僕の記憶が正しければですが、アメリカで奴隷解放をした、リンカーン大統領の側近に陸軍の司令官がいたそうです。その陸軍司令官はリンカーンの悪口ばかりいったそうです。たしか、大統領を「猿」とまで呼んでいたそうです。
そんな彼を、リンカーンはいつも自分のそばにおいていたそうです。
そしてあの日、リンカーンが暗殺されます。その時、撃たれた大統領にすぐに駆け寄ったのは、この司令官でした。リンカーンの悪口ばかり言ってきた彼は、大統領のそばに立ち、言ったそうです。
「ここに偉大な大統領が横たわっている」
ある教会で2人の青年牧師たちが、「信仰による義」を説いて、一大リバイバルを起こした時がありました。その時、大反対をしたのが、教会の長年のベテランの方々でした。
「協力していたら、今頃みんなで、天国に入っていた」と言われたぐらいの素晴らしいリバイバルでした。しかし、協力すべき人々の多くが大反対をしたのです。
ある敬虔なクリスチャンの方が、「信仰による義」を受け入れるように何度も何度も嘆願しましたが、ベテランの方々は聞きいれませんでした。返ってそのクリスチャンの方もまた、遠い外国に、飛ばされてしまいます。
結局、リバイバルは未完成のままで終わってしまいました。
何年か過ぎてベテランの長老さんたちが、「わたしたちは間違っていた」と悔い改めます。
この記録を読んだ時、「えー、今頃!もう遅いよ、悪魔に用いられただけじゃない」なんて僕は思っていました。
ところが、先ほどの外国に飛ばされたクリスチャンの方は、「彼らを優遇しよう」「もう以前の彼ではない」と文章を書かれます。その中で最も反対した1人の方が、教会から離れて、そして再び教会に戻り、教会の機関紙の編集長の筆頭に名前があがった時・・・「涙を流して喜ばれた」と記録されています。
先ほどの敬虔なクリスチャンの方にさえ、大反対してまわりに悪口ばかり言っていた方がいました。
長年の主の御奉仕を終えられ、このクリスチャンの方が亡くなられたとき、彼女を批判し、悪口ばかり言っていたこの方が、泣き叫んだと記録されています。
「ああ、1人の敬虔なクリスチャンの方が亡くなられた」と。
僕もまた・・・キリスト教に反対してきた1人なのです。
イエス様・・・マルティンルターさんや、ジョンウェスレーさん、ヨハンフスさん、コルベ神父、ジョン・バニアンさん、ウィクリフ、フローレンスナイチンゲール、トマスモア、聖フランチェスコそのほか数え切れないクリスチャンの方々が喜んでその人生を、また命をささげられた御方、
イギリスの国王はイエス様を褒め称える「ハレルヤコーラス」を聞いた時、立ち上がって王の王に敬意を表したとか・・・
そして、今もなお、この曲が流れる時、大勢の人が立ち上がって王の王を褒め称えます。
シュヴァイツァー博士はこの御方のため、アフリカに行かれ、マザーテレサもまた、この御方を愛するがゆえにインドにいかれました。歴代のアメリカの大統領はナザレのイエス様の御名によって手を上げて宣誓され、ジョン・ニュートン他、世界の科学を導いてこられた多くの科学者たちがこの御方に学んできました。
~アダムは言うであろう。「それは蛇の頭を砕く女のすえ」であると。
アブラハムに問うならば、彼はあなたに答えるであろう。それは「サレムの王メルキゼデク」、「平和の王」であると。
ヤコブはあなたに言うであろう、彼は「ユダ族のシロ」であると。
イザヤはあなたに言うであろう。「インマヌエル」、「霊妙なる議士」、「大能の神」、「とこしえの父」、「平和の君」であると。
エレミヤはあなたに言うであろう。「ダビデの若枝」、「主はわれわれの正義」
ダビデはあなたに言うであろう。「彼はメシヤである」と。
ホセアはあなたに言うであろう。彼は「万軍の主、その名は主である」と。(ホセア書12-5)
バプテスマのヨハネはあなたに言うであろう。「世の罪を取り除く神の子羊」であると。
