネス界でバリバリに働いていらっしゃる方、「やくざ」まがいの会社?の方、いわゆるキャリアウーマン、朝から晩まで夜遅く夜中まで働いていらっしゃる方々、
だんだん話が進むと、意外なくらい聖書を知っています。
小さいころ、幼稚園が、大学が、ミッション系だった、ご家族がほとんどクリスチャンだった。特定の宗教は持っていないけれど、人間を超えた存在を信じている方々、かなりいらっしゃいます。
種を蒔かれるお方は、人間とは到底およびがつかないくらい大きな愛をもって、一人、一人の人生に種を蒔いておられるのがわかってきました。
誰が蒔いたのかな?以前は超自然的な方法で?と思っていました。
ある時、「誰かが」蒔いたんだ!と当然の事に気付きました。誰かが祈り、誰かが勇気をもって、誰かが時間を割き、伝えたのです。
引用文ですが・・・
このため、ワルデンセスの宣教師は、関心を持った人々に福音の尊い真理を熱心に伝えた。彼らは聖書の写本の一部を用心深く取り出した。刑罰の執行官のようにいかめしく構え、報復のみを行う神しか知らず、罪悪感に襲われ、いつも恐れおののいている人々に希望を与えることは、彼らにとって何よりの喜びであった。彼らは感動に唇をふるわせ、目に涙を浮かべながら、そして時折ひざまずいて、罪人の希望を告げる尊い神様の約束を彼らの同胞に読んで聞かせた。こうして真理の光は暗黒の中にある無数の人々の心を照らし、覆いかぶさるような暗雲を取り除き、ついには、その光にことごとく癒す力がある義の太陽が彼らの心にさし込むようになった。しばしば聖書のある部分は、くり返し何度も何度も読むことを相手から望まれた。あたかもそれが聞き違いではないかと確かめているようであった。特に次のような聖句は何度もくり返して読むように要求された。「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」「そして、ちょうどモーセが荒野でへびをあげたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」
道端の地は、人の足で、あるいは車輪で押し固められた心とも言われます。人は、打たれているうちに、心を閉じてしまったり、防衛本能で固めてしまっていることがとっても多いようです。よく「こわ~い看護婦さん」と言われますが、一応?彼女たちも「白衣の天使」を目指した?方々、ところが患者さんに怒鳴られたり、厳しい現実に出会い、「鬼になっている?」ケースも多いようです。そして、内心かなり葛藤している・・・。
お金のことしか興味がない?と思える「茨の地」(勝手にきめこんでいるのでしょう)方々でさえ、「一度も、誰にも心を開いたことがないのですが」と言いながら、心の中にある神様について話してくださったり・・・。超一流のメーカー営業マンでさえ、「親にも、家族にいえない心の闇」を持っていたり・・・。少なくとも、イエス様が「良い地だけ」に種をまかれていたら・・・、「おちこぼれ」はこの世にいなかったでしょう。
こんな言葉が大好きです。
「おそらく、あなたが顧みないその時こそ、彼らがあなたの同情を最も必要としている時である」
悪魔も馬鹿じゃないです。必要な魂がいるときには、周りの人がそれに気がつかないように働きます。
聖書の中にある種まきのたとえ、4つの畑、道端、石地、茨の地、良い畑・・・。僕なら、絶対に良い畑だけに蒔きます。道端に落ちたら拾って良い畑へ・・・。ところが、種を蒔かれるイエス様は、4つのすべてにお播きになられます。そんなこと無駄じゃない、結果ももうわかっているのに。初めから終わりまで見通される御方が誰よりもご存知なのに?
いろいろな人々と証をしていると、びっくりすることがあります。ビジネス界でバリバリに働いていらっしゃる方、「やくざ」まがいの会社?の方、いわゆるキャリアウーマン、朝から晩まで夜遅く夜中まで働いていらっしゃる方々、
だんだん話が進むと、意外なくらい聖書を知っています。
小さいころ、幼稚園が、大学が、ミッション系だった、ご家族がほとんどクリスチャンだった。特定の宗教は持っていないけれど、人間を超えた存在を信じている方々、かなりいらっしゃいます。
種を蒔かれるお方は、人間とは到底およびがつかないくらい大きな愛をもって、一人、一人の人生に種を蒔いておられるのがわかってきました。
誰が蒔いたのかな?以前は超自然的な方法で?と思っていました。
ある時、「誰かが」蒔いたんだ!と当然の事に気付きました。誰かが祈り、誰かが勇気をもって、誰かが時間を割き、伝えたのです。
引用文ですが・・・
このため、ワルデンセスの宣教師は、関心を持った人々に福音の尊い真理を熱心に伝えた。彼らは聖書の写本の一部を用心深く取り出した。刑罰の執行官のようにいかめしく構え、報復のみを行う神しか知らず、罪悪感に襲われ、いつも恐れおののいている人々に希望を与えることは、彼らにとって何よりの喜びであった。彼らは感動に唇をふるわせ、目に涙を浮かべながら、そして時折ひざまずいて、罪人の希望を告げる尊い神様の約束を彼らの同胞に読んで聞かせた。こうして真理の光は暗黒の中にある無数の人々の心を照らし、覆いかぶさるような暗雲を取り除き、ついには、その光にことごとく癒す力がある義の太陽が彼らの心にさし込むようになった。しばしば聖書のある部分は、くり返し何度も何度も読むことを相手から望まれた。あたかもそれが聞き違いではないかと確かめているようであった。特に次のような聖句は何度もくり返して読むように要求された。「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」「そして、ちょうどモーセが荒野でへびをあげたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」
道端の地は、人の足で、あるいは車輪で押し固められた心とも言われます。人は、打たれているうちに、心を閉じてしまったり、防衛本能で固めてしまっていることがとっても多いようです。よく「こわ~い看護婦さん」と言われますが、一応?彼女たちも「白衣の天使」を目指した?方々、ところが患者さんに怒鳴られたり、厳しい現実に出会い、「鬼になっている?」ケースも多いようです。そして、内心かなり葛藤している・・・。
お金のことしか興味がない?と思える「茨の地」(勝手にきめこんでいるのでしょう)方々でさえ、「一度も、誰にも心を開いたことがないのですが」と言いながら、心の中にある神様について話してくださったり・・・。超一流のメーカー営業マンでさえ、「親にも、家族にいえない心の闇」を持っていたり・・・。少なくとも、イエス様が「良い地だけ」に種をまかれていたら・・・、「おちこぼれ」はこの世にいなかったでしょう。
こんな言葉が大好きです。
「おそらく、あなたが顧みないその時こそ、彼らがあなたの同情を最も必要としている時である」
悪魔も馬鹿じゃないです。必要な魂がいるときには、周りの人がそれに気がつかないように働きます。
心の癒し主
さて僕も、医療のはしっこにちょっぴりひっかかっている者ですから、親しい人でタバコをのんでいる人がいると、「タバコは良くないよ」と言います。しかし、今までひょっとして一人もも?止めてくれた人がいません。まさに、「おちこぼれ」です。
僕の恩師は、クリスチャンではありませんでしたが、「おちこぼれ」よりはるかに優しい先生でした。授業中、ポケットにタバコを持っている学生がいると、ポケットのタバコを取って「なんだ、これ!」と叱る方でした。隣の棟でタバコを吸っている学生を見ると、すぐに飛んで行って叱っていました。道端で歩いている学生がタバコを持っているとその場所でも叱る先生でした。
先生は外科医で、長い間肺がんの患者さんと一緒に癌と戦ってきた医師でした。「タバコから生じる肺がんは小細胞癌と言って、とっても悪性なんだよ」と力をこめて講義されていた姿は忘れられません。皆から恐れられていましたが、優しい先生です。
しかし、学生は結構、隠れて吸っていました。
教会の先を行くクリスチャンの方はタバコを吸っている若者には、「吸え、吸え、どうせ吸うなら、一本、二本じゃなくて、一度に十本ぐらい、耳にも、鼻にも入れて吸え!」とおっしゃります。そして、「でも、肺がんになるよ」と。
教会みんなで旅行をするときも、晩酌をする未信者の方が一緒にいらっしゃると食事の時、お酒をつけてあげます。すると、「いや、みなさん飲まれないので」と快く飲まれません。
脳腫瘍でヘビースモーカーのある若者が教会に来ました。クリスチャンの方は、その若者のため、毎日会席料理のような食事を毎日作られました。そして、仕事を整え、服を買ってあげ、靴をそろえ、生活を整えられました。そして、仕事が嫌いな彼のため「これほど祈ったことがない」とおっしゃるほど祈られました。すると、脳腫瘍は治り、タバコも「禁断症状なし」に自然と「気がついたら」やめていました。
あるところに、一人の「飲んだくれ」がいました。ある時、滅茶苦茶酔っ払って、その勢いで教会の講演会に飛び込みました。そして講演会中、真ん中のストーブのそばで気持ちよく寝てしまいました。講演会が終わり、みなさんが帰られました。牧師さんが、その男に近づくと、その男が言いました。「さあ、酔いもさめたし、帰るかな」。その時、男が言いました。「俺は、どうしても酒がやめられないんだよ」。牧師さんは「お祈りしましょう」といい、二人でお祈りしました。お祈りが終わると、男がお祈りの仕方を教えて欲しいと言いました。牧師さんが教えると覚えられなかったので、「もっと短く」と言いました。牧師さんが短くすると、「もっと短く」と言いました。
とうとう、ヨハネによる福音書3章16節、「神様はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは彼を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。アーメン」になってしまいました。
男が家に帰りました。いつもなら玄関をダーン!蹴っ飛ばして入ってくるのが、この夜はそろそろ・・・。奥さんがびっくりして、「あなたどうしたの?」。
「俺は変わった、今日から変わった」。
奥さんはますます心配して、「お父さん、確かに変わったよ、どうしたの?今日は早く休みんだら?」。
「その前にお祈りだ」。
家族はもうびっくりでした。
そこで男は家族と一緒にひざまづきお祈りしました。「ヨハネ3章の16節。アーメン」
次の日、仕事の帰り道 いつもの酒場の道に彼は行きませんでした。「おーいオールドジョン!道間違えたか?」。仲間が酒場から大声で呼びました。男は答えます。「おれは、オールドじゃないよ。ニュージョンだ」。
彼は教会に行きクリスチャンになりました。
イエス様は、人の心も・・・癒してくださいます
僕の恩師は、クリスチャンではありませんでしたが、「おちこぼれ」よりはるかに優しい先生でした。授業中、ポケットにタバコを持っている学生がいると、ポケットのタバコを取って「なんだ、これ!」と叱る方でした。隣の棟でタバコを吸っている学生を見ると、すぐに飛んで行って叱っていました。道端で歩いている学生がタバコを持っているとその場所でも叱る先生でした。
先生は外科医で、長い間肺がんの患者さんと一緒に癌と戦ってきた医師でした。「タバコから生じる肺がんは小細胞癌と言って、とっても悪性なんだよ」と力をこめて講義されていた姿は忘れられません。皆から恐れられていましたが、優しい先生です。
しかし、学生は結構、隠れて吸っていました。
教会の先を行くクリスチャンの方はタバコを吸っている若者には、「吸え、吸え、どうせ吸うなら、一本、二本じゃなくて、一度に十本ぐらい、耳にも、鼻にも入れて吸え!」とおっしゃります。そして、「でも、肺がんになるよ」と。
教会みんなで旅行をするときも、晩酌をする未信者の方が一緒にいらっしゃると食事の時、お酒をつけてあげます。すると、「いや、みなさん飲まれないので」と快く飲まれません。
脳腫瘍でヘビースモーカーのある若者が教会に来ました。クリスチャンの方は、その若者のため、毎日会席料理のような食事を毎日作られました。そして、仕事を整え、服を買ってあげ、靴をそろえ、生活を整えられました。そして、仕事が嫌いな彼のため「これほど祈ったことがない」とおっしゃるほど祈られました。すると、脳腫瘍は治り、タバコも「禁断症状なし」に自然と「気がついたら」やめていました。
あるところに、一人の「飲んだくれ」がいました。ある時、滅茶苦茶酔っ払って、その勢いで教会の講演会に飛び込みました。そして講演会中、真ん中のストーブのそばで気持ちよく寝てしまいました。講演会が終わり、みなさんが帰られました。牧師さんが、その男に近づくと、その男が言いました。「さあ、酔いもさめたし、帰るかな」。その時、男が言いました。「俺は、どうしても酒がやめられないんだよ」。牧師さんは「お祈りしましょう」といい、二人でお祈りしました。お祈りが終わると、男がお祈りの仕方を教えて欲しいと言いました。牧師さんが教えると覚えられなかったので、「もっと短く」と言いました。牧師さんが短くすると、「もっと短く」と言いました。
とうとう、ヨハネによる福音書3章16節、「神様はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは彼を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。アーメン」になってしまいました。
男が家に帰りました。いつもなら玄関をダーン!蹴っ飛ばして入ってくるのが、この夜はそろそろ・・・。奥さんがびっくりして、「あなたどうしたの?」。
「俺は変わった、今日から変わった」。
奥さんはますます心配して、「お父さん、確かに変わったよ、どうしたの?今日は早く休みんだら?」。
「その前にお祈りだ」。
家族はもうびっくりでした。
そこで男は家族と一緒にひざまづきお祈りしました。「ヨハネ3章の16節。アーメン」
次の日、仕事の帰り道 いつもの酒場の道に彼は行きませんでした。「おーいオールドジョン!道間違えたか?」。仲間が酒場から大声で呼びました。男は答えます。「おれは、オールドじゃないよ。ニュージョンだ」。
彼は教会に行きクリスチャンになりました。
イエス様は、人の心も・・・癒してくださいます
2009年11月3日火曜日
支え人
今まで書いてきましたが、僕自身、あと癌で二ヶ月といわれたクリスチャン女性の方にイエス様に導いていただいていますので、女性たちの影響力の大きさは非常に大きいです。
彼女たちの、純潔、清さ、あたたかさ、気力、洞察力、忍耐、思いやりの深さ、また、箴言の最後の章に書いている姿を地で生きていらっしゃる方・・・。
自分たちにはいつも厳しく、「怠りの糧を食べることをしない」どころか、そんな姿を一度として見た事がないほど、働かれます。作られる食事、デザートはいつも工夫と愛情があります。工夫、時間のかけ方、材料の選び方、努力、食べる人への思いやり、季節感、手を抜かない・・・食べ物を見ればすぐにわかります。
「信仰は料理に現れるのよ」「喜ぶ顔がみたい、という心で作るのよ」ととっても簡単におっしゃいます。作られた料理に、現れているので「そうだな・・・」と納得せざるを得ないです。ニンジンを不器用にトン、トトンと切っている僕は、言葉もでない状況です。しかも、それでいて、「ごめんね」との心を決して忘れられません。
家庭、教会をいつも明るい雰囲気に変えてしまいます。罪を罪と呼ばれますが、また、思いやりのないことをとっても嫌われますので、そばにいるだけで、「これは、まずいな・・・」と自らの思いやりのなさにすぐ気がつきます。
心の謙遜さは、全身から表れています。お会いしただけで、「自分は傲慢だ」とすぐわかります。1日中、それこそ謙遜に徹してきて、夜、お会いすると、「なんて自分は傲慢なんだ」とわかります。
服装はいつもセンスがとっても良く、当然のことですが、清潔です。
快活で、ユーモアがあり、それでいて、人の痛みがよくわかっている。また、奥が深い・・・。また、陰で祈っていてくれていることがわかる・・・。
「女は支え人として造られたのよ」「だから女が支えないと男の人は倒れるのよ」「男の人は、車輪、女は心棒なのよ」「まず女が変わらなければだめなのよ」「男の人が飲んだくれで、乱れていても、女は子供のために身を清く保たなければならないのよ」
単に傍から聞くこの言葉の印象と、自分だったらどうだろう、すなわち自分が女性だったらこう話せるかな・・・と思うことでは、とんでもない違いがあります。
ご自分にも厳しいですが、また、「愛はすばやく発見する」と本に書いてありますが、その洞察力は本当にすごいもので、まるで生活の隅々まで見ているかのよう。また心まで見通しているかのようです。
「彼女たちの目に恥じ入ることのないように」と思うだけで相当意識が変わります。
そして、その純潔な、また清らかな人生、雰囲気、そしてそれがごく自然・・・がどれほど人生の力になっているか測り知れないほどです。
僕にとって、クリスチャン女性の評価は非常に高いです。多分、今まであった方々の素晴らしい影響力により、クリスチャンの女性って、みなそうなんだという方向で人を見ているだろうなあ、と思っています。
さて、しかし、「そうか、女性の方々がんばってください」なんてまったく思いません。みな人形ではなく、感情もあり、躓いたり、疲れたり、失望したり、悲しんだり、怒ったりする、人間ですから。「試練、耐えがたい悲しみ、抵抗しがたい誘惑を持っていない人は一人もいない」とあるとおりです。彼女たちのイエス様への献身により、数々の御業が現われるのでしょう。
クリスチャンは「善においては互いに競争者」ですので、心ひそかに「負けてたまるか・・・」と思いつつ・・・。
たとえが適切でなかったらごめんなさい。おとぎ話の中に、「孫悟空が釈迦から逃げようと思って、金と雲にのって世界のはしっこまでずっと逃げていきます。もう、追って来れないだろうと思います。しかし、それは気づいたら釈迦の手の中だった」という話がありますが。
結構「あれ?いろいろやっているようだけど、彼女たちの細かい配慮や陰の働き、忍耐、お祈りの中で、泳いでいるだけじゃないか」と気づいたりします。
それどころか、人生の真っ只中にあって、危機の時、精神力が限界まで働いている時、主イエス様は、主の僕の方々「支え人」を置いてくださり、「時にかなって」助けていただいています。
本人たちは、ほとんど無意識のことが多いように思えますので、最後の日にどれほど彼女たちを通して助けられたかを見て、イエス様の恵みを大きさにびっくりすることでしょう。
彼女たちの、純潔、清さ、あたたかさ、気力、洞察力、忍耐、思いやりの深さ、また、箴言の最後の章に書いている姿を地で生きていらっしゃる方・・・。
自分たちにはいつも厳しく、「怠りの糧を食べることをしない」どころか、そんな姿を一度として見た事がないほど、働かれます。作られる食事、デザートはいつも工夫と愛情があります。工夫、時間のかけ方、材料の選び方、努力、食べる人への思いやり、季節感、手を抜かない・・・食べ物を見ればすぐにわかります。
「信仰は料理に現れるのよ」「喜ぶ顔がみたい、という心で作るのよ」ととっても簡単におっしゃいます。作られた料理に、現れているので「そうだな・・・」と納得せざるを得ないです。ニンジンを不器用にトン、トトンと切っている僕は、言葉もでない状況です。しかも、それでいて、「ごめんね」との心を決して忘れられません。
家庭、教会をいつも明るい雰囲気に変えてしまいます。罪を罪と呼ばれますが、また、思いやりのないことをとっても嫌われますので、そばにいるだけで、「これは、まずいな・・・」と自らの思いやりのなさにすぐ気がつきます。
心の謙遜さは、全身から表れています。お会いしただけで、「自分は傲慢だ」とすぐわかります。1日中、それこそ謙遜に徹してきて、夜、お会いすると、「なんて自分は傲慢なんだ」とわかります。
服装はいつもセンスがとっても良く、当然のことですが、清潔です。
快活で、ユーモアがあり、それでいて、人の痛みがよくわかっている。また、奥が深い・・・。また、陰で祈っていてくれていることがわかる・・・。
「女は支え人として造られたのよ」「だから女が支えないと男の人は倒れるのよ」「男の人は、車輪、女は心棒なのよ」「まず女が変わらなければだめなのよ」「男の人が飲んだくれで、乱れていても、女は子供のために身を清く保たなければならないのよ」
単に傍から聞くこの言葉の印象と、自分だったらどうだろう、すなわち自分が女性だったらこう話せるかな・・・と思うことでは、とんでもない違いがあります。
ご自分にも厳しいですが、また、「愛はすばやく発見する」と本に書いてありますが、その洞察力は本当にすごいもので、まるで生活の隅々まで見ているかのよう。また心まで見通しているかのようです。
「彼女たちの目に恥じ入ることのないように」と思うだけで相当意識が変わります。
そして、その純潔な、また清らかな人生、雰囲気、そしてそれがごく自然・・・がどれほど人生の力になっているか測り知れないほどです。
僕にとって、クリスチャン女性の評価は非常に高いです。多分、今まであった方々の素晴らしい影響力により、クリスチャンの女性って、みなそうなんだという方向で人を見ているだろうなあ、と思っています。
さて、しかし、「そうか、女性の方々がんばってください」なんてまったく思いません。みな人形ではなく、感情もあり、躓いたり、疲れたり、失望したり、悲しんだり、怒ったりする、人間ですから。「試練、耐えがたい悲しみ、抵抗しがたい誘惑を持っていない人は一人もいない」とあるとおりです。彼女たちのイエス様への献身により、数々の御業が現われるのでしょう。
クリスチャンは「善においては互いに競争者」ですので、心ひそかに「負けてたまるか・・・」と思いつつ・・・。
たとえが適切でなかったらごめんなさい。おとぎ話の中に、「孫悟空が釈迦から逃げようと思って、金と雲にのって世界のはしっこまでずっと逃げていきます。もう、追って来れないだろうと思います。しかし、それは気づいたら釈迦の手の中だった」という話がありますが。
結構「あれ?いろいろやっているようだけど、彼女たちの細かい配慮や陰の働き、忍耐、お祈りの中で、泳いでいるだけじゃないか」と気づいたりします。
それどころか、人生の真っ只中にあって、危機の時、精神力が限界まで働いている時、主イエス様は、主の僕の方々「支え人」を置いてくださり、「時にかなって」助けていただいています。
本人たちは、ほとんど無意識のことが多いように思えますので、最後の日にどれほど彼女たちを通して助けられたかを見て、イエス様の恵みを大きさにびっくりすることでしょう。
2009年10月31日土曜日
入院 聞かれない祈り?
「病人のために祈るときは『わたしたちはどう祈ったらよいかわからない』ことを覚えなければならない。わたしたちが望む祝福が最上のものか否かはわからない。したがって、わたしたちの祈りには次のような気持ちがなければならない。「主よ、あなたは魂のすべての秘密を知り、これらの人々をよく知っておられます。この人々の仲保者であるイエス様は彼らのためにその生命をおささげになりました。彼らに対するイエス様の愛はわたしたちが彼らを愛するよりもずっと大きいものです。もし主のみ栄えとなり、病人の益となるならば、健康が回復するよう、イエス様のみ名によってお願い申し上げます。もし回復することがあなた様のみ旨でなければ、苦しいときにあなたの恵みが彼らを慰め、そば近くにあなた様がおられまして、彼らをささえてくださるようにお願いも申しあげます。」
「神様は初めから終わりまですべてを知り、あらゆる人の心を熟知しておられる。神様は魂の中にあるいっさいの秘密を読み、祈ってもらっている人が生き長らえるとき、その上にきたる試練に耐えられるか否かをご存知である。またその人の生涯は彼ら自身にとっても、社会にとっても祝福となるか、それとものろいとなるかを知っておられる。」わたしたちが熱心に祈りをささげるとき、「しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください。」と言わなければならない理由の一つがここにある。神様の知恵と、御旨にすべてをゆだねるというこの言葉を、イエス様はゲッセマネの園で、「わが父よ、もしできることでしたら、どうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と懇願されたとき申されたのであった。神様の子、イエス様にこの言葉がふさわしいものであったとすれば、有限であり、まちがいを犯す人間の口にはなおさらのことである。」
僕入院した時の事です。後でお聞きしたら、クリスチャンの方々はそれこそ熱心に祈ってくださいました。
しかし、その時は入社したて・・別のことを考えていました。
その時期、会社はちょうど決算期・・残業時間だけで、月200時間をはるかに超えます。
入社したばかりで僕も当然安息日も出るように・・・と言われます。
そのとき健診でひっかかり、「入院」・・・心ひそかに思いました。「お導きかも・・・」
結局、入院は会社指定の大学病院のベッドが空かないといる理由で、
2ヶ月に及びました。しかも安息日はいつも外出届けを出して出席させていただきました。
教会から病院に帰ってくると、6人部屋の病室の患者さんはみなカーテンを開けて待っていてくれ待っていてくれました。「どうだった?どうだった」家政婦さん、看護婦さん交えての病室証会でした。
しかし、最後の安息日の前の日、医師が来ました。「いつもなら、土曜日は検査をいれないのですが、明日はわたしが間違って検査を入れてしまいました。会社では、この検査を受けたら会社に戻してくれる、もし断ったら会社は首だといっています、どうされますか?」
「もし心の健康と、体の健康どちらかを選ばなければならないのでしたら、わたしは心の健康を選びます。」と安息日を選ぶ力をイエス様が与えられました。「そうですか」と医師は帰っていきました。
会社のちょうど決算処理が終わる「その日」退院をしました。
そして次の日出社すると・・・その場で正規職員にしてくださったのです。
「一生懸命祈っても、一向に退院しない」とおっしゃっていた教会の方に僕が「じつは・・・」と話すと納得・・・
聞かれない・・・と一見、思える祈りもまた・・・意味があるようです
「神様は初めから終わりまですべてを知り、あらゆる人の心を熟知しておられる。神様は魂の中にあるいっさいの秘密を読み、祈ってもらっている人が生き長らえるとき、その上にきたる試練に耐えられるか否かをご存知である。またその人の生涯は彼ら自身にとっても、社会にとっても祝福となるか、それとものろいとなるかを知っておられる。」わたしたちが熱心に祈りをささげるとき、「しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください。」と言わなければならない理由の一つがここにある。神様の知恵と、御旨にすべてをゆだねるというこの言葉を、イエス様はゲッセマネの園で、「わが父よ、もしできることでしたら、どうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と懇願されたとき申されたのであった。神様の子、イエス様にこの言葉がふさわしいものであったとすれば、有限であり、まちがいを犯す人間の口にはなおさらのことである。」
僕入院した時の事です。後でお聞きしたら、クリスチャンの方々はそれこそ熱心に祈ってくださいました。
しかし、その時は入社したて・・別のことを考えていました。
その時期、会社はちょうど決算期・・残業時間だけで、月200時間をはるかに超えます。
入社したばかりで僕も当然安息日も出るように・・・と言われます。
そのとき健診でひっかかり、「入院」・・・心ひそかに思いました。「お導きかも・・・」
結局、入院は会社指定の大学病院のベッドが空かないといる理由で、
2ヶ月に及びました。しかも安息日はいつも外出届けを出して出席させていただきました。
教会から病院に帰ってくると、6人部屋の病室の患者さんはみなカーテンを開けて待っていてくれ待っていてくれました。「どうだった?どうだった」家政婦さん、看護婦さん交えての病室証会でした。
しかし、最後の安息日の前の日、医師が来ました。「いつもなら、土曜日は検査をいれないのですが、明日はわたしが間違って検査を入れてしまいました。会社では、この検査を受けたら会社に戻してくれる、もし断ったら会社は首だといっています、どうされますか?」
「もし心の健康と、体の健康どちらかを選ばなければならないのでしたら、わたしは心の健康を選びます。」と安息日を選ぶ力をイエス様が与えられました。「そうですか」と医師は帰っていきました。
会社のちょうど決算処理が終わる「その日」退院をしました。
そして次の日出社すると・・・その場で正規職員にしてくださったのです。
「一生懸命祈っても、一向に退院しない」とおっしゃっていた教会の方に僕が「じつは・・・」と話すと納得・・・
聞かれない・・・と一見、思える祈りもまた・・・意味があるようです
聖書を他の人々に開くのはたのしい仕事である
「暗黒にいる人に聖書を開きなさい。そうすればあなたは、真理のために働くことにあきたり、興味を失ったといって不平をもらすことはないであろう。あなたの心は魂を切望することを悟るであろう。そして信仰のさまざまなあかしの中にいるよろこびが心に満ち、「物惜しみしない者は富み、人を潤す者は自分も潤される」
聖書の御言葉・・それは文字通り神様の御言葉であり、御言葉の中に、人を再創造する素晴らしい御力が宿っています。ですので「おちこぼれ」には聖なる御言葉の前に、ただ畏れおののく者・・・牧師さんや、伝道者さんにお任せしたい事柄です。
ああ、主よ、お許しください、地に属するもの・・塵に等しい者です
主の御言葉はあまりに聖い・・・そして永遠に続くものです。
と思いますが・・・
「主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がおこないを離れて生きることを好んでいるではないか」
「あなたがたがわたしにおこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」
世の中は・・悪人が死ぬと大喜び・・・やっと空気がきれいになった・・・
「ざまあ、みろ!」・・・
ところが天にそうではない方がおられます。
「わたしは何人の死をも喜ばない」
天国ではもはや病なく、痛みなく、涙がない・・・
しかし、ある方の証・・・
「人類は決して滅んではならないのです。なぜなら、イエス様の傷は・・・
永遠にわたって失われた者のために痛むからです。」
人生には、自分の存在が重荷に思うときもあります。
しかし、天ではそう思っておられない御方がいらっしゃるようです。
「しかもイエス様がしのばれたすべてのこと―その頭と手と足から流れた血のしたたり、その肉体を苦しめた苦痛、天父のみ顔がかくされたときにその魂を満たした言いようのない苦悩―それらは人類の子らひとりびとりに向かって、神様のみ子がこの不義の重荷を負うのを承諾されるのはあなたのためであり、死の支配をたちきって、パラダイスの門を開かれるのはあなたのためであると訴えている。荒れ狂う波をしずめて、泡立つ大波の上をあるかれたおかた、悪鬼をふるえあがらせ、病気を追い出されたおかた、めくらの目を開き、死人をいのちによみがえらせたおかた―が、いけにえとしてご自分を十字架上にささげられる。しかもそれはあなたを愛されるからである。罪を負うおかたであるイエス様が、神様の正義の怒りをしのび、あなたのために罪そのものとなられる。」
罪、仕事がない、病気などなど暗いトンネルにいる時は、ずっとこのまま続くのか・・と思っていました。
しかし・・・信じられないことかもしれませんが・・・
もしかしたら、状況は変わらないとしても、心を変えて救ってくださいます。
「夜明けは、必ず来るのである」
聖書の御言葉・・それは文字通り神様の御言葉であり、御言葉の中に、人を再創造する素晴らしい御力が宿っています。ですので「おちこぼれ」には聖なる御言葉の前に、ただ畏れおののく者・・・牧師さんや、伝道者さんにお任せしたい事柄です。
ああ、主よ、お許しください、地に属するもの・・塵に等しい者です
主の御言葉はあまりに聖い・・・そして永遠に続くものです。
と思いますが・・・
「主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がおこないを離れて生きることを好んでいるではないか」
「あなたがたがわたしにおこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」
世の中は・・悪人が死ぬと大喜び・・・やっと空気がきれいになった・・・
「ざまあ、みろ!」・・・
ところが天にそうではない方がおられます。
「わたしは何人の死をも喜ばない」
天国ではもはや病なく、痛みなく、涙がない・・・
しかし、ある方の証・・・
「人類は決して滅んではならないのです。なぜなら、イエス様の傷は・・・
永遠にわたって失われた者のために痛むからです。」
人生には、自分の存在が重荷に思うときもあります。
しかし、天ではそう思っておられない御方がいらっしゃるようです。
「しかもイエス様がしのばれたすべてのこと―その頭と手と足から流れた血のしたたり、その肉体を苦しめた苦痛、天父のみ顔がかくされたときにその魂を満たした言いようのない苦悩―それらは人類の子らひとりびとりに向かって、神様のみ子がこの不義の重荷を負うのを承諾されるのはあなたのためであり、死の支配をたちきって、パラダイスの門を開かれるのはあなたのためであると訴えている。荒れ狂う波をしずめて、泡立つ大波の上をあるかれたおかた、悪鬼をふるえあがらせ、病気を追い出されたおかた、めくらの目を開き、死人をいのちによみがえらせたおかた―が、いけにえとしてご自分を十字架上にささげられる。しかもそれはあなたを愛されるからである。罪を負うおかたであるイエス様が、神様の正義の怒りをしのび、あなたのために罪そのものとなられる。」
罪、仕事がない、病気などなど暗いトンネルにいる時は、ずっとこのまま続くのか・・と思っていました。
しかし・・・信じられないことかもしれませんが・・・
もしかしたら、状況は変わらないとしても、心を変えて救ってくださいます。
「夜明けは、必ず来るのである」
寄付
さて、最近、1億円を福祉のためご寄付をされた話がテレビで取り上げられていました。それを見ていて、ふと・・・。
諸教会では、最近でも個人で数十億円(60何億円?)、御業のために捧げた方、また大きな会社や世界的な会社を丸ごと教会に捧げた方、毎月、収入を全部?捧げてしまう人々・・・。土地を捧げて、そこに教会の学校が建てられたり、教会が立ったり、またこの地上で持っている物はほとんど福音のため「借金のかた」にはいっている方・・・学生の学費を補助される方、敷地を寄付されたり、などなど、すごいものです。
しかも、すごいことに絶対にニュースにならない、証にすら滅多に聞く事がない・・・
「多くの人を奮起させた」とあるように励ましになるから、いいんじゃないかな?と思っても、話題にすらならない・・・。
それこそ「右手でしていることを左手に知らせるな」。
しかし、イエス様の生活費すべてを捧げた方の話をはなされていらっしゃいますし・・・
少し書いてしまいます。
主イエス様の御業はすごいです。
「わたしの宮に食物のあるように、10分の1全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。わたしは食い滅ぼす者を、あなたがたのためにおさえて、あなたがたの地の産物を、滅ぼさないようにしよう。またあなたがたのぶどうの木が、その熟する前に、その実を畑におとすことのないようにしようと、万軍の主は言われる。」
10分の1献金の証・・・
九州で台風が来ました。ほとんどの農家のみかんが落ちてしまったのですが、教会員のみかん畑のみかんだけが落ちなかったそうです。と
大干ばつがきた時、教会とその学校の農園だけが緑があり、新聞で取り上げられた話・・・。
同じく干ばつが起こった時、学校でお祈りしたら、天気予報では快晴なのに雨がその地方全体で降った話。一人のクリスチャンがお祈りすると雨がざーっと降った話、などなど。
エリヤさんの時代に起こったことは、今もなお起こり続けています。
しかし、それに加えて、人の心に働かれるお力もまた本当に素晴らしいものです。
一人のクリスチャンの書いた、知育、徳育、体育の本、「教育」。たったこの一冊を読んで、膨大な土地を寄付され、そこに教会とキリスト教の学校も立ったことがあります。他にも、まだまだ・・・。
世の中の仕事、生活、娯楽、犯罪、偽りの宗教などなどいっぱいある中、もう世の中に望みなんて無いんじゃないか、と思えるような時でさえ・・・、イエス様の証に心を動かされて・・・、教会やキリスト教の学校や、病院に、そして人々の幸せのため、協力しようと喜んで犠牲を払われるその様子を見てきました。それは本当に胸に迫るものがあります。
以前は、教会の醜聞?、悪口、また人の犯罪の話など、そのことばかり聞いていまいました。
自分の悪と周りの悪で、絶望。ところが・・・。
「自己のことを考えていると、心は力といのちの源であるキリストから離れていきます。そして、悪魔は、人の心を救い主からそらそうと絶えず努力して、キリストとの一致の交わりを妨げようとするのです。世の快楽、生活上の心配事、悩み、悲しみ、他人の欠点、または、自分の欠点や不完全さ、こうしたものの全部、またはそのどれかに私たちの心をひこうと、悪魔は必死になっています。」
はっと気付き、方向転換、あの人、この人ではなく、敵の存在が見えてきます。こんな事に惑わされて、福音の手を弱めていたのか・・・。
「もし、悪魔のささやきに耳を傾けるならば、心は不信と反抗的な疑問で満たされることでしょう。また、自分の感情を口に出し、疑いの言葉を語るならば、それは自分に返ってくるばかりでなく、種のように他人の生涯にまかれて芽を出し、実を結び、あなたの言葉の影響を取り消すことはできなくなってしまいます。あなた自身は一時の誘惑に打ち勝ち、悪魔の罠から逃れることができるかもしれませんが、その言葉に感化された人々は、その不信仰から逃れることができないかもしれません。ですから、霊的な力といのちを与える事柄だけを話すということは本当に大切なことです。」
主イエス様のいつくしみがいっぱいに見えてきます。また思いをはるかに超えて、多くの人々が、聖書の内容を良く知っていることも・・・。科学者、農家、営業さん、病院で働いている人々・・・。
「地は主のいつくしみで満ちている」
こんな話したら、古くからの信者さんから「なあんだ、今頃気付いたの?それ基本だよ」なんて言われそう。
人々が眠っている間に、救い主がお生まれになられる話。
神様の宮で、サドカイ人とパリサイ人が激論を戦わせている間に、貧しい羊飼いたちに、東方の博士達に「良きおとずれ」が伝えられる話・・・とっても好きな話です。
人々が眠っている時も、誰も知られないうちに、世界各地でそれこそニュースになるような、感動で心が震えるような証が・・・、今もなお次々と起こり続けています。
最後に、イエス様はこうおっしゃっておられるようです。
わが民よ、聞け、わたしは言う。
イスラエルよ、わたしはあなたにむかって
あかしをなす。
わたしは神、あなたの神である。
わたしがあなたを責めるのは、
あなたのいけにえのゆえではない。
あなたの燔祭はいつもわたしの前にある。
わたしはあなたの家から雄牛を取らない。
またあなたのおりから雄やぎを取らない。
林のすべての獣はわたしのもの、
丘の上の千々の家畜もわたしのものである。
わたしは空の鳥をことごとく知っている。
野に動くすべてのものはわたしのものである。
たといわたしは飢えても、あなたに告げない、
世界とその中に満ちるものとは
わたしのものだからである。
わたしは雄牛の肉を食べ、
雄やぎの血を飲むだろうか。
感謝のいけにえを神にささげよ。
あなたの誓いをいと高き者に果たせ。
悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、
あなたはわたしをあがめるであろう。
諸教会では、最近でも個人で数十億円(60何億円?)、御業のために捧げた方、また大きな会社や世界的な会社を丸ごと教会に捧げた方、毎月、収入を全部?捧げてしまう人々・・・。土地を捧げて、そこに教会の学校が建てられたり、教会が立ったり、またこの地上で持っている物はほとんど福音のため「借金のかた」にはいっている方・・・学生の学費を補助される方、敷地を寄付されたり、などなど、すごいものです。