偉大なエホバの神様は御座より宣言された。「これは、わたしの愛する子」であると。
わたしたち、弟子は宣言する。「これはイエス様、メシヤ、命の君、世のあがない主である。」と。
そして、暗黒の力の君でさえ、彼を認めて、言うのである。「あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」 マルコ1-24
年老いたおじいちゃんも、おばあちゃんもこの御方を賛美し、子供達もこのお方を褒め称えます。
病床でも、またお亡くなりになる前でさえも賛美の声が聞こえます。
僕でさえも・・・宇宙で一番・・・人間の思いをはるかに超えた大きな愛に溢れた主イエス様を褒め称えるのです。
小さな証 SELECTION
2026年3月16日月曜日
人生の意味
久しぶりにちょっとだけ、長い証にします
「人間は人生の真の目的をほとんど理解していない。きらびやかな外観に魅惑されている。世俗的に卓越することを熱心に求め、そのために人生の真の目的が犠牲にされる。人生における最善のもの、すなわち、単純、正直、真実、純潔、高潔等は金銭で売買できないものである。それは学者にも無知な者にも、また地位の高い政治家にも貧しい労働者にも自由に与えられる。神様は富める者も貧しい者も一緒に楽しむことができる喜び、純潔な思い、無我の行動をするときに起こる喜び、また同情ある言葉を語り、親切な行いをすることによって生ずる喜びをすべての人のために備えておられるからである。こうした奉仕をする人からはキリストの光が輝きいで、多くの影で暗くなった人生を明るくする。」
キリスト教でとってもありがたいことの1つは、資格がいらないこと・・・
牧師の免許も、伝道師の免許もいらないです。ましてやお金をいっぱいもっていたり、医療の特別な資格も必要ではありません。むしろ、無邪気な子供の方がはるかに優秀な伝道者?あるキリスト教の病院では、教会に導かれた人を調査すると、導いた人はお掃除をされていらっしゃる方々が一番だったそうです。「医者はほとんどいません」と報告されていました。クリスチャン医師の方、ごめんなさい。すべての病院ではないと思います?
健康であっても、病気であっても、貧しくても、働き場所はあるようです。
ところが、やっぱり(^^;)・・・資格はあるようです。
「神様は真理を進めるために一般に奇跡を働かれるのではない。もし農夫が土を耕すことを怠れば、神様はその当然の結果に反するような奇跡は行われない。神様はわれわれの知っている大原則に従って働かれる。ゆえに、賢明な計画が熟して、その手段が実行され、それによって神様が確実な結果を与えてくださるようにすることがわれわれのなすべき分である。賢明な努力をせずに、聖霊に行動をしいられるまで、ただ待っているような人々は、暗黒のうちに滅びるのである。あなたはじっとすわって、神様の働きを何もせずにいてはならない。」
「使命は、たいくつな、気のぬけたようなことばで伝えられるのではなく、はっきりと、確実に感動させられるような言葉で伝えられなければならない」
「マルタのような人たちが熱心に宗教活動をする広い分野がある。しかし彼らをまずマリヤといっしょに、イエス様の足下にすわらせなさい。勤勉と敏速と精力をキリストの恵みにおってきよめなさい。そのとき、そのような生活は、征服されることのない善の力となるのである」
「宗教的な働きの単調さを破る必要がある。われわれはこの世で1つの仕事をしているのであるが、十分な活気と熱意を示していない。もしわれわれがもっと熱心であれば、人々はわれわれのメッセージの真理を認めるはすである。神様への奉仕に気力がなく、単調なために、深く、熱心な、きよめられた熱意を見せなければならない高い階級の人々の多くに不快を感じさせるのである。」