しかも、すごいことに絶対にニュースにならない、証にすら滅多に聞く事がない・・・
「多くの人を奮起させた」とあるように励ましになるから、いいんじゃないかな?と思っても、話題にすらならない・・・。
それこそ「右手でしていることを左手に知らせるな」。
しかし、イエス様の生活費すべてを捧げた方の話をはなされていらっしゃいますし・・・
少し書いてしまいます。
主イエス様の御業はすごいです。
「わたしの宮に食物のあるように、10分の1全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。わたしは食い滅ぼす者を、あなたがたのためにおさえて、あなたがたの地の産物を、滅ぼさないようにしよう。またあなたがたのぶどうの木が、その熟する前に、その実を畑におとすことのないようにしようと、万軍の主は言われる。」
10分の1献金の証・・・
九州で台風が来ました。ほとんどの農家のみかんが落ちてしまったのですが、教会員のみかん畑のみかんだけが落ちなかったそうです。と
大干ばつがきた時、教会とその学校の農園だけが緑があり、新聞で取り上げられた話・・・。
同じく干ばつが起こった時、学校でお祈りしたら、天気予報では快晴なのに雨がその地方全体で降った話。一人のクリスチャンがお祈りすると雨がざーっと降った話、などなど。
エリヤさんの時代に起こったことは、今もなお起こり続けています。
しかし、それに加えて、人の心に働かれるお力もまた本当に素晴らしいものです。
一人のクリスチャンの書いた、知育、徳育、体育の本、「教育」。たったこの一冊を読んで、膨大な土地を寄付され、そこに教会とキリスト教の学校も立ったことがあります。他にも、まだまだ・・・。
世の中の仕事、生活、娯楽、犯罪、偽りの宗教などなどいっぱいある中、もう世の中に望みなんて無いんじゃないか、と思えるような時でさえ・・・、イエス様の証に心を動かされて・・・、教会やキリスト教の学校や、病院に、そして人々の幸せのため、協力しようと喜んで犠牲を払われるその様子を見てきました。それは本当に胸に迫るものがあります。
以前は、教会の醜聞?、悪口、また人の犯罪の話など、そのことばかり聞いていまいました。
自分の悪と周りの悪で、絶望。ところが・・・。
「自己のことを考えていると、心は力といのちの源であるキリストから離れていきます。そして、悪魔は、人の心を救い主からそらそうと絶えず努力して、キリストとの一致の交わりを妨げようとするのです。世の快楽、生活上の心配事、悩み、悲しみ、他人の欠点、または、自分の欠点や不完全さ、こうしたものの全部、またはそのどれかに私たちの心をひこうと、悪魔は必死になっています。」
はっと気付き、方向転換、あの人、この人ではなく、敵の存在が見えてきます。こんな事に惑わされて、福音の手を弱めていたのか・・・。
「もし、悪魔のささやきに耳を傾けるならば、心は不信と反抗的な疑問で満たされることでしょう。また、自分の感情を口に出し、疑いの言葉を語るならば、それは自分に返ってくるばかりでなく、種のように他人の生涯にまかれて芽を出し、実を結び、あなたの言葉の影響を取り消すことはできなくなってしまいます。あなた自身は一時の誘惑に打ち勝ち、悪魔の罠から逃れることができるかもしれませんが、その言葉に感化された人々は、その不信仰から逃れることができないかもしれません。ですから、霊的な力といのちを与える事柄だけを話すということは本当に大切なことです。」
主イエス様のいつくしみがいっぱいに見えてきます。また思いをはるかに超えて、多くの人々が、聖書の内容を良く知っていることも・・・。科学者、農家、営業さん、病院で働いている人々・・・。
「地は主のいつくしみで満ちている」
こんな話したら、古くからの信者さんから「なあんだ、今頃気付いたの?それ基本だよ」なんて言われそう。
人々が眠っている間に、救い主がお生まれになられる話。
神様の宮で、サドカイ人とパリサイ人が激論を戦わせている間に、貧しい羊飼いたちに、東方の博士達に「良きおとずれ」が伝えられる話・・・とっても好きな話です。
人々が眠っている時も、誰も知られないうちに、世界各地でそれこそニュースになるような、感動で心が震えるような証が・・・、今もなお次々と起こり続けています。
最後に、イエス様はこうおっしゃっておられるようです。
わが民よ、聞け、わたしは言う。
イスラエルよ、わたしはあなたにむかって
あかしをなす。
わたしは神、あなたの神である。
わたしがあなたを責めるのは、
あなたのいけにえのゆえではない。
あなたの燔祭はいつもわたしの前にある。
わたしはあなたの家から雄牛を取らない。
またあなたのおりから雄やぎを取らない。
林のすべての獣はわたしのもの、
丘の上の千々の家畜もわたしのものである。
わたしは空の鳥をことごとく知っている。
野に動くすべてのものはわたしのものである。
たといわたしは飢えても、あなたに告げない、
世界とその中に満ちるものとは
わたしのものだからである。
わたしは雄牛の肉を食べ、
雄やぎの血を飲むだろうか。
感謝のいけにえを神にささげよ。
あなたの誓いをいと高き者に果たせ。
悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、
あなたはわたしをあがめるであろう。
クリスマス
クリスマス
さて、クリスマスが近づくと、僕のお世話になったクリスチャンの方々は、毎年、乳児園にクリスマスケーキを届けに行かれます。
乳児園とは、3歳までの子供たちで、親がいなかったり、あるいは捨てられたり・・・した子供たちが保母さんの方々と一緒に生活している施設です。あんまり書くと、ちょっと悲しいのでやめときます。
話によると、保母さんの方々も休みを取れないことが多く、またこの時期の子供たちは、インフルエンザを初め、風邪をひいたり、保母さん方もかなり心を使う季節のようです。
さて、この乳児園に贈るケーキは当然1個や2個ではありません。10数個?の大きなデコレーションケーキです。デパートで売っている最高級のイチゴをいっぱいにサンドし、また上にもいっぱいのせて、最上級のクリームいっぱいに飾った愛情あふれるケーキです。
それに加えて、手作りのクッキーをいっぱいに焼いて、それを手作りのかわいい袋に1人分ずつ詰めて、そして子供たち一人ひとりにクリスマスプレゼントをいっぱいに買って、乳児園の子供たちのところ行かれます。
ケーキは教会で作ることも多いのですが、あまりに多いので教会で生地だけ作り、各教会員のご家庭のオーブンで焼かれたりしました。
それに加えて、教会のクリスマスのために、同じようにケーキを作られたりしますので、日ごとの食事、また、集会、お祈りなどなどに加えて大忙しです。
乳児園には、クリスマスのほか、餅つき、木の葉の落ちる季節には清掃、枝の伸びる季節には剪定、バーべキュー大会などなどされていました。もちろんすべて無償のご奉仕でした。餅は、もちろんつきたてのお餅にすべて手作りのごまだれ、大根おろし、きなこ・・・・など5~7種類のたれがついてとってもおいしく、子供たちも大喜びでした。
教会員の行かれる日は、とっても寒い、北風がビュービュー吹く日でも、「その時間だけ」小春日和のような陽射しが与えられ、主の祝福を思いながら、過ごしました。
その乳児園の働きに、そのクリスチャンのお勤めになっている企業もまた企業として参加されるようになり、金融の最先端での、僕とは「ケタが5~7ケタぐらい」違う仕事の会社ですが、社員の方々も大勢協力されるようになっています。社長さん自ら、アイスクリームを乳児園で作られて、子供たちに渡されます。
しかし、そのクリスチャンの方はこう話していました。
「でもね、わたしたちがいくら一生懸命やったとしても・・・子供たちが欲しいものは、お母さんなのよ・・・」
ある他の乳児園で子供たちに何が欲しいか聞いたそうです。一番は、「お母さん」でした。
ある子は、こう言ったそうです。「どんなに、悪いお母さんでもいいから、お母さんに会いたいの」
クリスマスの季節ですが・・・
「世の友 われらを捨て去る時も、祈りに応えていたわりたもう」
「この人もう無理だよ」「あの人は変わらないよ」「正直いって、絶望だと思ったよ」――そんなことを言われてきましたが・・・
世の中のすべての人が、見捨てて当然の人間、罪のない他世界の人々、あるいは天使の方々でさえ、あきれ返る人間だけど・・・。
宇宙でたった1人、手と足に釘打たれてとりなし、愛したもう主イエス様の、その御顔を仰ぎ見、賛美歌をもってその驚くべき愛を褒め称えたいと願っています。
さて、クリスマスが近づくと、僕のお世話になったクリスチャンの方々は、毎年、乳児園にクリスマスケーキを届けに行かれます。
乳児園とは、3歳までの子供たちで、親がいなかったり、あるいは捨てられたり・・・した子供たちが保母さんの方々と一緒に生活している施設です。あんまり書くと、ちょっと悲しいのでやめときます。
話によると、保母さんの方々も休みを取れないことが多く、またこの時期の子供たちは、インフルエンザを初め、風邪をひいたり、保母さん方もかなり心を使う季節のようです。
さて、この乳児園に贈るケーキは当然1個や2個ではありません。10数個?の大きなデコレーションケーキです。デパートで売っている最高級のイチゴをいっぱいにサンドし、また上にもいっぱいのせて、最上級のクリームいっぱいに飾った愛情あふれるケーキです。
それに加えて、手作りのクッキーをいっぱいに焼いて、それを手作りのかわいい袋に1人分ずつ詰めて、そして子供たち一人ひとりにクリスマスプレゼントをいっぱいに買って、乳児園の子供たちのところ行かれます。
ケーキは教会で作ることも多いのですが、あまりに多いので教会で生地だけ作り、各教会員のご家庭のオーブンで焼かれたりしました。
それに加えて、教会のクリスマスのために、同じようにケーキを作られたりしますので、日ごとの食事、また、集会、お祈りなどなどに加えて大忙しです。
乳児園には、クリスマスのほか、餅つき、木の葉の落ちる季節には清掃、枝の伸びる季節には剪定、バーべキュー大会などなどされていました。もちろんすべて無償のご奉仕でした。餅は、もちろんつきたてのお餅にすべて手作りのごまだれ、大根おろし、きなこ・・・・など5~7種類のたれがついてとってもおいしく、子供たちも大喜びでした。
教会員の行かれる日は、とっても寒い、北風がビュービュー吹く日でも、「その時間だけ」小春日和のような陽射しが与えられ、主の祝福を思いながら、過ごしました。
その乳児園の働きに、そのクリスチャンのお勤めになっている企業もまた企業として参加されるようになり、金融の最先端での、僕とは「ケタが5~7ケタぐらい」違う仕事の会社ですが、社員の方々も大勢協力されるようになっています。社長さん自ら、アイスクリームを乳児園で作られて、子供たちに渡されます。
しかし、そのクリスチャンの方はこう話していました。
「でもね、わたしたちがいくら一生懸命やったとしても・・・子供たちが欲しいものは、お母さんなのよ・・・」
ある他の乳児園で子供たちに何が欲しいか聞いたそうです。一番は、「お母さん」でした。
ある子は、こう言ったそうです。「どんなに、悪いお母さんでもいいから、お母さんに会いたいの」
クリスマスの季節ですが・・・
「世の友 われらを捨て去る時も、祈りに応えていたわりたもう」
「この人もう無理だよ」「あの人は変わらないよ」「正直いって、絶望だと思ったよ」――そんなことを言われてきましたが・・・
世の中のすべての人が、見捨てて当然の人間、罪のない他世界の人々、あるいは天使の方々でさえ、あきれ返る人間だけど・・・。
宇宙でたった1人、手と足に釘打たれてとりなし、愛したもう主イエス様の、その御顔を仰ぎ見、賛美歌をもってその驚くべき愛を褒め称えたいと願っています。
落胆しているものに・・・確かな治療法がある
「落胆している者に信仰、祈り、仕事という確かな治療法がある。信仰と活動は確信と満足を授け、それは日ごとに増し加わる。あなたがたは不安な予感や、全くの失望の気持ちに負けそうになることがあるか。どんなに喜びのない日で、どんなに形勢の悪そうに見える時でも、恐れてはならない。神様を信ずる信仰を持ちなさい。神様はあなたの必要を知っておられる。神様はあらゆる力を持っておられる。神様の無限の愛と憐れみは疲れることがない。神様がみ約束を守らないのではないかと恐れてはならない。神様は神様を愛する者と共に結びたもうた契約を決してお変えにならない。そして神様はその忠実なしもべたちが必要に応じて要求するだけの能力をお授けになる。」
「霊的怠慢を本当に治す治療法はただひとつである。それは仕事である。すなわち、助けを必要としている魂のために働くことである。」
「これはキリスト様が臆病な者、疑う者、恐れおののく者のためにお勧めになった処方である。主の御前を悲しげに歩む悲嘆にくれた人々は立ち上がり、助けを必要としている人を助けよう。」
「いやな経験を持ち、本当の宗教を構成するものが何であるか全くわからなくなってしまうまで苦しみ、疑い、不平をこぼし、罪を犯し、後悔して疲れ果てる人々は、この無我の働きに携わっていない人々である。彼らは世の中に戻って行くことができないと感じているので、つまらぬ妬み、うらやみ、失望、後悔を抱いてシオンのすそにすがりついている。彼らはあら捜しのかたまりであり、兄弟達の過失で生きている。彼らの宗教生活には希望のない信仰のない、あじけない経験しかない。」
「キリストのためにわずかしか奉仕しない者、あるいは何もしない者は危険である。神様の御恵みは、大いなる特権と機会を持ちながら沈黙を続けている者の魂に長く留まらない。」
「悪に反抗する力は積極的な奉仕によって最もよく得られる。」
「すぐれた働きをするように神様から資格を授けられた人々の多くがなぜ、何ら成すところがないかというと、彼らは何もしようと努力しないからである。」
「たとえ100回のうち99回失敗しても、破滅から1人の魂を救うことに成功したら、主のみ業のために立派な行いをしたことになる。」
「あなたの義務を他人に転嫁することはできない。あなたの仕事をできる者はあなた以外にない。もしあなたがあなたの光を与えずに控えていれば、その怠慢のために誰かが暗黒に残されねばならない。」
「この世界はクリスチャンの天国ではなく、単に神様の仕事場にすぎない。ここで我々は、聖なる天にいる罪を犯したことのない天使たちと結合するのに適したものとならなければならない。」
「主のご承認は大きなことを成し遂げたとか、多くのものを得たとかいうことで与えられるのではなく、わずかなことにも忠実であったということで与えられる。神様が重要視されることは、我々が立派な結果に達することではなく、我々の行動する動機である。神様は成し遂げた働きの量よりも、善意と忠実さを賞賛される。」
「我々は飽きたり、弱気を起してはならない。永遠の栄光を安易さ、便利さ、楽しみと交換することは、恐ろしい損失になるだろう。神様の御手から授けられる賜物は、勝利者を待っている。我々は誰もそれを受ける資格はない。それは神様がお授けになる無償の賜物である。この賜物は実にすばらしい輝かしいものであろうが、『この星とあの星との間に、栄光の差がある』ということを覚えていよう。しかし、我々は勝利を求めて努力するよう切に勧められているのであるから、イエス様のみ力により、多くの星で重みのついた冠を目指そうではないか。『賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、星のようになって永遠にいたるでしょう』。」
「我々の考えは全く狭すぎる。神様は光をまき散らず働きに絶えず前進するようにと求めておられる。我々は人々に接する進歩した方法や手段を研究せねばならない。我々は、主の軍勢の偉大な指揮官が「前進せよ」と言われるのを、信仰の耳を傾けて聞かねばならない。我々は行動しなければならない。そうすれば神様は我々を見捨てたまわないであろう。我々が信仰を持って我々の分をなすならば、神様はご自分の分をなさる。長い間信仰を持っている兄弟姉妹方、あなたがたは、神様がせよと命じておられる仕事をしてこなかった。人々に対するあなたの愛はどこにあるのか。」
「わずかな才能しかない人々は、神様の愛の中に心を保つことに忠実であれば、多くの魂をキリストに導くことができる。ハーラン・ページは平凡な才能しか持たず、限られた教育を受けたにすぎない貧しい機械工であった。しかし彼は神様のご計画を進展させることを第一の仕事にし、努力の甲斐あってすばらしい成功を収めた。彼は個人との会話において、また熱心な祈りによって同胞の救いのために働いた。祈祷会を設け、日曜学校を組織し、トラクトやその他の宗教的な読み物も配布した。そして彼は臨終に顔に永眠の影を称えつつこう言い得たのである。『私は、それがすべて神様の恵みであって、私がしたことの功績でないことを知っています。でも私は100人以上の魂が私個人の助けを借りて神様に改心させられたのだということを証しできると思います』と。」
「霊的怠慢を本当に治す治療法はただひとつである。それは仕事である。すなわち、助けを必要としている魂のために働くことである。」
「これはキリスト様が臆病な者、疑う者、恐れおののく者のためにお勧めになった処方である。主の御前を悲しげに歩む悲嘆にくれた人々は立ち上がり、助けを必要としている人を助けよう。」
「いやな経験を持ち、本当の宗教を構成するものが何であるか全くわからなくなってしまうまで苦しみ、疑い、不平をこぼし、罪を犯し、後悔して疲れ果てる人々は、この無我の働きに携わっていない人々である。彼らは世の中に戻って行くことができないと感じているので、つまらぬ妬み、うらやみ、失望、後悔を抱いてシオンのすそにすがりついている。彼らはあら捜しのかたまりであり、兄弟達の過失で生きている。彼らの宗教生活には希望のない信仰のない、あじけない経験しかない。」
「キリストのためにわずかしか奉仕しない者、あるいは何もしない者は危険である。神様の御恵みは、大いなる特権と機会を持ちながら沈黙を続けている者の魂に長く留まらない。」
「悪に反抗する力は積極的な奉仕によって最もよく得られる。」
「すぐれた働きをするように神様から資格を授けられた人々の多くがなぜ、何ら成すところがないかというと、彼らは何もしようと努力しないからである。」
「たとえ100回のうち99回失敗しても、破滅から1人の魂を救うことに成功したら、主のみ業のために立派な行いをしたことになる。」
「あなたの義務を他人に転嫁することはできない。あなたの仕事をできる者はあなた以外にない。もしあなたがあなたの光を与えずに控えていれば、その怠慢のために誰かが暗黒に残されねばならない。」
「この世界はクリスチャンの天国ではなく、単に神様の仕事場にすぎない。ここで我々は、聖なる天にいる罪を犯したことのない天使たちと結合するのに適したものとならなければならない。」
「主のご承認は大きなことを成し遂げたとか、多くのものを得たとかいうことで与えられるのではなく、わずかなことにも忠実であったということで与えられる。神様が重要視されることは、我々が立派な結果に達することではなく、我々の行動する動機である。神様は成し遂げた働きの量よりも、善意と忠実さを賞賛される。」
「我々は飽きたり、弱気を起してはならない。永遠の栄光を安易さ、便利さ、楽しみと交換することは、恐ろしい損失になるだろう。神様の御手から授けられる賜物は、勝利者を待っている。我々は誰もそれを受ける資格はない。それは神様がお授けになる無償の賜物である。この賜物は実にすばらしい輝かしいものであろうが、『この星とあの星との間に、栄光の差がある』ということを覚えていよう。しかし、我々は勝利を求めて努力するよう切に勧められているのであるから、イエス様のみ力により、多くの星で重みのついた冠を目指そうではないか。『賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、星のようになって永遠にいたるでしょう』。」
「我々の考えは全く狭すぎる。神様は光をまき散らず働きに絶えず前進するようにと求めておられる。我々は人々に接する進歩した方法や手段を研究せねばならない。我々は、主の軍勢の偉大な指揮官が「前進せよ」と言われるのを、信仰の耳を傾けて聞かねばならない。我々は行動しなければならない。そうすれば神様は我々を見捨てたまわないであろう。我々が信仰を持って我々の分をなすならば、神様はご自分の分をなさる。長い間信仰を持っている兄弟姉妹方、あなたがたは、神様がせよと命じておられる仕事をしてこなかった。人々に対するあなたの愛はどこにあるのか。」
「わずかな才能しかない人々は、神様の愛の中に心を保つことに忠実であれば、多くの魂をキリストに導くことができる。ハーラン・ページは平凡な才能しか持たず、限られた教育を受けたにすぎない貧しい機械工であった。しかし彼は神様のご計画を進展させることを第一の仕事にし、努力の甲斐あってすばらしい成功を収めた。彼は個人との会話において、また熱心な祈りによって同胞の救いのために働いた。祈祷会を設け、日曜学校を組織し、トラクトやその他の宗教的な読み物も配布した。そして彼は臨終に顔に永眠の影を称えつつこう言い得たのである。『私は、それがすべて神様の恵みであって、私がしたことの功績でないことを知っています。でも私は100人以上の魂が私個人の助けを借りて神様に改心させられたのだということを証しできると思います』と。」
ナイアガラの流れ
「必要なのは熱心なクリスチャンの熱意である。・・・何かを行うことによって示される熱意である。・・・ナイヤガラ瀑布(ばくふ)の流れを止めることができないように、キリストを身につけている人に対して、主を証することを妨げることはできない。」
「今立つことのできる人は、心から全く決心している男女である。キリストはしもべたちを何度も振るわれて、ある時には、クリスチャン教会の基礎を置くのにわずか11人と2、3人の忠実な婦人しか残らなかった。負わねばならない重荷に遭うと退くが、教会のすべてが燃えているときには、彼らは熱中して歌い、叫び、有頂天になる。しかし彼らを見つめてみよ。その熱が冷めたとき、わずかな少数の忠実なカレブたちだけが前に出てきて、ゆるぎない節義を示すであろう。こういう人は風味を保つ塩である。教会に本当の助けが現れるのは、御業の進展が困難なときである。」
「奉仕のために男女を選ぶに当たって、神様は、学問があるとか、雄弁であるとか、世的な富があるかとかお尋ねになるのではない。神様は『わたしが彼らにわたしの道を教えることができるような謙遜さで歩くだろうか。わたしは言葉を彼らの唇におくことができるだろうか、彼らはわたしを代表するだろうか」とお尋ねになる。」
「敗北の屈辱は、神様のみ助けなしに御心を行うことが出来ないのだということをわれわれに示してくれるので、かえって祝福となることがよくある。」
「真心から神様を称えることは、祈りと同様の義務である。罪に陥った人類への神様の驚くべき愛を感謝するとともに、神様の無限の冨の中から、いっそう大きな祝福を受けることを待望していることを、私たちは世界と、そしてすべての住民たちに示さなければならない。私たちは今まで以上に、もっと自分の尊い体験語る必要がある。聖霊が特別に注がれると、主にある喜びとその奉仕における能力とは、神様の子らに対する神様の慈しみと驚くべき御業を私たちが語ることによって、著しく増大するであろう。
こうしたことは、サタンの力を後退させる。それはつぶやきと不平の精神を取り去り、誘惑者を退却させる。それは地上の住民の品性を天の邸宅を継ぐにふさわしく涵養する。こうした証は人々に感化を及ぼす。魂をキリストにかち取るのに、これ以上有効な方法はない。」
「今立つことのできる人は、心から全く決心している男女である。キリストはしもべたちを何度も振るわれて、ある時には、クリスチャン教会の基礎を置くのにわずか11人と2、3人の忠実な婦人しか残らなかった。負わねばならない重荷に遭うと退くが、教会のすべてが燃えているときには、彼らは熱中して歌い、叫び、有頂天になる。しかし彼らを見つめてみよ。その熱が冷めたとき、わずかな少数の忠実なカレブたちだけが前に出てきて、ゆるぎない節義を示すであろう。こういう人は風味を保つ塩である。教会に本当の助けが現れるのは、御業の進展が困難なときである。」
「奉仕のために男女を選ぶに当たって、神様は、学問があるとか、雄弁であるとか、世的な富があるかとかお尋ねになるのではない。神様は『わたしが彼らにわたしの道を教えることができるような謙遜さで歩くだろうか。わたしは言葉を彼らの唇におくことができるだろうか、彼らはわたしを代表するだろうか」とお尋ねになる。」
「敗北の屈辱は、神様のみ助けなしに御心を行うことが出来ないのだということをわれわれに示してくれるので、かえって祝福となることがよくある。」
「真心から神様を称えることは、祈りと同様の義務である。罪に陥った人類への神様の驚くべき愛を感謝するとともに、神様の無限の冨の中から、いっそう大きな祝福を受けることを待望していることを、私たちは世界と、そしてすべての住民たちに示さなければならない。私たちは今まで以上に、もっと自分の尊い体験語る必要がある。聖霊が特別に注がれると、主にある喜びとその奉仕における能力とは、神様の子らに対する神様の慈しみと驚くべき御業を私たちが語ることによって、著しく増大するであろう。
こうしたことは、サタンの力を後退させる。それはつぶやきと不平の精神を取り去り、誘惑者を退却させる。それは地上の住民の品性を天の邸宅を継ぐにふさわしく涵養する。こうした証は人々に感化を及ぼす。魂をキリストにかち取るのに、これ以上有効な方法はない。」
あなたはここで何をしているのか
「真実で忠実な人々のたゆまぬ活動に依存するところが大きい。この理由からサタンは、服従を通して達成される神様の御目的を妨げようとあらゆる努力をする。彼はある人々に自分たちの高尚できよい使命を見失わせ、この世の生活の楽しみで満足させようとする。彼は安楽な生活をするよう、あるいは、より大きい世的な利益のために、彼らが善に対する力となるかもしれない場所から移るように彼らを導く。その他の人々に対してサタンは、反対や迫害のために義務を離れさせ失望に追いやる。しかし、これらのことはみな天から最もやさしく、あわれみ深く見守られている。魂の敵が声を沈黙させることに成功した神様の子らに1人1人に「あなたはここで何をしているのか」という質問がなされている。私は全世界に出て行って、福音を宣べ伝え、神様の日のために1つの民を備えさせるようあなたに任命した。なぜあなたはここにいるのか。だれがあなたをつかわしたのか。」
「われわれは勤勉な働き人になるはずである。怠惰な者はみじめな者である。しかし、キリストが完成するために御自分の命を与えたもうた大事業において怠惰に対し何という言い訳ができようか。霊的能力は、用いなければなくなってしまう。そして、それを滅ぼすことがサタンの計画である。全天は人々に、この世界にキリストが再臨されるための準備をさせる仕事に積極的に携わっており、『わたしたちは神様の同労者である』すべてのものの終わりは間近い。今こそ働く機会である。」
「必要なのは良心的な伝道者である。断続的な努力は少しも良くない。われわれは注意を引かねばならない。われわれは心から熱心にならねばならない。」
「キリスト様のお働きは主として個人的な会見から成っていた。彼は一人の聞き手を大いに重んじておられた。その一人から、受けた情報が多くの人々に伝えられた。」
「クリスチャン生活には三つの標語がある。それはサタンにつけ入らせぬようするために留意せねばならないもので、すなわち、目を覚まし、祈り、働くことである。」
「最も質朴な働き人がキリスト様と協力するとき、地の果てに響くような震動を起こす絃に触れることができ、永遠にメロディーを奏でるのである。」
「滅びゆく魂のために働くにあたって、あなたには天使という仲間がいる。幾百万、幾千万もの天使たちは、一つの民がキリスト様の再臨の準備ができるようにと神様が惜しみなく与えておられる光を伝えることにわれわれの教会員と協力しようと待っている。」
「このような働きには、天のすべての使いたちが常に協力しようとしている。全天の資源は、失われた者を救おうとする人々が、いつでも自由に使用できるように提供されている。天の使いたちは、どんなに軽率で、どんなに頑固な人にでも、あなたが近づくことができるように助けを与える。そして、道に迷った者が一人でも神様のところに連れ戻されると、天全体が歓喜の声をあげる。セラピムとケルビムは、金の竪琴をかきならし、人の子らに対する神様のあわれみといつくしみに対して、神様と子羊を褒め称えるのである。」
「あらゆる霊的力をふるい起こして行動しなさい。すべてのものの終わりが間近に迫っていることを、あなたが訪問する人々に話なさい。主イエス・キリスト様は彼らの心の戸をあけて、彼らの心に永遠の感銘を与えてくださる。人々を霊的無感覚状態から目覚めさせなさい。あなたがイエス様を見出した方法、主に対する奉仕の経験を得て以来祝福されてきたことについて彼らに話なさい。あなたがイエス様のみ足もとに座る時に受ける祝福と、御言葉から尊い教訓を学ぶことを彼らに話しなさい。クリスチャンの生活にある喜びと楽しみを彼らに話なさい。あなたの温かい熱心な言葉は、あなたが非常に高価な真珠を見出したことを彼らに悟らせるであろう。あなたの快活な、励ましの言葉によって、あなたが本当により高い道を見出したことを示しなさい。これが本当の伝道の働きであり、それがなされる時、多くの者は夢から目覚めるであろう。」
少し古い証ですが、
「軍隊の力は主として兵隊の能力で測られる。賢明な将軍は兵隊のひとりびとりが活動的に勤務するようにその訓練を士官たちに指示する。彼は全部の者の最高の能力を啓発することにつとめる。もし彼が士官だけにたよれば、作戦を成功させることに期待できない。彼は軍隊内の一人びとりの忠実でうむことのない勤務を当てにする。責任は主として兵隊にかかっているのである。」
「われわれは勤勉な働き人になるはずである。怠惰な者はみじめな者である。しかし、キリストが完成するために御自分の命を与えたもうた大事業において怠惰に対し何という言い訳ができようか。霊的能力は、用いなければなくなってしまう。そして、それを滅ぼすことがサタンの計画である。全天は人々に、この世界にキリストが再臨されるための準備をさせる仕事に積極的に携わっており、『わたしたちは神様の同労者である』すべてのものの終わりは間近い。今こそ働く機会である。」
「必要なのは良心的な伝道者である。断続的な努力は少しも良くない。われわれは注意を引かねばならない。われわれは心から熱心にならねばならない。」
「キリスト様のお働きは主として個人的な会見から成っていた。彼は一人の聞き手を大いに重んじておられた。その一人から、受けた情報が多くの人々に伝えられた。」
「クリスチャン生活には三つの標語がある。それはサタンにつけ入らせぬようするために留意せねばならないもので、すなわち、目を覚まし、祈り、働くことである。」
「最も質朴な働き人がキリスト様と協力するとき、地の果てに響くような震動を起こす絃に触れることができ、永遠にメロディーを奏でるのである。」
「滅びゆく魂のために働くにあたって、あなたには天使という仲間がいる。幾百万、幾千万もの天使たちは、一つの民がキリスト様の再臨の準備ができるようにと神様が惜しみなく与えておられる光を伝えることにわれわれの教会員と協力しようと待っている。」
「このような働きには、天のすべての使いたちが常に協力しようとしている。全天の資源は、失われた者を救おうとする人々が、いつでも自由に使用できるように提供されている。天の使いたちは、どんなに軽率で、どんなに頑固な人にでも、あなたが近づくことができるように助けを与える。そして、道に迷った者が一人でも神様のところに連れ戻されると、天全体が歓喜の声をあげる。セラピムとケルビムは、金の竪琴をかきならし、人の子らに対する神様のあわれみといつくしみに対して、神様と子羊を褒め称えるのである。」
「あらゆる霊的力をふるい起こして行動しなさい。すべてのものの終わりが間近に迫っていることを、あなたが訪問する人々に話なさい。主イエス・キリスト様は彼らの心の戸をあけて、彼らの心に永遠の感銘を与えてくださる。人々を霊的無感覚状態から目覚めさせなさい。あなたがイエス様を見出した方法、主に対する奉仕の経験を得て以来祝福されてきたことについて彼らに話なさい。あなたがイエス様のみ足もとに座る時に受ける祝福と、御言葉から尊い教訓を学ぶことを彼らに話しなさい。クリスチャンの生活にある喜びと楽しみを彼らに話なさい。あなたの温かい熱心な言葉は、あなたが非常に高価な真珠を見出したことを彼らに悟らせるであろう。あなたの快活な、励ましの言葉によって、あなたが本当により高い道を見出したことを示しなさい。これが本当の伝道の働きであり、それがなされる時、多くの者は夢から目覚めるであろう。」
少し古い証ですが、
「軍隊の力は主として兵隊の能力で測られる。賢明な将軍は兵隊のひとりびとりが活動的に勤務するようにその訓練を士官たちに指示する。彼は全部の者の最高の能力を啓発することにつとめる。もし彼が士官だけにたよれば、作戦を成功させることに期待できない。彼は軍隊内の一人びとりの忠実でうむことのない勤務を当てにする。責任は主として兵隊にかかっているのである。」
2009年10月30日金曜日
「癒されたものは?」
「イエス様はまず、人々を目で見えるものでお助けになられて、目に見えないこと、すなわち罪をゆるす力についても、彼に信頼をおくようにお教えになりました。イエス様は中風の病人をいやす時に、このことをはっきりと言われました。『人の子は地上で罪を許す権威を持っていることが、あなたがたにわかるために』と言い、中風の者にむかって、「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた」
さて、前に書いたキリスト教の病院で、ご患者さんが入院されました。精密検査をしてみると、癌でした。しかも6箇所に「転移」していました。すぐに手術し、開きましたが、手の施しようがなく、閉じてしまいました。
しかし、その方はクリスチャンでしたが、こう話しました。「わたしは癌になって、イエス様を本当によく知ることができた。癌になって感謝だ」と・・・。
そして、入院している病棟でも「私は、癌になって感謝だ、癌になって感謝だ」と明るく話されていました。他の患者さんから、「少し静かにしてください」と言われた?くらいです。
さて、その方は再手術を受けることになりました。彼女が所属する教会から牧師さんがきました。その牧師さんは、手術前、執刀する医師と一緒にお祈りをしました。お祈りが終わると、牧師さんは医師にむかってこう尋ねました。「先生、だいじょうぶでしょうか」。医師は「だめでしょうね」と答えました。牧師さんは「そうでしょうね」と力なく答えました。
しかし、その患者さんは手術台に登るとき、「たとえ、これで死んだとしても、神様に感謝です」といって手術室に向かわれました。
7時間半かかると言われた手術が、30分で終わりました。6箇所開いてみると、皆きれいなピンク色をしていて、癌がすっかり癒されていたのです。
患者さんは、まもなくご退院されていかれました。
主は人の心も癒される権威を持っておられます。
さて、前に書いたキリスト教の病院で、ご患者さんが入院されました。精密検査をしてみると、癌でした。しかも6箇所に「転移」していました。すぐに手術し、開きましたが、手の施しようがなく、閉じてしまいました。
しかし、その方はクリスチャンでしたが、こう話しました。「わたしは癌になって、イエス様を本当によく知ることができた。癌になって感謝だ」と・・・。
そして、入院している病棟でも「私は、癌になって感謝だ、癌になって感謝だ」と明るく話されていました。他の患者さんから、「少し静かにしてください」と言われた?くらいです。