「正直であるがせっかちで衝動的な人々は、痛切な説教が与えられると、われわれと共にいない人々のぶっきらぼうに話しかけて、われわれがそういう人々に受け入れてもらいたいと望んでいる真理をその人々にとっていとわしいものにさせてしまう。「この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりもりこうである」事業家や政治家は礼儀を学ぶ。自分たちをできるだけ魅力的にするのが彼らの政策である。彼らは自分たちの周囲にいる人々の心に最も大きな影響を与えるような話し方や態度をとるように研究する。彼らはこの目的を達成するために自分たちの知識と才能をできるだけじょうずに用いる」
「ときどき、よく準備され、研究されたことばが少しも感化を与えないことがある。しかし自然の単純さで語られた神様のむすこ、娘の、真実で正直な話は、キリストとその愛に対して長く閉じられてきた心の扉を開く力をもつのである。」
「異常な環境のものに霊的歓喜を示すからといって、それがクリスチャンであることの結論とはならない。きよいといることは歓喜ではない。それは神様のみこころに完全に服従することである。それは神様のみ口から出る一つ一つのことばによって生きることである。それは天父のみこころを行うことである。光の中にある時ばかりでなく、試みや、暗やみの中にあるときにも神様に信頼することである。それは見えるものによらないで、信仰によって歩くことである。それは疑いのない確信をもって神様にたよることであり、神様の愛の中に身を落ち着けることである。」
「ネヘミヤは神様の助けを懇望する一方、エルサレムを回復するという目的を遂げることに、彼にはこれ以上心配も責任もないと感じて、ただ手をつかねているようなことはしなかった。実に立派な慎重さと用心深さで、その企ての絶対的な成功を得るために必要なあらゆる準備をととのえることにとりかかった。あらゆる行動には非常な用心深さが目立っていた」
「奉仕のために男女を選ぶにあたって、神様は、学問があるとか、雄弁であるとか、世的な富があるとかをお尋ねになるのではない。神様は「わたしが彼らにわたしの道を教えることができるような謙遜さで歩くだろうか。わたしは言葉を彼らのくちびるにおくことができるだろうか、彼らはわたしを代表するだろうか」とおたずねになる。」
資格や免許は大はやり、一人で10個以上も持っている方もいらっしゃいます・・・
イエス様から賜う資格も・・・持っている人は、ひとりでいっぱい持っているようです。
「人間は人生の真の目的をほとんど理解していない。きらびやかな外観に魅惑されている。世俗的に卓越することを熱心に求め、そのために人生の真の目的が犠牲にされる。人生における最善のもの、すなわち、単純、正直、真実、純潔、高潔等は金銭で売買できないものである。それは学者にも無知な者にも、また地位の高い政治家にも貧しい労働者にも自由に与えられる。神様は富める者も貧しい者も一緒に楽しむことができる喜び、純潔な思い、無我の行動をするときに起こる喜び、また同情ある言葉を語り、親切な行いをすることによって生ずる喜びをすべての人のために備えておられるからである。こうした奉仕をする人からはキリストの光が輝きいで、多くの影で暗くなった人生を明るくする。」
キリスト教でとってもありがたいことの1つは、資格がいらないこと・・・
牧師の免許も、伝道師の免許もいらないです。ましてやお金をいっぱいもっていたり、医療の特別な資格も必要ではありません。むしろ、無邪気な子供の方がはるかに優秀な伝道者?あるキリスト教の病院では、教会に導かれた人を調査すると、導いた人はお掃除をされていらっしゃる方々が一番だったそうです。「医者はほとんどいません」と報告されていました。クリスチャン医師の方、ごめんなさい。すべての病院ではないと思います?