さて、その方は再手術を受けることになりました。彼女が所属する教会から牧師さんがきました。その牧師さんは、手術前、執刀する医師と一緒にお祈りをしました。お祈りが終わると、牧師さんは医師にむかってこう尋ねました。「先生、だいじょうぶでしょうか」。医師は「だめでしょうね」と答えました。牧師さんは「そうでしょうね」と力なく答えました。
しかし、その患者さんは手術台に登るとき、「たとえ、これで死んだとしても、神様に感謝です」といって手術室に向かわれました。
7時間半かかると言われた手術が、30分で終わりました。6箇所開いてみると、皆きれいなピンク色をしていて、癌がすっかり癒されていたのです。
患者さんは、まもなくご退院されていかれました。
主は人の心も癒される権威を持っておられます。
覚醒
ある時、こんな文章を見ました。
「わたしたちは、悲しみに手をもみ絞る時ではなく、立って働くときである。」
「われわれが信仰をもってわれわれの分をなすならば、神様はご自分の分をなさる。長い間信仰を持っている兄弟姉妹が、あなたがたは、神様がせよと命じておられる仕事をしてこなかった。人々に対するあなたの愛はどこにあるのか」
「臆病な人に対する治療法はただ1つしかない、それは困っている人のため一生懸命働くことである。」
文字通り、悲しみに手をもみ絞っていた僕は組んでいた手をといて、「何をやっているのだろう」と思いました。
ある時、安息日にどうしても学校に出てこなくてはいけなかったのを休みました。それで校長先生、副校長先生、担任の先生と面接に・・・しかし、このことを機会に、教会の証を伝え始めて、「障害も人生の最高の祝福」であることを実感しました。そしてクリスチャン以上にたくさんの方々が主イエス様の教会の証に感動してくださったのを目の当たりにした時、はっと気づいたことがあります。
「そうか、伝道が伝わらないのではなく、伝えなかったんだ!」
「あれ、こんなに頑張っているのに・・・・・・」と、「わ、全然やってこなかったんだ!」と気づくとは格段の違いです。どちらに力が加わるか。「イエス様、やってこなかったです」と悔いる心です。
「ああ、僕は何もやってこなかった」と気づけば行動が開始されます。あれが、おかしい、これがおかしいとやっているのが「馬鹿だった!」と気づきます。
「靴屋のマルチン」これは、トルストイのつくった小説、事実ではない、作り話ぐらいに思っていましたが、伝え始めると「これ初めての人にまだマタイによる福音書と言いにくいところでは役に立つよ。「そうか、このために作られたんだな」と恥ずかしい気づきが与えられます。
「敵に沈黙させられてしまったすべての僕たちに主は憐れみ深くこうおたずねになられる。『あなたはここで何をしているのか』」
「覚醒」、それは、「いつか、いつか、リバイバルが起きたら、どっかいい集会にいったら・・」と思っていました。しかし、いつの時代も答えはたった一つです。「そっか、主がしなさいということをやることなんだ・・・」。
う〜ん 身体が動かない・・・。しかしこういう証があります。
「何かせよ、すぐにせよ、全力を尽くしてせよ」「力は使えばでてきます」
実行すると・・・本当だ!主の憐れみ深さに涙するものです。
「わたしたちは、悲しみに手をもみ絞る時ではなく、立って働くときである。」
「われわれが信仰をもってわれわれの分をなすならば、神様はご自分の分をなさる。長い間信仰を持っている兄弟姉妹が、あなたがたは、神様がせよと命じておられる仕事をしてこなかった。人々に対するあなたの愛はどこにあるのか」
「臆病な人に対する治療法はただ1つしかない、それは困っている人のため一生懸命働くことである。」
文字通り、悲しみに手をもみ絞っていた僕は組んでいた手をといて、「何をやっているのだろう」と思いました。
ある時、安息日にどうしても学校に出てこなくてはいけなかったのを休みました。それで校長先生、副校長先生、担任の先生と面接に・・・しかし、このことを機会に、教会の証を伝え始めて、「障害も人生の最高の祝福」であることを実感しました。そしてクリスチャン以上にたくさんの方々が主イエス様の教会の証に感動してくださったのを目の当たりにした時、はっと気づいたことがあります。
「そうか、伝道が伝わらないのではなく、伝えなかったんだ!」
「あれ、こんなに頑張っているのに・・・・・・」と、「わ、全然やってこなかったんだ!」と気づくとは格段の違いです。どちらに力が加わるか。「イエス様、やってこなかったです」と悔いる心です。
「ああ、僕は何もやってこなかった」と気づけば行動が開始されます。あれが、おかしい、これがおかしいとやっているのが「馬鹿だった!」と気づきます。
「靴屋のマルチン」これは、トルストイのつくった小説、事実ではない、作り話ぐらいに思っていましたが、伝え始めると「これ初めての人にまだマタイによる福音書と言いにくいところでは役に立つよ。「そうか、このために作られたんだな」と恥ずかしい気づきが与えられます。
「敵に沈黙させられてしまったすべての僕たちに主は憐れみ深くこうおたずねになられる。『あなたはここで何をしているのか』」
「覚醒」、それは、「いつか、いつか、リバイバルが起きたら、どっかいい集会にいったら・・」と思っていました。しかし、いつの時代も答えはたった一つです。「そっか、主がしなさいということをやることなんだ・・・」。
う〜ん 身体が動かない・・・。しかしこういう証があります。
「何かせよ、すぐにせよ、全力を尽くしてせよ」「力は使えばでてきます」
実行すると・・・本当だ!主の憐れみ深さに涙するものです。
2009年10月29日木曜日
一番ほしいもの
さて、むか~し聖書の中で、僕が一番欲しい賜物がありました。
それは、「癒しの賜物」・・・らい病人をいやし、足なえの足を立たせ・・・
「この奇跡があれば、伝道もさぞかし・・・」
そして・・・聖書に書いてあるような「癒しの賜物」はいただいていませんが・・・
数々の癒しの御業は見てきました。それは、今もなお多くの人の心に残っています。
しかし・・・?必ずしも癒されたから「よし、イエス様にお答えして・・・」というわけではないことを知ります。
心臓病で、足が悪く、お金もない・・・方が教会に来られ、
心臓病がいやされ、足も直り、売れない細い土地が売れて・・・よし残りの生涯は献身?ではありませんでした。
「よし、これから山に遊びに行こう!」
その後、信仰から離れていかれました。
10人のらい病人が癒されても、帰ってきたのはたった一人、
また、生まれつき盲目の方が、シロアムの池に行って目を洗い、いやされて、証ししたら、両親から見捨てられ、会堂から破門されて・・・との話は、今も同じであることを見ることになります。
紅海が分かれ、マナが降り、岩から水が吹き出したのを目の当たりに見たイスラエルの人、
三日?ぐらいで御業を忘れ、つぶやきはじめます。
これは、今もなお、現実の話・・・
僕も脳腫瘍の方が、クリスチャンの方の祈りと、愛と、食事で癒されたり、喘息が癒されたり、アトピーが癒されたり、末期すい臓癌の方が命を永らえ、などなどたくさん見てきました。
また、もはや助からないと言われた方が、オリーブ油の祈りでいやされたり・・・
ある妊婦さん・・・出産後・・肺塞栓症になり、心肺停止、必死の救急蘇生でもよみがえりませんでした。医師があきらめ、死亡診断書を書こうと決意した時・・・急に顔に鮮やかな血色が戻り、患者さんは助かりました。
陰の控え室で看護婦さんが集まって祈っておられたそうです。
他にも、拒食症になり、医師が死亡診断書を書いた時、牧師さんの祈りでいやされたり方、交通事故で、眼球が飛び出て、耳がちぎれ飛んで、人工眼球も用意され、命も助からないといわれた方が牧師さんたちが病室に入って膝まづいてお祈りされ癒された話、・・・
すべて厳粛な事実も聞いてきました。
自らもひざを癒されたり・・
もちろん、
「弟子であると公言するだけでは何の価値もありません。魂を救うキリストに対する信仰とは多くの人が表明しているようなものではないのです。彼らは「信じなさい、信じなさい、あなたは律法も守る必要はない」と言います。しかし、服従へ導かない信仰は臆断です。使徒ヨハネは、「『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない」と言っています。だれも、特別な摂理や奇跡的なあらわれなどがあるからといって、彼らの働きやその主張する思想がまちがいない証拠であると考えてはなりません。人々が神様のことばを軽んじて語り自分の印象や感情や行動を神様の標準以上に見なす時、彼らのうちには光がないことがわかるのです。
服従は弟子であることの試金石です。私たちの神様に対する愛の真実性を証拠だてるのは律法の遵守です。わたしたちの受け入れる教理が心の中の罪の根を断ち、魂を汚れから清め、清きに至る実を結ばせるなら、わたしたちはそれが神様の真理であることを知ることができます。」
「神様のみこころの一点をあえて無視することによって、私たちの最初の祖先は、この世界にわざわいの水門を開いてしまいました。そして彼らの例にならう者はみな、同様の結果を刈り取ります。神様の愛がその律法の一つ一つの戒めの基礎です。そして戒めを離れる者は、自分で自分の不幸と破滅をもたらしているのです」
なのですが・・・
イエス様は9人戻ってこられないこともご存知でいらしたのにおいやしになられた・・・
イエス様のユダヤ人も、サマリヤ人も、盲人の両親や祭司たちもお救いになられたかった・・・
イエス様は人の幸せしか考えておられないようです。その愛をほんのちょっとずつ知っていくことになります。
「許しを与える神様の愛を受け、また、その精神をあらわすために欠くことのできない一つのことは、神様がわたしたちに対していだいておられる愛を知り、かつ信じることです。わたしたちがその愛を認めないように、サタンはあらゆる欺きをもって働いています。彼は、あやまちや罪があまりに大きいので、主はわたしたちの祈りをかえりみてくださらず、わたしたちを祝福し、救ってはくださらないと思わせようとします。わたしたち自身のうちには、欠点以外何も見られず、神様にとって魅力のあるものは何も見られません。サタンはむだだ、品性の欠陥を改めることはできないとわたしたちに告げます。わたしたちが神様のもとに来ようとする時、敵は祈ってもむだだ、あなたはあの悪事をしたではないか、あなたは神様に対して罪を犯し、自己の良心にそむいたではないかとささやくでしょう。
しかしわたしたちは「御子イエス様の血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」と敵に告げることができます。わたしたちが罪を犯した、祈ることができないと感じる時こそ、まさに祈るべき時なのです。恥し、誇りをいたく傷つけられているかも知れませんが、祈り、かつ信じなければなりません。・・・・」
放蕩息子のお兄さんも、弟も、すべては これからの人生・・・
「神様の愛は、難攻不落の要塞です」
僕も信じています。それはこの地上の誰よりも、深い愛・・・
いえ・・宇宙で一番大きな愛を持っておられる御方であると・・・
イエス様と、人の思い、あまりにも当然・・・人では到底測り知れないくらい・・・ちがうようです。
「品性を評価するにあたって、神様と人との標準は、なんと大きな相違があることであろう。世の中や親しい友人さえも知らない、家庭内や心のなかの誘惑、数々の誘惑に打ち勝ったことなどを神様はごらんになる。自己の弱さを知って、けんそんにしていること、一つの悪い思いでさえ、心から悔い改めることなどを、神様はごらんになる。また、神様は、ご用のために心から奉仕する人をごらんになる。自己とのはげしい戦い、そして遂に、その戦いの勝利したことなども注目なさるのである。これらのすべてを、神様が知っておられ天使も知っている。主をおそれ、主の名をおぼえる者のために、主の前に記憶の書がかかれている」
それは、「癒しの賜物」・・・らい病人をいやし、足なえの足を立たせ・・・
「この奇跡があれば、伝道もさぞかし・・・」
そして・・・聖書に書いてあるような「癒しの賜物」はいただいていませんが・・・
数々の癒しの御業は見てきました。それは、今もなお多くの人の心に残っています。
しかし・・・?必ずしも癒されたから「よし、イエス様にお答えして・・・」というわけではないことを知ります。
心臓病で、足が悪く、お金もない・・・方が教会に来られ、
心臓病がいやされ、足も直り、売れない細い土地が売れて・・・よし残りの生涯は献身?ではありませんでした。
「よし、これから山に遊びに行こう!」
その後、信仰から離れていかれました。
10人のらい病人が癒されても、帰ってきたのはたった一人、
また、生まれつき盲目の方が、シロアムの池に行って目を洗い、いやされて、証ししたら、両親から見捨てられ、会堂から破門されて・・・との話は、今も同じであることを見ることになります。
紅海が分かれ、マナが降り、岩から水が吹き出したのを目の当たりに見たイスラエルの人、
三日?ぐらいで御業を忘れ、つぶやきはじめます。
これは、今もなお、現実の話・・・
僕も脳腫瘍の方が、クリスチャンの方の祈りと、愛と、食事で癒されたり、喘息が癒されたり、アトピーが癒されたり、末期すい臓癌の方が命を永らえ、などなどたくさん見てきました。
また、もはや助からないと言われた方が、オリーブ油の祈りでいやされたり・・・
ある妊婦さん・・・出産後・・肺塞栓症になり、心肺停止、必死の救急蘇生でもよみがえりませんでした。医師があきらめ、死亡診断書を書こうと決意した時・・・急に顔に鮮やかな血色が戻り、患者さんは助かりました。
陰の控え室で看護婦さんが集まって祈っておられたそうです。
他にも、拒食症になり、医師が死亡診断書を書いた時、牧師さんの祈りでいやされたり方、交通事故で、眼球が飛び出て、耳がちぎれ飛んで、人工眼球も用意され、命も助からないといわれた方が牧師さんたちが病室に入って膝まづいてお祈りされ癒された話、・・・
すべて厳粛な事実も聞いてきました。
自らもひざを癒されたり・・
もちろん、
「弟子であると公言するだけでは何の価値もありません。魂を救うキリストに対する信仰とは多くの人が表明しているようなものではないのです。彼らは「信じなさい、信じなさい、あなたは律法も守る必要はない」と言います。しかし、服従へ導かない信仰は臆断です。使徒ヨハネは、「『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない」と言っています。だれも、特別な摂理や奇跡的なあらわれなどがあるからといって、彼らの働きやその主張する思想がまちがいない証拠であると考えてはなりません。人々が神様のことばを軽んじて語り自分の印象や感情や行動を神様の標準以上に見なす時、彼らのうちには光がないことがわかるのです。
服従は弟子であることの試金石です。私たちの神様に対する愛の真実性を証拠だてるのは律法の遵守です。わたしたちの受け入れる教理が心の中の罪の根を断ち、魂を汚れから清め、清きに至る実を結ばせるなら、わたしたちはそれが神様の真理であることを知ることができます。」
「神様のみこころの一点をあえて無視することによって、私たちの最初の祖先は、この世界にわざわいの水門を開いてしまいました。そして彼らの例にならう者はみな、同様の結果を刈り取ります。神様の愛がその律法の一つ一つの戒めの基礎です。そして戒めを離れる者は、自分で自分の不幸と破滅をもたらしているのです」
なのですが・・・
イエス様は9人戻ってこられないこともご存知でいらしたのにおいやしになられた・・・
イエス様のユダヤ人も、サマリヤ人も、盲人の両親や祭司たちもお救いになられたかった・・・
イエス様は人の幸せしか考えておられないようです。その愛をほんのちょっとずつ知っていくことになります。
「許しを与える神様の愛を受け、また、その精神をあらわすために欠くことのできない一つのことは、神様がわたしたちに対していだいておられる愛を知り、かつ信じることです。わたしたちがその愛を認めないように、サタンはあらゆる欺きをもって働いています。彼は、あやまちや罪があまりに大きいので、主はわたしたちの祈りをかえりみてくださらず、わたしたちを祝福し、救ってはくださらないと思わせようとします。わたしたち自身のうちには、欠点以外何も見られず、神様にとって魅力のあるものは何も見られません。サタンはむだだ、品性の欠陥を改めることはできないとわたしたちに告げます。わたしたちが神様のもとに来ようとする時、敵は祈ってもむだだ、あなたはあの悪事をしたではないか、あなたは神様に対して罪を犯し、自己の良心にそむいたではないかとささやくでしょう。
しかしわたしたちは「御子イエス様の血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」と敵に告げることができます。わたしたちが罪を犯した、祈ることができないと感じる時こそ、まさに祈るべき時なのです。恥し、誇りをいたく傷つけられているかも知れませんが、祈り、かつ信じなければなりません。・・・・」
放蕩息子のお兄さんも、弟も、すべては これからの人生・・・
「神様の愛は、難攻不落の要塞です」
僕も信じています。それはこの地上の誰よりも、深い愛・・・
いえ・・宇宙で一番大きな愛を持っておられる御方であると・・・
イエス様と、人の思い、あまりにも当然・・・人では到底測り知れないくらい・・・ちがうようです。
「品性を評価するにあたって、神様と人との標準は、なんと大きな相違があることであろう。世の中や親しい友人さえも知らない、家庭内や心のなかの誘惑、数々の誘惑に打ち勝ったことなどを神様はごらんになる。自己の弱さを知って、けんそんにしていること、一つの悪い思いでさえ、心から悔い改めることなどを、神様はごらんになる。また、神様は、ご用のために心から奉仕する人をごらんになる。自己とのはげしい戦い、そして遂に、その戦いの勝利したことなども注目なさるのである。これらのすべてを、神様が知っておられ天使も知っている。主をおそれ、主の名をおぼえる者のために、主の前に記憶の書がかかれている」
2009年10月25日日曜日
隠れクリスチャン?
「夜が暗ければ暗いほど、星は美しく輝くのである」
世の中、真っ暗・・・。
あちこちにため息や、失望の声が聞こえます。
さて、ある普通の演奏会の指揮者のあいさつ文、読んでいくと・・・
親しい友人が・・・「この人きっと隠れキリシタンだよ・・・」
そもそも曲名は「ヨハネ受難曲」、その演奏会では御言葉は公然とそして純粋に証されていました。
ある営業さん・・・「僕は、いつもかばんの中に聖書を持ち歩いているんですよ。そして仕事先で『こいつ憎い』と思うと読むんです。」
周りの方々に小さな証を話していくと、とっても驚くことがあります。みなさん、かなりキリスト教と密接につながっていることです。ミッションスクール、幼稚園、親戚、友人・・・。もちろん黙っていれば誰もわからない・・・。しかし、話を聞いてみると・・・ある方の机の中には、いつも聖書とリビングバイブルがあり、事務所の名前は「祈りの部屋」と名づけられたとか、そして、「僕はクリスチャンじゃないけど、キリストを信じている」とみんなの前でおっしゃったりするようになられました。
ある在宅酸素療法の営業さんはとっても忙しいお仕事の中、おじいさん、おばあさんに時には何時間も???話を聞いてあげて、そのため?毎日、仕事が終わるのは夜の12時・・・。
しかし、休日はダウン症の子供たちのため、ボランティア活動へ行かれています。部下がミスをしても、「俺たちの教え方が悪かったんだ」と上の人に謝りにいかれます。
そして、仕事もとっても重要な職責を任されていらっしゃいます。
また、ある方は困っている人には病院の社会相談室の仕事の範囲を超えて、親身になってその方の生活や、様々な悩み事に関わり続けられています。仕事を失って困っていたら、「あげるつもりで」100万円、ポンと渡されます。当然、家族からは反対と文句の声「返ってこないよ・・・」。
しかし、そんなことはおかまいなく、にこやかにされています。お金を借りた相手の方は、一生懸命働かれました。そして、そのお金を「そのまま」返されたそうです。
「こんなに信用してくださって・・・」と感動され、勇気が与えられ、仕事を見つけ、働かれたそうです。そして、そのお金には「とっても手がつけられたかった」そうです。
ある方は、身内の女の子が、友達に悪魔の業をかけられ、失神し、男の声で話すようになります。そして学校の先生は怖くなり逃げてしまいます。しかし、その方は、「悪魔はイエス様のお名前が怖い、感謝の心が嫌い、イエス様にお詫びする心が嫌い」そして「イエス様お助けくださいと祈ること」、との話を聞き、そして「イエス様は悪魔に対して絶対的支配力を持っておられる」と聞くと、さっそく女の子に教えられます。
するとある日ニコニコして「とっても元気になったよ」と明るくおっしゃっておられました。そして、「その子が来たら、わたしにはキリストがついているから大丈夫、と言ってあげな!と言ってやったの」と明るくおっしゃっておられました。
何か信仰深い牧師さんが悪魔を追い出された話は聞いたことがありますが・・・普通の人が??
「『イエス様お助けください、私たちは死にそうです。』この叫びをあげて顧みられない魂はない。」
「主の名は堅固なやぐらのようだ、
正しい者はその中に走りこんで救いを得る」
「エッサイの根から芽が出て、
異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。
異邦人は彼に望みをおくであろう。」
「あなたがたは、世の光である」との救い主のみことばは、主の弟子たちに世界的任務がゆだねられた事実を示しています。キリストの時代には、神様のみことばの守り手に任ぜられた者たちと地球上の他のすべての国々との間に、利己主義、高慢、偏見が、強く高い障壁を築いていました。しかし救い主はこのすべてを変えるためにこられたのです。人々が主の口から聞いたことばは、彼らがいままでラビから聞いてきた事とまったく違っていました。キリストはへだての壁、利己主義、国民と国民をへだてる偏見を打破し、人類全体に対する愛をお教えになっています。主は利己主義が規定する狭い囲いから人々を引き上げ、すべての国境線や社会の人為的差別を廃されます。主は隣人と見知らぬ他人、また友人と敵の区別をなくされます。そしてわたしたちにすべての困窮者を隣人と見、世界をわたしたちの伝道地とみなすようにお教えになっています。」
すべての出来事は、僕自身の心の中にある国境線や偏見を壊し続けています。
エリヤさんが主を信じる人を数えられ、「たった一人」を思われていらした時、主は憐れみ深く、「バアルに膝をかがめない」7000人の方々のことをお教えになられました。
「この世では少数の人々と歩むと思えても、・・・天では大多数となるのである」のような証しもあったような・・・。
本物のクリスチャン、そして隠れクリスチャンの方々は・・・今もなおたくさんの世の人々の幸せのため、信じられないくらい数々の素晴らしい働きをして、天に宝をたくわえています。
「しかし、キリストに従う者は、自分たちの望みが絶たれたのではないか、神様は地をお見捨てになったのではないかなどと恐れるべきではありませんでした。力と栄えとは神様に帰し、神様の偉大な目的は、何ら妨げられることなく、その完成へ向かって前進するのです。日ごとの必要を言い表す祈りの中で、キリストの弟子たちは、悪のあらゆる支配を越えて、万物の主宰者であり、彼らの父であり、永遠の友である神様を仰ぎ見るように命じられているのです。」
世の中、真っ暗・・・。
あちこちにため息や、失望の声が聞こえます。
さて、ある普通の演奏会の指揮者のあいさつ文、読んでいくと・・・
親しい友人が・・・「この人きっと隠れキリシタンだよ・・・」
そもそも曲名は「ヨハネ受難曲」、その演奏会では御言葉は公然とそして純粋に証されていました。
ある営業さん・・・「僕は、いつもかばんの中に聖書を持ち歩いているんですよ。そして仕事先で『こいつ憎い』と思うと読むんです。」
周りの方々に小さな証を話していくと、とっても驚くことがあります。みなさん、かなりキリスト教と密接につながっていることです。ミッションスクール、幼稚園、親戚、友人・・・。もちろん黙っていれば誰もわからない・・・。しかし、話を聞いてみると・・・ある方の机の中には、いつも聖書とリビングバイブルがあり、事務所の名前は「祈りの部屋」と名づけられたとか、そして、「僕はクリスチャンじゃないけど、キリストを信じている」とみんなの前でおっしゃったりするようになられました。
ある在宅酸素療法の営業さんはとっても忙しいお仕事の中、おじいさん、おばあさんに時には何時間も???話を聞いてあげて、そのため?毎日、仕事が終わるのは夜の12時・・・。
しかし、休日はダウン症の子供たちのため、ボランティア活動へ行かれています。部下がミスをしても、「俺たちの教え方が悪かったんだ」と上の人に謝りにいかれます。
そして、仕事もとっても重要な職責を任されていらっしゃいます。
また、ある方は困っている人には病院の社会相談室の仕事の範囲を超えて、親身になってその方の生活や、様々な悩み事に関わり続けられています。仕事を失って困っていたら、「あげるつもりで」100万円、ポンと渡されます。当然、家族からは反対と文句の声「返ってこないよ・・・」。
しかし、そんなことはおかまいなく、にこやかにされています。お金を借りた相手の方は、一生懸命働かれました。そして、そのお金を「そのまま」返されたそうです。
「こんなに信用してくださって・・・」と感動され、勇気が与えられ、仕事を見つけ、働かれたそうです。そして、そのお金には「とっても手がつけられたかった」そうです。
ある方は、身内の女の子が、友達に悪魔の業をかけられ、失神し、男の声で話すようになります。そして学校の先生は怖くなり逃げてしまいます。しかし、その方は、「悪魔はイエス様のお名前が怖い、感謝の心が嫌い、イエス様にお詫びする心が嫌い」そして「イエス様お助けくださいと祈ること」、との話を聞き、そして「イエス様は悪魔に対して絶対的支配力を持っておられる」と聞くと、さっそく女の子に教えられます。
するとある日ニコニコして「とっても元気になったよ」と明るくおっしゃっておられました。そして、「その子が来たら、わたしにはキリストがついているから大丈夫、と言ってあげな!と言ってやったの」と明るくおっしゃっておられました。
何か信仰深い牧師さんが悪魔を追い出された話は聞いたことがありますが・・・普通の人が??
「『イエス様お助けください、私たちは死にそうです。』この叫びをあげて顧みられない魂はない。」
「主の名は堅固なやぐらのようだ、
正しい者はその中に走りこんで救いを得る」
「エッサイの根から芽が出て、
異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。
異邦人は彼に望みをおくであろう。」
「あなたがたは、世の光である」との救い主のみことばは、主の弟子たちに世界的任務がゆだねられた事実を示しています。キリストの時代には、神様のみことばの守り手に任ぜられた者たちと地球上の他のすべての国々との間に、利己主義、高慢、偏見が、強く高い障壁を築いていました。しかし救い主はこのすべてを変えるためにこられたのです。人々が主の口から聞いたことばは、彼らがいままでラビから聞いてきた事とまったく違っていました。キリストはへだての壁、利己主義、国民と国民をへだてる偏見を打破し、人類全体に対する愛をお教えになっています。主は利己主義が規定する狭い囲いから人々を引き上げ、すべての国境線や社会の人為的差別を廃されます。主は隣人と見知らぬ他人、また友人と敵の区別をなくされます。そしてわたしたちにすべての困窮者を隣人と見、世界をわたしたちの伝道地とみなすようにお教えになっています。」
すべての出来事は、僕自身の心の中にある国境線や偏見を壊し続けています。
エリヤさんが主を信じる人を数えられ、「たった一人」を思われていらした時、主は憐れみ深く、「バアルに膝をかがめない」7000人の方々のことをお教えになられました。
「この世では少数の人々と歩むと思えても、・・・天では大多数となるのである」のような証しもあったような・・・。
本物のクリスチャン、そして隠れクリスチャンの方々は・・・今もなおたくさんの世の人々の幸せのため、信じられないくらい数々の素晴らしい働きをして、天に宝をたくわえています。
「しかし、キリストに従う者は、自分たちの望みが絶たれたのではないか、神様は地をお見捨てになったのではないかなどと恐れるべきではありませんでした。力と栄えとは神様に帰し、神様の偉大な目的は、何ら妨げられることなく、その完成へ向かって前進するのです。日ごとの必要を言い表す祈りの中で、キリストの弟子たちは、悪のあらゆる支配を越えて、万物の主宰者であり、彼らの父であり、永遠の友である神様を仰ぎ見るように命じられているのです。」
2009年10月22日木曜日
「私たちの日ごとの食物」
イエス様が、5つのパンと、二匹の魚で5000人以上の人を養われた話、たぶん小さいときから教会で育った方なら、よく聞かれた話、子供の絵本にもなっている奇跡です。
旧約聖書では、初穂のパンと、大麦のパン20個、新穀1袋により、エリシャさんのまわりにいた100人の人々を養われ、「彼らは食べてなお余した」と聖なる歴史に記録されています。
19世紀後半の方の証によると、「神様は、その後の歴史においてもたびたびそのような御業を現してこられた。」たぶん、孤児院に食べ物が窮乏したとき、お祈りによって食料が届けられた話などなど、「あったなあ」と思い出される方々もたくさんいらっしゃると思います。
小さな集会所で、講演会を開いた時、来られる方々は27人ということになり、教会の方々が夕食のため「おにぎり」を作られました。
しかし、実際に集まったのは30人・・・
「日ごろ、献身している人は、食べなくてもいいよね」なんて話していました。
さて、講演会が終わり、食事の時になりました。
一人一人に「おにぎり」が渡されていきます。
そして、さあ、お祈りして「いただきます・・・」
その時・・・「おにぎり」は毎日、献身していらっしゃるクリスチャンの方々含めすべての人の手に握られていました・
また、ある野外礼拝のとき、今度は教会でお弁当を作りました。この時も「おにぎり」
それをラップで1つ1つ包んできます。教会で敬虔なクリスチャンの当時、未信者のだんなさまが包んでいきます。ラップがわずかしかなかったので、他の教会員の方が、買いに出かけられました。ところがだんなさま「あれ?」「こりゃすごい」
もうわずかしか残っていないラップが・・・
なくならないで次々・・・しまいにはさすがのだんなさんも笑い出しました。
最後のおにぎりが包み終わった時、ラップは空になりました。
そして、自然公園に野外礼拝に行きます。礼拝も終わり、食事時・・・
なんと、多くの方がお弁当を持ってきていませんでした。
敷物をひいて教会で作ったお弁当を開きます。
すると・・・みんなおなかいっぱいに食べ、なおかなりたくさん余ったので家々にお土産にもっていかれました。
さて、たしかある正月、「うどん」をみんなで食べることになり、数々の具を用意する方々、「つゆ」を用意する方とそれそれ分担されました。
そして二人の人が「うどんの麺」を家から用意してくることになりました。
さて、みなさん、集会が終わり、いよいよ食事、おつゆはOK,具もOK、いよいよ「うどん」・・・
「あっ!」一人の人が忘れてきたことに気づきます。
「こりゃ、うどんが泳ぐようだね」と言いつつ、クリスチャンの方が「半分のうどん」でつくりはじめます。
すると・・・みんなによそわられた「うどん」はいっぱい!・・・あまるほどでした。
ある教会小学校の行事の時、教会の方々もそれに参加することになりました。
教会でお弁当をつくります。しかも、かなり豪華、お重に、いなりずし、おふかし、果物、などなどいっぱい持っていかれました。
さて、いよいよ食事の時、他教会の方々と久しぶりにお会いし、「ぜひ、食事も一緒に」ということになりました。しかし用意している方々は、知っていました。
「お皿の数がたりない」・・・・
しかし、お皿が配られると、すべての人が足りていました。
教会に帰って・・・クリスチャンの方々は、お皿を数えられませんでした。
「数えないのよ・・・」と静かにおっしゃっておられました。
ある教会学校では、生徒たちとの食事のとき、間違って一人分多く並べてしまっても、経験のある方は、静かに落ち着いておられます。
すると・・・
誰も知らない思いがけないお客さんが来られます。まるで、神様が食事を用意してくださっておられたかのようでした・・・
教会のクリスチャンの方々は、決して驚いたりされません。厳粛でうやうやしく、静かに証していらっしゃいました。
このような話をすると・・たぶん長い間信仰を持ってこられた方々は、
「そうねえ」と次々と証を思い出されると思います。
「イエス様はたびたびこのような御業を現してこられた」からです。
旧約聖書では、初穂のパンと、大麦のパン20個、新穀1袋により、エリシャさんのまわりにいた100人の人々を養われ、「彼らは食べてなお余した」と聖なる歴史に記録されています。
19世紀後半の方の証によると、「神様は、その後の歴史においてもたびたびそのような御業を現してこられた。」たぶん、孤児院に食べ物が窮乏したとき、お祈りによって食料が届けられた話などなど、「あったなあ」と思い出される方々もたくさんいらっしゃると思います。
小さな集会所で、講演会を開いた時、来られる方々は27人ということになり、教会の方々が夕食のため「おにぎり」を作られました。
しかし、実際に集まったのは30人・・・
「日ごろ、献身している人は、食べなくてもいいよね」なんて話していました。
さて、講演会が終わり、食事の時になりました。
一人一人に「おにぎり」が渡されていきます。
そして、さあ、お祈りして「いただきます・・・」
その時・・・「おにぎり」は毎日、献身していらっしゃるクリスチャンの方々含めすべての人の手に握られていました・
また、ある野外礼拝のとき、今度は教会でお弁当を作りました。この時も「おにぎり」
それをラップで1つ1つ包んできます。教会で敬虔なクリスチャンの当時、未信者のだんなさまが包んでいきます。ラップがわずかしかなかったので、他の教会員の方が、買いに出かけられました。ところがだんなさま「あれ?」「こりゃすごい」
もうわずかしか残っていないラップが・・・
なくならないで次々・・・しまいにはさすがのだんなさんも笑い出しました。
最後のおにぎりが包み終わった時、ラップは空になりました。
そして、自然公園に野外礼拝に行きます。礼拝も終わり、食事時・・・
なんと、多くの方がお弁当を持ってきていませんでした。
敷物をひいて教会で作ったお弁当を開きます。
すると・・・みんなおなかいっぱいに食べ、なおかなりたくさん余ったので家々にお土産にもっていかれました。
さて、たしかある正月、「うどん」をみんなで食べることになり、数々の具を用意する方々、「つゆ」を用意する方とそれそれ分担されました。
そして二人の人が「うどんの麺」を家から用意してくることになりました。
さて、みなさん、集会が終わり、いよいよ食事、おつゆはOK,具もOK、いよいよ「うどん」・・・
「あっ!」一人の人が忘れてきたことに気づきます。
「こりゃ、うどんが泳ぐようだね」と言いつつ、クリスチャンの方が「半分のうどん」でつくりはじめます。
すると・・・みんなによそわられた「うどん」はいっぱい!・・・あまるほどでした。
ある教会小学校の行事の時、教会の方々もそれに参加することになりました。
教会でお弁当をつくります。しかも、かなり豪華、お重に、いなりずし、おふかし、果物、などなどいっぱい持っていかれました。
さて、いよいよ食事の時、他教会の方々と久しぶりにお会いし、「ぜひ、食事も一緒に」ということになりました。しかし用意している方々は、知っていました。
「お皿の数がたりない」・・・・
しかし、お皿が配られると、すべての人が足りていました。
教会に帰って・・・クリスチャンの方々は、お皿を数えられませんでした。
「数えないのよ・・・」と静かにおっしゃっておられました。
ある教会学校では、生徒たちとの食事のとき、間違って一人分多く並べてしまっても、経験のある方は、静かに落ち着いておられます。
すると・・・
誰も知らない思いがけないお客さんが来られます。まるで、神様が食事を用意してくださっておられたかのようでした・・・
教会のクリスチャンの方々は、決して驚いたりされません。厳粛でうやうやしく、静かに証していらっしゃいました。
このような話をすると・・たぶん長い間信仰を持ってこられた方々は、
「そうねえ」と次々と証を思い出されると思います。
「イエス様はたびたびこのような御業を現してこられた」からです。
2009年10月21日水曜日
伝道旅行
夏休み、冬休み、春休み・・・と学校が休みになると教会学校が開かれます。
しかも、休みの初日から、最後の日まで開かれるまさしく教会学校。しかも、朝の朝礼?? から始まって、夜まで・・・。かなり楽しい学校でした。
大人の教会員も会社に休みをとって出席、子供達、若者達の学校の勉強を手伝ったり、子供達を連れて、車で遊びに行ったり・・・かなり楽しいです。子供達の純粋さ、素直さに元気をいただいているのでしょう。青年達のため、簿記や英会話、実務パソコンなどを教えられた方もいらっしゃいます。
もちろん、陰で子供達のために祈り、心を配られ、配慮されていらっしゃる方のご苦労があってのことだとは思いますが・・・。
子供達は、自然に、料理、掃除、挨拶、手伝い、また友達への配慮などを覚えているようです。彼らにとっては、奉仕は、「一番好きなこと」。「おちこぼれ」の子供時代とは「大違い」・・・
教える方々は、ご家庭の主婦の方々ですが、「おちこぼれ」に言わせるとまさしく「プロフェッショナル」。生活の知恵が隅々に行き届いており、話を聞いているだけで相当な知恵に恵まれます。
そこで教えられる聖書の話は、子供でも理解できること・・・。もちろん信仰って子供でも簡単に理解できることですけど。あるいは子供のほうが理解できる??