健康であっても、病気であっても、貧しくても、働き場所はあるようです。
ところが、やっぱり(^^;)・・・資格はあるようです。
「神様は真理を進めるために一般に奇跡を働かれるのではない。もし農夫が土を耕すことを怠れば、神様はその当然の結果に反するような奇跡は行われない。神様はわれわれの知っている大原則に従って働かれる。ゆえに、賢明な計画が熟して、その手段が実行され、それによって神様が確実な結果を与えてくださるようにすることがわれわれのなすべき分である。賢明な努力をせずに、聖霊に行動をしいられるまで、ただ待っているような人々は、暗黒のうちに滅びるのである。あなたはじっとすわって、神様の働きを何もせずにいてはならない。」
「使命は、たいくつな、気のぬけたようなことばで伝えられるのではなく、はっきりと、確実に感動させられるような言葉で伝えられなければならない」
「マルタのような人たちが熱心に宗教活動をする広い分野がある。しかし彼らをまずマリヤといっしょに、イエス様の足下にすわらせなさい。勤勉と敏速と精力をキリストの恵みにおってきよめなさい。そのとき、そのような生活は、征服されることのない善の力となるのである」
「宗教的な働きの単調さを破る必要がある。われわれはこの世で1つの仕事をしているのであるが、十分な活気と熱意を示していない。もしわれわれがもっと熱心であれば、人々はわれわれのメッセージの真理を認めるはすである。神様への奉仕に気力がなく、単調なために、深く、熱心な、きよめられた熱意を見せなければならない高い階級の人々の多くに不快を感じさせるのである。」
「正直であるがせっかちで衝動的な人々は、痛切な説教が与えられると、われわれと共にいない人々のぶっきらぼうに話しかけて、われわれがそういう人々に受け入れてもらいたいと望んでいる真理をその人々にとっていとわしいものにさせてしまう。「この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりもりこうである」事業家や政治家は礼儀を学ぶ。自分たちをできるだけ魅力的にするのが彼らの政策である。彼らは自分たちの周囲にいる人々の心に最も大きな影響を与えるような話し方や態度をとるように研究する。彼らはこの目的を達成するために自分たちの知識と才能をできるだけじょうずに用いる」
「ときどき、よく準備され、研究されたことばが少しも感化を与えないことがある。しかし自然の単純さで語られた神様のむすこ、娘の、真実で正直な話は、キリストとその愛に対して長く閉じられてきた心の扉を開く力をもつのである。」
「異常な環境のものに霊的歓喜を示すからといって、それがクリスチャンであることの結論とはならない。きよいといることは歓喜ではない。それは神様のみこころに完全に服従することである。それは神様のみ口から出る一つ一つのことばによって生きることである。それは天父のみこころを行うことである。光の中にある時ばかりでなく、試みや、暗やみの中にあるときにも神様に信頼することである。それは見えるものによらないで、信仰によって歩くことである。それは疑いのない確信をもって神様にたよることであり、神様の愛の中に身を落ち着けることである。」
「ネヘミヤは神様の助けを懇望する一方、エルサレムを回復するという目的を遂げることに、彼にはこれ以上心配も責任もないと感じて、ただ手をつかねているようなことはしなかった。実に立派な慎重さと用心深さで、その企ての絶対的な成功を得るために必要なあらゆる準備をととのえることにとりかかった。あらゆる行動には非常な用心深さが目立っていた」
「奉仕のために男女を選ぶにあたって、神様は、学問があるとか、雄弁であるとか、世的な富があるとかをお尋ねになるのではない。神様は「わたしが彼らにわたしの道を教えることができるような謙遜さで歩くだろうか。わたしは言葉を彼らのくちびるにおくことができるだろうか、彼らはわたしを代表するだろうか」とおたずねになる。」
資格や免許は大はやり、一人で10個以上も持っている方もいらっしゃいます・・・
イエス様から賜う資格も・・・持っている人は、ひとりでいっぱい持っているようです。
2017年8月4日金曜日
清潔
ある若者が、教会に泣きながら入ってきました。席に着くと、信仰の先輩の方に涙ながらに語ります。「僕の押入れが汚いんです」・・・。
信仰の先輩の方が、すぐにおっしゃいます。「それでは、押入れをきれいにしなさい。」
「・・・?????」
その若者は、はっと気付き、笑顔になりました。「何を馬鹿なことを言っていたんだろう。泣きながら、汚いんです~なんて。」
「とにかく、やること、はじめること、はじめたらやめないこと。」
「何かせよ、今すぐせよ、全力を尽くしてせよ。」
「そうすれば、後から気付くから、今まで何もやってこなかったんだ・・・と。」
清潔、一つとっても「知っていること」と「身につく」こととは、雲泥どころか全く別世界です。まして、「汚くてもゴミじゃ死なない」と思っていた人間が、「清潔が好きになる」ことは驚くべき奇跡だと思います。本来家庭でしつけられ、学んでくるものですが、そのような環境にいない場合、「大人になって大恥をかきます」。そして、場合によっては「馬鹿にされて」、悔し涙と共に必死で身につけていく場合もあるでしょう。「しつけ」はとっても大切ですね。人間は教えられないと、何も身についてないのです。
家がゴミだらけ・・・と家では「、清潔」なんて身につくのは至難の業??でしょうか。なにせ、思っている「清潔」のグレードが全然違います。教会員のお住まいに行けば一目瞭然、少し生活を共にしてみれば、「いかにしつけがなっていなかったかが」よくわかります。
「毎日、掃除しても、ほこりってすぐたまるんだ」なんて当然の事に「びっくりして」感動するような始末です。ですから、教会がいつも「ほこり一つない」ということはすごいことです。
「歯磨き」といえば、夜寝る前1回・・・が当たり前だと思っていました。ところがある時、結構多くの人が、食後3回磨いていることを大発見?します。人によっては、朝起きてからを含め1日4回・・・。ところが慣れてしまえばなんてことありません。
洗濯の仕方、干し方、アイロンのかけ方、服の畳み方、すべて違います。こうやって、「無人島から出てきたかのような自分の姿」に気がつくようになります。
しかし、はっきりいって身についてしまえば一生の宝・・・。だんだんやっていくことが好きになってきます。すべて徳と言われるものに心を留めるように導いてくださいます。そして、「生きる力をいただく」ことになります。
自分が、簡単に何でも身についたんだ・・・と思われたら大誤解。すべて先輩のクリスチャンの祈りと、忍耐と許し、ご指導、また、周りの兄弟、姉妹の忍耐とご配慮のおかげで、デンデン虫より?遅い歩みをしているに過ぎません。
「あ~あ、身につかないなあ」なんて思っていると、「1000回でも2000回でもやるのよ」との優しい、しつけのなった信仰の先輩の声が耳に浮かびます。すべては「できない」のではなく、「やらない」のが原因です。「やり始める」と「今までやってこなかった」と気付くのです。
こういう証はかなり好きです。教会で罪の習慣の証をしていると、その場にいる若い学生達もポーカーフェイスをしていますが、内心「やばい!」と思い、家に帰って、生活が改められるそうです。みんなが良くなり、幸せになっていくことは本当に良いことです。
こんな事書いていて「メソジスト」、几帳面屋と言われたら、かなりの栄誉・・・。この名は全世界で誉ある名称になっています。「行いによる義」と言われたら? シャツ出しっぱなしで「信仰による義とは!」と説教していたら・・・かなり格好悪いです。信仰以前の問題ですね。
「あなたは、今まで何度となく失敗したかもしれない。しかし、今度は成功しないという保証はない。」「イエス様はまた魂の敵と激しい戦いをたたかっている者にも出会われた。これらの人々をイエス様は耐え忍ぶように励まし、神様の天使たちが彼らの側についていて勝利を与えてくれるから、勝てるのだと保証された。」
自分が罪と闘っていたとき、ひとりのクリスチャンの方が涙を流されながら、おっしゃられた言葉が忘れられません。「あなたを見ていると、痛々しい。みんなもっと真剣に信仰をなさい。」「若い人がこんなに苦しんでいる・・・。大人が模範になっていないからよ」と。