その中で、育まれる心のつながりは、お互いの思いやりはまさしく「兄弟、姉妹」。切っても切れない強さがあります。一生の宝物ですね。
さて、その中でのメインイベントは、教会員みんなと家族で行く、伝道旅行・・・。信仰の先輩のクリスチャンは、この旅行のために1ヶ月?前からお祈りされるとか・・・。
そこでの祝福は本当に大きいものです。出発予定の日、天気予報をみると・・・、大きな台風がまっすぐ近づいています。しかも、ちょうど時刻も、場所も旅行を直撃・・・。しかし、当日になると・・・空は晴れわたり、きれいな青空がその日を祝福しているかのようです。台風が急にスピードを上げ、教会員を乗せたバスは、その台風を追いかける形になったのです。
台風一過・・・。そしてフェーン現象が起こり、季節的に入れないはずの時期でしたが、みんなで海水浴も楽しみました。地元の方はびっくり、「あんたら運がいいよ、今年の夏は2、3日しか海が開かれなかったよ」。
それに続き、モーターボートの分乗しての岩めぐり・・・。地元の船主さんは言います。「あんたら運がいいよ。台風の後は海が荒れるのにねえ・・・」とびっくりされます。そして、次の川くだり・・・岩々を船頭さんのお話と、小唄が反響します。「皆さんも一曲・・・」と船頭さんがおっしゃるので、全員で「神の御子にますイエスのために」の賛美歌を歌い、主を褒め称える声が、主が御創りになられた大自然に響き渡ります。この船頭さんは、毎年の顔なじみになりました。
海の家でも、旅館でもイエス様の証・・・。みなさん、とってもあたたかい方々でした。
いよいよ、おいしい夕食を終えて帰路につきます。その時、信者さんのご家族で未信者の方々は、つぶやき始めます。「こりゃ、夜遅くなるよ。帰れないよ」 何せ、連休の最後の日、ごもっとも・・・。高速道路に出ると、あちこちに表示が出ます。「渋滞40km」「渋滞15km」。しかし、バスは渋滞にかかることなく、すいすいと進んでいきます。これには、子供達も、ご家族の方々も、主を畏れます。
すると、夕方の雲の間から、美しい太陽の光がつらぬいて「ヤコブのはしご」を描き出します。バスの中より、王をたたえる賛美歌が響きわります。「ハレルヤ、全能の主、統べおさめたまえり」。
この伝道旅行に参加された方々の数々の証は計り知られず・・・。様々な方々がキリスト・イエス様を信じるようになっています。
しかも、休みの初日から、最後の日まで開かれるまさしく教会学校。しかも、朝の朝礼?? から始まって、夜まで・・・。かなり楽しい学校でした。
大人の教会員も会社に休みをとって出席、子供達、若者達の学校の勉強を手伝ったり、子供達を連れて、車で遊びに行ったり・・・かなり楽しいです。子供達の純粋さ、素直さに元気をいただいているのでしょう。青年達のため、簿記や英会話、実務パソコンなどを教えられた方もいらっしゃいます。
もちろん、陰で子供達のために祈り、心を配られ、配慮されていらっしゃる方のご苦労があってのことだとは思いますが・・・。
子供達は、自然に、料理、掃除、挨拶、手伝い、また友達への配慮などを覚えているようです。彼らにとっては、奉仕は、「一番好きなこと」。「おちこぼれ」の子供時代とは「大違い」・・・
教える方々は、ご家庭の主婦の方々ですが、「おちこぼれ」に言わせるとまさしく「プロフェッショナル」。生活の知恵が隅々に行き届いており、話を聞いているだけで相当な知恵に恵まれます。
そこで教えられる聖書の話は、子供でも理解できること・・・。もちろん信仰って子供でも簡単に理解できることですけど。あるいは子供のほうが理解できる??
その中で、育まれる心のつながりは、お互いの思いやりはまさしく「兄弟、姉妹」。切っても切れない強さがあります。一生の宝物ですね。
さて、その中でのメインイベントは、教会員みんなと家族で行く、伝道旅行・・・。信仰の先輩のクリスチャンは、この旅行のために1ヶ月?前からお祈りされるとか・・・。
そこでの祝福は本当に大きいものです。出発予定の日、天気予報をみると・・・、大きな台風がまっすぐ近づいています。しかも、ちょうど時刻も、場所も旅行を直撃・・・。しかし、当日になると・・・空は晴れわたり、きれいな青空がその日を祝福しているかのようです。台風が急にスピードを上げ、教会員を乗せたバスは、その台風を追いかける形になったのです。
台風一過・・・。そしてフェーン現象が起こり、季節的に入れないはずの時期でしたが、みんなで海水浴も楽しみました。地元の方はびっくり、「あんたら運がいいよ、今年の夏は2、3日しか海が開かれなかったよ」。
それに続き、モーターボートの分乗しての岩めぐり・・・。地元の船主さんは言います。「あんたら運がいいよ。台風の後は海が荒れるのにねえ・・・」とびっくりされます。そして、次の川くだり・・・岩々を船頭さんのお話と、小唄が反響します。「皆さんも一曲・・・」と船頭さんがおっしゃるので、全員で「神の御子にますイエスのために」の賛美歌を歌い、主を褒め称える声が、主が御創りになられた大自然に響き渡ります。この船頭さんは、毎年の顔なじみになりました。
海の家でも、旅館でもイエス様の証・・・。みなさん、とってもあたたかい方々でした。
いよいよ、おいしい夕食を終えて帰路につきます。その時、信者さんのご家族で未信者の方々は、つぶやき始めます。「こりゃ、夜遅くなるよ。帰れないよ」 何せ、連休の最後の日、ごもっとも・・・。高速道路に出ると、あちこちに表示が出ます。「渋滞40km」「渋滞15km」。しかし、バスは渋滞にかかることなく、すいすいと進んでいきます。これには、子供達も、ご家族の方々も、主を畏れます。
すると、夕方の雲の間から、美しい太陽の光がつらぬいて「ヤコブのはしご」を描き出します。バスの中より、王をたたえる賛美歌が響きわります。「ハレルヤ、全能の主、統べおさめたまえり」。
この伝道旅行に参加された方々の数々の証は計り知られず・・・。様々な方々がキリスト・イエス様を信じるようになっています。
2009年10月20日火曜日
力をくださった証
「助けを必要としているところで熱心に思慮深く努力することにより、まことのクリスチャンは神様に対し、また同胞に対し自分の愛を示すのである。彼は奉仕のために命を失うかもしれない。しかし、キリスト様はご自分の宝をご自分のもとに集めにこられるとき、彼はその命を再び見いだすのである。」
「永遠への門口に立ち、恵み深い招待の声を聞きなさい。それはこの地上でキリストのために苦しむことを特権とし、名誉と思い、キリストと協力した人に与えられる恩恵の招待である。・・・そこではあがなわれた人たちは十字架にかけられた救い主に自分らを導いてくれた人と対面し、彼らは一つとなって人間が神様の生命と同じ生命を持つことができるために死なれた救い主を賛美する。戦いは終結し、すべての災いも争いも終わりを告げ、あがなわれた者が神様のみくらのまわりに立つ時、勝利の歌は全天にみちあふれ、『ほふられた子羊』 われらを神様にあがなってくださった『子羊こそは、・・・栄光とさんびとを受けるにふさわしい』と喜びの曲を歌うのである。」
「今教会は戦っている。いまわたしたちは暗黒の世界、ほとんど全部が偶像礼拝に身をささげている社会に当面している。しかし戦いが終わり勝利をかち得る日がきている。神様のみこころが天に行われるとおり、地にも行われなければならない。救われた諸国民は天の律法のほかには、どんな律法も知らない。すべての人は幸福な、1つに結ばれた家族となり、感謝と賛美の衣、すなわちキリストの義の衣をまとう。自然はすべてそのすばらしい美の中に神様を賛美し、礼拝するのである。」
「あがなわれた人々が自分たちのために重荷を負ってくれた人々に会って、あいさつをするとき、どんなにかすばらしい喜びがわくにちがいない。そして自分の楽しみのためでなく、祝福をほとんど持ち合わせない不幸な人々の祝福となるために生きてきた人々は、どんなにか心を満たされて感激することであろう。『彼らは返礼ができないから、あなたは幸いであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう』というみ約束に彼らは思い当たるであろう」
「救い主の来臨をあまりにも長く待っていると思うようなとき、すなわち、悩みに負け、骨折りに疲れ果てて、もうわれわれにゆだねられた仕事を終え、名誉ある免除を受けるために戦いから身を引くことに待ちきれないと思うならば、次のことを思い出そう―また、不平が出るごとにそれを思い出そう―神様は我々があらしや闘争に会い、クリスチャン品性を完成し、み父であられる神様と兄であられるキリストとよりよく知り合うように、また、主のために多くの魂をキリストに導く仕事をするように、そうして、『良い忠実な僕よ、よくやった。主人と一緒に喜んでくれ』という御言葉を喜びの心で聞くことができるように、われわれをこの地上に残しておられるのだという事を。」
他の人々は、飢えている者に食を与え裸な者に着物を着せた人々に感謝を表すであろう。
「信仰をもたずに失望していたとき、主はあなたをわたしに送ってくださり、希望と慰めの言葉を語ってくださった。あなたはわたしの肉体的必要を満たすための食事を持ってきてくださった。また、神様のみ言葉をわたしに開いて、霊的必要に目覚めさせてくださった。あなたはわたしを兄弟として扱い、わたしが悲しんでいる時に同情し、打撲傷を受けて傷ついたわたしの心を回復させてくださった。だからわたしを救ってくださろうと差しのべておられたキリストのみ手をわたしはつかむことができたのだ。わたしが無知であったときに、天国にはわたしを養ってくださるみ父がおられることを、あなたは辛抱強くわたしに教えてくださった。あなたは神様のみ言葉のとうといみ約束を読んでくださった。神様がわたしを救ってくださるのだという信仰を私に吹き込んでくださった。キリストが私のために払ってくださった犠牲のことを考えたとき、心は和らぎ、しずめられ、くだかれた。私は命のパンを求めて飢えるようになり、真理が私の魂になくてはならないものとなった。わたしは救われてここにいる。永遠に救われ、永遠に神様と共に住み、わたしのためにご自分のいのちを与えてくださったおかたを賛美するのである。」
「能力に応じて『それぞれ仕事』を割り当てられたお方は忠実な働きに無報酬ですますことは決してなさらない。忠義、忠実な行為にはことごとく神様の恩寵と賛成の特別なしるしを受ける栄誉が与えられる。すべての働き人に『種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう』というみ約束が与えられている。」
「報酬のことは全く神様におまかせして安んじていることを、主はわたしたちに望まれる。キリストが魂に宿られると、報酬のことは、第一の関心事ではなくなる。それがわたしたちの奉仕の動機ではない。」
「良い事をすることは病気に対する最もすぐれた療法である。みわざに携わる人々は神様をたずねるようにと招かれている。そして神様ご自身は、彼らにこたえると誓っておられるのである。彼らは良き物をもって満たされ、潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。」
「他の人々に注がれた光線はことごとくわれわれの心にも反射する。悲しむ者に語りかける親切で同情深い言葉、しいたげられた者の心を和らげる行為、同胞の必要とするものを補うための贈り物、神様のみ栄えのために与えられたり、なされた事はことごとく、与えた者に祝福となってもどってくる。このように働く人々は天の律法に従っているのであり、神様の承認を受けるのである。」
「わたしは、ひとりの男がある冬の日に、吹き寄せられた深い雪の中を旅をしていて、寒さに感覚を失いかけ、知らず知らずのうちに活力がほとんど奪われそうになったという話を読んだ。そして、彼は寒気に包まれてこごえ死にそうになり、もう生きるための戦いをあきらめようとしていたちょうどその時に、彼と同じように凍死しかかっている別の旅人のうめき声を聞いた。彼はその人を助けたいというけんそんな気持ちになった。彼は雪だるまになっているその気の毒な人のからだをさすり続け、かなりたって後その人を立たせた。彼は、その人が立つことができなかったので、自分ひとりでは行けないと思っていたその雪の中を、親切にその人をだきかかえていった。そして、彼は、仲間の旅人を安全な場所にまで運んだその瞬間に、隣人を救ったことで自分をも救ったのだという事実に気づいた。もう1人を救いたいといる彼の熱心な努力が、彼自身の血管の中で凍りかけていた血液を生気づけ、手の先まで健康的な暖かみを生み出した。」
この最後の証は実際に力をいただき、命を助けていただいた証です。
そして、いまもなお、人から人へ伝えられ・・・多くの人々に明るい光を与え続けています。
「永遠への門口に立ち、恵み深い招待の声を聞きなさい。それはこの地上でキリストのために苦しむことを特権とし、名誉と思い、キリストと協力した人に与えられる恩恵の招待である。・・・そこではあがなわれた人たちは十字架にかけられた救い主に自分らを導いてくれた人と対面し、彼らは一つとなって人間が神様の生命と同じ生命を持つことができるために死なれた救い主を賛美する。戦いは終結し、すべての災いも争いも終わりを告げ、あがなわれた者が神様のみくらのまわりに立つ時、勝利の歌は全天にみちあふれ、『ほふられた子羊』 われらを神様にあがなってくださった『子羊こそは、・・・栄光とさんびとを受けるにふさわしい』と喜びの曲を歌うのである。」
「今教会は戦っている。いまわたしたちは暗黒の世界、ほとんど全部が偶像礼拝に身をささげている社会に当面している。しかし戦いが終わり勝利をかち得る日がきている。神様のみこころが天に行われるとおり、地にも行われなければならない。救われた諸国民は天の律法のほかには、どんな律法も知らない。すべての人は幸福な、1つに結ばれた家族となり、感謝と賛美の衣、すなわちキリストの義の衣をまとう。自然はすべてそのすばらしい美の中に神様を賛美し、礼拝するのである。」
「あがなわれた人々が自分たちのために重荷を負ってくれた人々に会って、あいさつをするとき、どんなにかすばらしい喜びがわくにちがいない。そして自分の楽しみのためでなく、祝福をほとんど持ち合わせない不幸な人々の祝福となるために生きてきた人々は、どんなにか心を満たされて感激することであろう。『彼らは返礼ができないから、あなたは幸いであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう』というみ約束に彼らは思い当たるであろう」
「救い主の来臨をあまりにも長く待っていると思うようなとき、すなわち、悩みに負け、骨折りに疲れ果てて、もうわれわれにゆだねられた仕事を終え、名誉ある免除を受けるために戦いから身を引くことに待ちきれないと思うならば、次のことを思い出そう―また、不平が出るごとにそれを思い出そう―神様は我々があらしや闘争に会い、クリスチャン品性を完成し、み父であられる神様と兄であられるキリストとよりよく知り合うように、また、主のために多くの魂をキリストに導く仕事をするように、そうして、『良い忠実な僕よ、よくやった。主人と一緒に喜んでくれ』という御言葉を喜びの心で聞くことができるように、われわれをこの地上に残しておられるのだという事を。」
他の人々は、飢えている者に食を与え裸な者に着物を着せた人々に感謝を表すであろう。
「信仰をもたずに失望していたとき、主はあなたをわたしに送ってくださり、希望と慰めの言葉を語ってくださった。あなたはわたしの肉体的必要を満たすための食事を持ってきてくださった。また、神様のみ言葉をわたしに開いて、霊的必要に目覚めさせてくださった。あなたはわたしを兄弟として扱い、わたしが悲しんでいる時に同情し、打撲傷を受けて傷ついたわたしの心を回復させてくださった。だからわたしを救ってくださろうと差しのべておられたキリストのみ手をわたしはつかむことができたのだ。わたしが無知であったときに、天国にはわたしを養ってくださるみ父がおられることを、あなたは辛抱強くわたしに教えてくださった。あなたは神様のみ言葉のとうといみ約束を読んでくださった。神様がわたしを救ってくださるのだという信仰を私に吹き込んでくださった。キリストが私のために払ってくださった犠牲のことを考えたとき、心は和らぎ、しずめられ、くだかれた。私は命のパンを求めて飢えるようになり、真理が私の魂になくてはならないものとなった。わたしは救われてここにいる。永遠に救われ、永遠に神様と共に住み、わたしのためにご自分のいのちを与えてくださったおかたを賛美するのである。」
「能力に応じて『それぞれ仕事』を割り当てられたお方は忠実な働きに無報酬ですますことは決してなさらない。忠義、忠実な行為にはことごとく神様の恩寵と賛成の特別なしるしを受ける栄誉が与えられる。すべての働き人に『種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう』というみ約束が与えられている。」
「報酬のことは全く神様におまかせして安んじていることを、主はわたしたちに望まれる。キリストが魂に宿られると、報酬のことは、第一の関心事ではなくなる。それがわたしたちの奉仕の動機ではない。」
「良い事をすることは病気に対する最もすぐれた療法である。みわざに携わる人々は神様をたずねるようにと招かれている。そして神様ご自身は、彼らにこたえると誓っておられるのである。彼らは良き物をもって満たされ、潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。」
「他の人々に注がれた光線はことごとくわれわれの心にも反射する。悲しむ者に語りかける親切で同情深い言葉、しいたげられた者の心を和らげる行為、同胞の必要とするものを補うための贈り物、神様のみ栄えのために与えられたり、なされた事はことごとく、与えた者に祝福となってもどってくる。このように働く人々は天の律法に従っているのであり、神様の承認を受けるのである。」