そして、改められた時・・・「なんだ、そんなことか」とはおっしゃいません。涙を流して・・・、喜んでくださる方々・・・。それがクリスチャンでした。
信仰の先輩の方が、すぐにおっしゃいます。「それでは、押入れをきれいにしなさい。」
「・・・?????」
その若者は、はっと気付き、笑顔になりました。「何を馬鹿なことを言っていたんだろう。泣きながら、汚いんです~なんて。」
「とにかく、やること、はじめること、はじめたらやめないこと。」
「何かせよ、今すぐせよ、全力を尽くしてせよ。」
「そうすれば、後から気付くから、今まで何もやってこなかったんだ・・・と。」
清潔、一つとっても「知っていること」と「身につく」こととは、雲泥どころか全く別世界です。まして、「汚くてもゴミじゃ死なない」と思っていた人間が、「清潔が好きになる」ことは驚くべき奇跡だと思います。本来家庭でしつけられ、学んでくるものですが、そのような環境にいない場合、「大人になって大恥をかきます」。そして、場合によっては「馬鹿にされて」、悔し涙と共に必死で身につけていく場合もあるでしょう。「しつけ」はとっても大切ですね。人間は教えられないと、何も身についてないのです。
家がゴミだらけ・・・と家では「、清潔」なんて身につくのは至難の業??でしょうか。なにせ、思っている「清潔」のグレードが全然違います。教会員のお住まいに行けば一目瞭然、少し生活を共にしてみれば、「いかにしつけがなっていなかったかが」よくわかります。
「毎日、掃除しても、ほこりってすぐたまるんだ」なんて当然の事に「びっくりして」感動するような始末です。ですから、教会がいつも「ほこり一つない」ということはすごいことです。
「歯磨き」といえば、夜寝る前1回・・・が当たり前だと思っていました。ところがある時、結構多くの人が、食後3回磨いていることを大発見?します。人によっては、朝起きてからを含め1日4回・・・。ところが慣れてしまえばなんてことありません。
洗濯の仕方、干し方、アイロンのかけ方、服の畳み方、すべて違います。こうやって、「無人島から出てきたかのような自分の姿」に気がつくようになります。
しかし、はっきりいって身についてしまえば一生の宝・・・。だんだんやっていくことが好きになってきます。すべて徳と言われるものに心を留めるように導いてくださいます。そして、「生きる力をいただく」ことになります。
自分が、簡単に何でも身についたんだ・・・と思われたら大誤解。すべて先輩のクリスチャンの祈りと、忍耐と許し、ご指導、また、周りの兄弟、姉妹の忍耐とご配慮のおかげで、デンデン虫より?遅い歩みをしているに過ぎません。
「あ~あ、身につかないなあ」なんて思っていると、「1000回でも2000回でもやるのよ」との優しい、しつけのなった信仰の先輩の声が耳に浮かびます。すべては「できない」のではなく、「やらない」のが原因です。「やり始める」と「今までやってこなかった」と気付くのです。
こういう証はかなり好きです。教会で罪の習慣の証をしていると、その場にいる若い学生達もポーカーフェイスをしていますが、内心「やばい!」と思い、家に帰って、生活が改められるそうです。みんなが良くなり、幸せになっていくことは本当に良いことです。
こんな事書いていて「メソジスト」、几帳面屋と言われたら、かなりの栄誉・・・。この名は全世界で誉ある名称になっています。「行いによる義」と言われたら? シャツ出しっぱなしで「信仰による義とは!」と説教していたら・・・かなり格好悪いです。信仰以前の問題ですね。
「あなたは、今まで何度となく失敗したかもしれない。しかし、今度は成功しないという保証はない。」「イエス様はまた魂の敵と激しい戦いをたたかっている者にも出会われた。これらの人々をイエス様は耐え忍ぶように励まし、神様の天使たちが彼らの側についていて勝利を与えてくれるから、勝てるのだと保証された。」
自分が罪と闘っていたとき、ひとりのクリスチャンの方が涙を流されながら、おっしゃられた言葉が忘れられません。「あなたを見ていると、痛々しい。みんなもっと真剣に信仰をなさい。」「若い人がこんなに苦しんでいる・・・。大人が模範になっていないからよ」と。
そして、改められた時・・・「なんだ、そんなことか」とはおっしゃいません。涙を流して・・・、喜んでくださる方々・・・。それがクリスチャンでした。
買い物
新居に冷蔵庫と洗濯機が必要
引越しは日曜日
しかし、どうしても機種が選べず金曜日になりました
ようやく機種が決まって電話・・・
せめて冷蔵庫だけでも・・・
しかし、金曜日に来店しないと日曜日には配達は間に合わないとのことでした
ネットで調べたら3~4日はかかるのとのこと・・・引越ししても新居には冷蔵庫も洗濯機もない・・・
価格は2台で12万円後半・・・機能の割には安いけど・・・(^^;)
交渉していたら、なんと同僚からも電話があり、人生問題の話になり
大事な話し合いになりました・・・冷蔵庫よりも遥かに大事・・・
とうとう、サンセットに入ってしまいました
その時、電気会社から
「今、この電話で申し込めばできますが・・・」
と言われましたが、もう安息日に入ったので、ご尽力いただいたことを感謝してお断りしました。
他の人から見たら、あ~あと思うかも・・・
しかし、その安息日はとっても力をいただき、恵まれた安息日となったのです
土曜日のサンセットの後、電気屋さんに行きました
日曜日の配送は締め切れているとのこと
月曜日は仕事があって立ち会えない・・・
祈り、途方にくれていると、
店員さんが来られ
特別に月曜日の夜 仕事が終わってからの時間帯にしてくださいました
もちろん電気屋さんの配送にそんな時間帯はなかったのですが・・・
価格も調べたもともとのところよりも特別価格・・・(^^:)
ついでにインターネットも準備できて・・・
月曜日、仕事から帰ってしばらくして配達を受けました
人は非常に忘恩で、祈る時は必死で祈るが、かなえていただくと
「あれ、どうだったっけ」と忘れるという超利己的な罪人・・・
主の恵み深きことは
イスラエルの人々のように岩を立てたり、町の名前にまですれば
残るかもしれませんが・・・
悪魔が来て取り去ろうとしているので、記録しておかないと消されてしまいます
そうはさせない・・・小さな証に残しておこう(^^)
2016年6月15日水曜日
覚えているということ
「覚えているということ」
先日、証をしていてびっくり、あれ、証を忘れかけている。そこでちょっとここに書いておこうと思いました。・・・
あるお母さんが、一人のクリスチャンの所に来ました。
「娘の進学のことで相談したいのですが・・・」
そして、次の日、また来られました。「昨日はあなたに怒られることしちゃった。雷門にお参りにいったの」
その次の日の朝でした。元気だった娘さんが起きると、足が動かなくなっていたのです。
クリスチャンの方は、その娘さんのそばで毎週集会所を開かれたりして、を親身に接せられ、娘さんも教会に導かれます。しかし、娘さんはしばらくして教会から離れてしまいます。
それから、しばらくしたある時、お母さんから電話がかかってきました。「娘が脳溢血で倒れました。危ないので祈ってください」とのことでした。「わかりました」と電話を切られ祈られます。
しかし、祈ろうとしても・・・どうしても手が合わさらない・・・「これは、何かある」と思われ、娘さんの入院されていた病院に行かれます。主治医の先生に「どういったご関係の方ですか」と聞かれたので教会の者です、言ったら集中治療室に通してくれました。
娘さんを見て、びっくり!喉は切開され、体中からチューブが出ています。髪の毛はそり落とされ、紫色の血管が浮き出ていました。
「え~脳溢血ってこんなになるんですか?」と主治医の先生に聞くと、医師は意外そうに言いました。「この人は自殺図ったんですよ。一年分の精神薬をいっぺんに飲んだんです。
この人はもうだめでしょう。生きたとしても植物人間ですよ」
びっくりしたクリスチャンの方は、家に帰ると「お母さん知らないんだ」とお母さんに電話をかけられます。「お嬢さん、脳溢血じゃなくて自殺だったそうですよ」
するとお母さんから「あんた、なんで行ったんです!」と怒られてしまいます。