「わたしは、ひとりの男がある冬の日に、吹き寄せられた深い雪の中を旅をしていて、寒さに感覚を失いかけ、知らず知らずのうちに活力がほとんど奪われそうになったという話を読んだ。そして、彼は寒気に包まれてこごえ死にそうになり、もう生きるための戦いをあきらめようとしていたちょうどその時に、彼と同じように凍死しかかっている別の旅人のうめき声を聞いた。彼はその人を助けたいというけんそんな気持ちになった。彼は雪だるまになっているその気の毒な人のからだをさすり続け、かなりたって後その人を立たせた。彼は、その人が立つことができなかったので、自分ひとりでは行けないと思っていたその雪の中を、親切にその人をだきかかえていった。そして、彼は、仲間の旅人を安全な場所にまで運んだその瞬間に、隣人を救ったことで自分をも救ったのだという事実に気づいた。もう1人を救いたいといる彼の熱心な努力が、彼自身の血管の中で凍りかけていた血液を生気づけ、手の先まで健康的な暖かみを生み出した。」
この最後の証は実際に力をいただき、命を助けていただいた証です。
そして、いまもなお、人から人へ伝えられ・・・多くの人々に明るい光を与え続けています。
2009年10月19日月曜日
「朝ごとに新しく・・・」
ある沖縄での集会に行ったときのことです。証が次々行われているとき、一人の長老さんがとってもつまらなそうにおっしゃいました。
「教会の歴史の中で、時々こういうことがおこるんだよね。まあ、やりなさいよ。」
冷めた、というか何というか・・・。これぞ、水掛け論? 狼少年症候群というか、「なあんだ、またか・・・」。この響きにはとっても悲しい、失望が現れています。
イエス様がエルサレムにロバの子に乗られていらしたとき、弟子たちの希望は最高潮に達します。しかし・・・、「メシヤは断たれるでしょう」とのダニエルさんの預言は成就してしまいます。
19世紀に起こった全世界的な再臨運動・・・。このときもクリスチャンは大失望を経験します。少し前は、ちょっと有名になった1999年7月のノストラダムスの大預言を、思いっきり聖書の預言とつなげて失望に陥った方々もいらしたとか。続く、2000年、クライシス・・・。 新聞には「キリスト教もこれで最後・・・」なんてことも見たような。
メッセンジャーが背信したりすると失望に落ちってしまう場合も・・・。もちろん、「メッセンジャーたちが背信しても、メッセージは神様のもの」なのですが。
期待しては崩れ、燃え上がっては崩れ、だんだん「なあんだ、またか・・・」。
ところが、
主のいつくしみは絶えることがなく、
そのあわれみは尽きることがない。
これは朝ごとに新しく、
あなたの真実は大きい。
賛美歌にも歌われていますが、これは本当のことです。
聖書の中で、ヒゼキヤ王様が癒された時、アハズの日時計が10度退くというしるしが与えられます。「10度???」。分度器で計って10度って、ひょっとしてこのくらい? 多分普通の生活をしている人なら、誰も何も感じられないくらいでしょう。
ところがこれが大事件、現在、話によると海底にはその時生じた巨大なひずんだ跡があるとか・・・。あるいは暦を計算していくとどうしてもこの10度を計算に入れないと合わないとか・・・。
驚くべきスピードで一定に回転しているこの巨大な地球が、止まって逆回転??? 遠心力は? 人は吹っ飛ばされないのか・・・。逆回転してまたすぐに順回転? ある人にはわずか10度、しかも・・・。
しかし、知っている人にはこれが驚くべきことであることがわかります。
証も同じ。ある人には「なあんだ、まぁ、やりなさいよ」。しかし、本人にとっては、それが罪に染まった、よるべない罪人に対する復活されたイエス様のいつくしみ、涙あふれる経験になります。
先ほどの長老さん、この集会のあと信仰に目覚め、自ら老後のたくわえをはたいて講演会を開き、伝道に走ります。そして、その結果多くの方々からの感謝の手紙を受け取られ、証されていらっしゃいました。
小さな証・・・。今まで見えなかったイエス様のいつくしみが、目の前に一杯あることに気付くようになります。
今朝も恵み新たに、
み恵みもて支えたもう
神の真実とうとし
それは小さな証ですが、イエス様のとっても大きな贈り物です。
「信仰によって我々が主の力をつかむとき、主はほとんど希望のない、失望するように見えるものをすばらしいものに変えてくださる。」
「穏やかさをつちかい、真実であられる創造者に自分のたましいをゆだねなさい。神様はご自分の責任としてゆだねられたものを守られるであろう。神様は祭壇を涙と不平でおおうことを喜ばれない。たとえまだ他の魂が改心しているのをみなくとも、すでに改心したもののために神様を十分賛美できるのである。しかし、すべてのことを自分の考えに合わせようとするのではなく、ただ前進しさえすれば良い働きが進められるのである。神様の平和があなたの心を支配し、感謝がみなぎるように。主に働きたもう余地を与え、主の道を妨げてはならない。我々さえその気になれは、主は働くことがおできになるし、働いてくださるのである。」
「わたしたちは、キリストに従う者として、互いのクリスチャン生活の助けとなり、励ましとなる言葉を語るようにしなければならない。わたしたちは、受けた恵みについてこれまでよりももっと多く語らなければならない。」
「真実で忠実な人々のたゆまぬ活動に依存するところが大きい。この理由からサタンは、服従を通して達成される神様の御目的を妨げようとあらゆる努力をする。彼はある人々に自分達を高尚できよい使命を見失わせ、この世の楽しみで満足させようとする。彼は安楽な生活をするよう、あるいは、より大きい世的な利益のために、彼らが善に対する力となるかもしれない場所から移るように彼らを導く。その他の人々に対してサタンは、反対や迫害のために義務を離れさせ失望に追いやる。しかし、これらのことはみな天から最も優しく、あわれみ深く見守られている。魂の敵が声を沈黙させることに成功した神様の子ら一人ひとりに、「あなたはここで何をしているのか」という質問がなされている。私は全世界に出て行って福音を宣べ伝え、神様の日のために一つの民を備えさせるようにあなたに任命した。なぜあなたはここにいるのか。誰があなたを遣わしたのか。」
魂の敵が声を沈黙させることに成功した神様の子ら・・・。
「あなたはここで何をしているのか」
自分は、真実で忠実な人々とはほど遠い・・・のに。
何故か・・・涙がこぼれ出るのです。
「教会の歴史の中で、時々こういうことがおこるんだよね。まあ、やりなさいよ。」
冷めた、というか何というか・・・。これぞ、水掛け論? 狼少年症候群というか、「なあんだ、またか・・・」。この響きにはとっても悲しい、失望が現れています。
イエス様がエルサレムにロバの子に乗られていらしたとき、弟子たちの希望は最高潮に達します。しかし・・・、「メシヤは断たれるでしょう」とのダニエルさんの預言は成就してしまいます。
19世紀に起こった全世界的な再臨運動・・・。このときもクリスチャンは大失望を経験します。少し前は、ちょっと有名になった1999年7月のノストラダムスの大預言を、思いっきり聖書の預言とつなげて失望に陥った方々もいらしたとか。続く、2000年、クライシス・・・。 新聞には「キリスト教もこれで最後・・・」なんてことも見たような。
メッセンジャーが背信したりすると失望に落ちってしまう場合も・・・。もちろん、「メッセンジャーたちが背信しても、メッセージは神様のもの」なのですが。
期待しては崩れ、燃え上がっては崩れ、だんだん「なあんだ、またか・・・」。
ところが、
主のいつくしみは絶えることがなく、
そのあわれみは尽きることがない。
これは朝ごとに新しく、
あなたの真実は大きい。
賛美歌にも歌われていますが、これは本当のことです。
聖書の中で、ヒゼキヤ王様が癒された時、アハズの日時計が10度退くというしるしが与えられます。「10度???」。分度器で計って10度って、ひょっとしてこのくらい? 多分普通の生活をしている人なら、誰も何も感じられないくらいでしょう。
ところがこれが大事件、現在、話によると海底にはその時生じた巨大なひずんだ跡があるとか・・・。あるいは暦を計算していくとどうしてもこの10度を計算に入れないと合わないとか・・・。
驚くべきスピードで一定に回転しているこの巨大な地球が、止まって逆回転??? 遠心力は? 人は吹っ飛ばされないのか・・・。逆回転してまたすぐに順回転? ある人にはわずか10度、しかも・・・。
しかし、知っている人にはこれが驚くべきことであることがわかります。
証も同じ。ある人には「なあんだ、まぁ、やりなさいよ」。しかし、本人にとっては、それが罪に染まった、よるべない罪人に対する復活されたイエス様のいつくしみ、涙あふれる経験になります。
先ほどの長老さん、この集会のあと信仰に目覚め、自ら老後のたくわえをはたいて講演会を開き、伝道に走ります。そして、その結果多くの方々からの感謝の手紙を受け取られ、証されていらっしゃいました。
小さな証・・・。今まで見えなかったイエス様のいつくしみが、目の前に一杯あることに気付くようになります。
今朝も恵み新たに、
み恵みもて支えたもう
神の真実とうとし
それは小さな証ですが、イエス様のとっても大きな贈り物です。
「信仰によって我々が主の力をつかむとき、主はほとんど希望のない、失望するように見えるものをすばらしいものに変えてくださる。」
「穏やかさをつちかい、真実であられる創造者に自分のたましいをゆだねなさい。神様はご自分の責任としてゆだねられたものを守られるであろう。神様は祭壇を涙と不平でおおうことを喜ばれない。たとえまだ他の魂が改心しているのをみなくとも、すでに改心したもののために神様を十分賛美できるのである。しかし、すべてのことを自分の考えに合わせようとするのではなく、ただ前進しさえすれば良い働きが進められるのである。神様の平和があなたの心を支配し、感謝がみなぎるように。主に働きたもう余地を与え、主の道を妨げてはならない。我々さえその気になれは、主は働くことがおできになるし、働いてくださるのである。」
「わたしたちは、キリストに従う者として、互いのクリスチャン生活の助けとなり、励ましとなる言葉を語るようにしなければならない。わたしたちは、受けた恵みについてこれまでよりももっと多く語らなければならない。」
「真実で忠実な人々のたゆまぬ活動に依存するところが大きい。この理由からサタンは、服従を通して達成される神様の御目的を妨げようとあらゆる努力をする。彼はある人々に自分達を高尚できよい使命を見失わせ、この世の楽しみで満足させようとする。彼は安楽な生活をするよう、あるいは、より大きい世的な利益のために、彼らが善に対する力となるかもしれない場所から移るように彼らを導く。その他の人々に対してサタンは、反対や迫害のために義務を離れさせ失望に追いやる。しかし、これらのことはみな天から最も優しく、あわれみ深く見守られている。魂の敵が声を沈黙させることに成功した神様の子ら一人ひとりに、「あなたはここで何をしているのか」という質問がなされている。私は全世界に出て行って福音を宣べ伝え、神様の日のために一つの民を備えさせるようにあなたに任命した。なぜあなたはここにいるのか。誰があなたを遣わしたのか。」
魂の敵が声を沈黙させることに成功した神様の子ら・・・。
「あなたはここで何をしているのか」
自分は、真実で忠実な人々とはほど遠い・・・のに。
何故か・・・涙がこぼれ出るのです。
2009年10月4日日曜日
聖別されたもの
「義認というのは義と宣言される事で、信仰によって義とせられるというのは神様の御言葉によって義とせられることです。神様の言葉が発せられると、何でも言われた通りになってしまいます。・・・イエス・キリストによって語られる神様の御言葉は、それが語られる以前には世に存在しなかった物を存在させてしまうのです。人間の内には義なるものはありません。・・・しかし神様は人間の上に義を宣言させる為にキリストをお立てになりました。キリストが言葉を語られたので、それを受け入れる者にはただそれだけで、何もなかった彼の内に義が現れるのです。・・・信仰によって受け入れられた神様の言葉は以前は何もなかった人間の内に、その生活において義を造り出します。」
「神様は信じる者の上に義を宣言されます。宣言するというのは言葉を出すことです。そして『あなたは義人だ』と言われた瞬間、それを信じる罪人は罪人でなくなり、神様の義となるのです。義を宣言する神様の御言葉自体が義であり、罪人が信仰によってその御言葉を自分の心に受け入れるや否や、その瞬間から彼は心の中に神様の義を持ち、心の状態は生活に現れますから、新しい神様の律法に従う人生が始まるのです。」
コップの水、いくら「これはブドウジュースだ」と何万回話しても、当然、水は水・・・。当たり前です。ところがイエス様がお語りになられると、話はまったく違います。あるキリスト教の中学校のチャペルで聖餐式がありました。聖餐式のための聖別して余ったブドウ汁は、人の踏まない地に注ぐのが規則・・・。ところがある時、当番の方が、それをすっかり忘れて棚に置いたままにしてしまいました。2~3週間?経って、「あっ!」と思い出します。急いで行って見てみると、棚に2つのブドウ汁があります。一つは、聖別したブドウ汁、もう一つは聖別していないブドウ汁でした。その方が見てみると・・・聖別したブドウ汁はそのまま新鮮。しかし、聖別していないブドウ汁は腐っていたそうです。
そしてこの不思議な出来事はここで終わりませんでした。この当番の方・・・この方は「聖餐式」を重要なものだとは思っていませんでした。この出来事から、聖餐式をとっても神聖な式として大切にされたそうです。
さて、聖餐式の前に「洗足式」という式があります。イエス様が弟子たちの足をお洗いになられた、との話から始まった式です。ある洗足式・・・。僕の相手をしてくださった方がいらっしゃいました。事もあろうに、その方は、超恥ずかしいですが、僕が見下していた方・・・。その方が、まず僕の足を洗ってくださいます。そして僕も足を洗います。すると、体から重いものがすっかりとれて軽くなり、心も体も和らげられ、式が終わって、その方と心から握手をし、すっかり仲良くなりました。何とも隠れたいような証ですが・・・はっきり言いましてこれは奇跡です。他にもたくさんありますが、以前には存在しなかったものを存在させてしまう、というメッセージは本当です。
そして次の聖餐式、12人全員が裏切っていく弟子たちを前に、パンを取り、感謝してこれを裂かれるイエス様・・・。その「感謝して」裂かれるお姿を思い、涙がとめどなく流れました。水がぶどう汁に変わるのは大変な奇跡・・・。しかし、一晩中、祈っても、断食しても、難行苦行しても?心が変わらなかったことを痛いほど知っています・・・。
かちかちの、かたくなな心が和らげられ、憎しみが友情に変わるのも・・・大変な奇跡であることを。
「神様は信じる者の上に義を宣言されます。宣言するというのは言葉を出すことです。そして『あなたは義人だ』と言われた瞬間、それを信じる罪人は罪人でなくなり、神様の義となるのです。義を宣言する神様の御言葉自体が義であり、罪人が信仰によってその御言葉を自分の心に受け入れるや否や、その瞬間から彼は心の中に神様の義を持ち、心の状態は生活に現れますから、新しい神様の律法に従う人生が始まるのです。」
コップの水、いくら「これはブドウジュースだ」と何万回話しても、当然、水は水・・・。当たり前です。ところがイエス様がお語りになられると、話はまったく違います。あるキリスト教の中学校のチャペルで聖餐式がありました。聖餐式のための聖別して余ったブドウ汁は、人の踏まない地に注ぐのが規則・・・。ところがある時、当番の方が、それをすっかり忘れて棚に置いたままにしてしまいました。2~3週間?経って、「あっ!」と思い出します。急いで行って見てみると、棚に2つのブドウ汁があります。一つは、聖別したブドウ汁、もう一つは聖別していないブドウ汁でした。その方が見てみると・・・聖別したブドウ汁はそのまま新鮮。しかし、聖別していないブドウ汁は腐っていたそうです。
そしてこの不思議な出来事はここで終わりませんでした。この当番の方・・・この方は「聖餐式」を重要なものだとは思っていませんでした。この出来事から、聖餐式をとっても神聖な式として大切にされたそうです。
さて、聖餐式の前に「洗足式」という式があります。イエス様が弟子たちの足をお洗いになられた、との話から始まった式です。ある洗足式・・・。僕の相手をしてくださった方がいらっしゃいました。事もあろうに、その方は、超恥ずかしいですが、僕が見下していた方・・・。その方が、まず僕の足を洗ってくださいます。そして僕も足を洗います。すると、体から重いものがすっかりとれて軽くなり、心も体も和らげられ、式が終わって、その方と心から握手をし、すっかり仲良くなりました。何とも隠れたいような証ですが・・・はっきり言いましてこれは奇跡です。他にもたくさんありますが、以前には存在しなかったものを存在させてしまう、というメッセージは本当です。
そして次の聖餐式、12人全員が裏切っていく弟子たちを前に、パンを取り、感謝してこれを裂かれるイエス様・・・。その「感謝して」裂かれるお姿を思い、涙がとめどなく流れました。水がぶどう汁に変わるのは大変な奇跡・・・。しかし、一晩中、祈っても、断食しても、難行苦行しても?心が変わらなかったことを痛いほど知っています・・・。
かちかちの、かたくなな心が和らげられ、憎しみが友情に変わるのも・・・大変な奇跡であることを。
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