しかし落ち着いて「ごめんなさい。わたしは神様にうそは祈れないのです。脳溢血だったら、脳溢血です、と祈らなければならいないし、自殺なら自殺です、と祈らなければならないのです。ごめんなさいね」とおっしゃり電話を切られました。
少したって、またお母さんからまた電話がかかってきました。「さきほどはすみませんでした。娘がいよいよだめなので、どうか祈ってください」
そして、クリスチャンの方は祈り始められます。すると・・・体からどんどん熱が取られていきました。冬でもないのに、祈られたまま、電気毛布をかぶられます。ちょうど、その時そこに入ってきたのは僕・・・、今でもその姿は覚えています。
その時、病院では娘さんの血圧がさがり、「もうだめだ」と言っていたときでした・・・
ところがその血圧が急に上がり始めます。
そして、「死か、植物人間か」と言われていた娘さんは意識を回復するのです。
主治医の先生が思わずおっしゃったそうです。
「この病院始まって以来の奇跡だ」
そして、この娘さんが回復してしばらくして・・・
娘さんのお母さん、そしてお姉さんは洗礼を受け、イエス様を信じる群れに加えられました。
証は語っていないと・・・失ってしまいます・・・
先日、証をしていてびっくり、あれ、証を忘れかけている。そこでちょっとここに書いておこうと思いました。・・・
あるお母さんが、一人のクリスチャンの所に来ました。
「娘の進学のことで相談したいのですが・・・」
そして、次の日、また来られました。「昨日はあなたに怒られることしちゃった。雷門にお参りにいったの」
その次の日の朝でした。元気だった娘さんが起きると、足が動かなくなっていたのです。
クリスチャンの方は、その娘さんのそばで毎週集会所を開かれたりして、を親身に接せられ、娘さんも教会に導かれます。しかし、娘さんはしばらくして教会から離れてしまいます。
それから、しばらくしたある時、お母さんから電話がかかってきました。「娘が脳溢血で倒れました。危ないので祈ってください」とのことでした。「わかりました」と電話を切られ祈られます。
しかし、祈ろうとしても・・・どうしても手が合わさらない・・・「これは、何かある」と思われ、娘さんの入院されていた病院に行かれます。主治医の先生に「どういったご関係の方ですか」と聞かれたので教会の者です、言ったら集中治療室に通してくれました。
娘さんを見て、びっくり!喉は切開され、体中からチューブが出ています。髪の毛はそり落とされ、紫色の血管が浮き出ていました。
「え~脳溢血ってこんなになるんですか?」と主治医の先生に聞くと、医師は意外そうに言いました。「この人は自殺図ったんですよ。一年分の精神薬をいっぺんに飲んだんです。
この人はもうだめでしょう。生きたとしても植物人間ですよ」
びっくりしたクリスチャンの方は、家に帰ると「お母さん知らないんだ」とお母さんに電話をかけられます。「お嬢さん、脳溢血じゃなくて自殺だったそうですよ」
するとお母さんから「あんた、なんで行ったんです!」と怒られてしまいます。
しかし落ち着いて「ごめんなさい。わたしは神様にうそは祈れないのです。脳溢血だったら、脳溢血です、と祈らなければならいないし、自殺なら自殺です、と祈らなければならないのです。ごめんなさいね」とおっしゃり電話を切られました。
少したって、またお母さんからまた電話がかかってきました。「さきほどはすみませんでした。娘がいよいよだめなので、どうか祈ってください」
そして、クリスチャンの方は祈り始められます。すると・・・体からどんどん熱が取られていきました。冬でもないのに、祈られたまま、電気毛布をかぶられます。ちょうど、その時そこに入ってきたのは僕・・・、今でもその姿は覚えています。
その時、病院では娘さんの血圧がさがり、「もうだめだ」と言っていたときでした・・・
ところがその血圧が急に上がり始めます。
そして、「死か、植物人間か」と言われていた娘さんは意識を回復するのです。
主治医の先生が思わずおっしゃったそうです。
「この病院始まって以来の奇跡だ」
そして、この娘さんが回復してしばらくして・・・
娘さんのお母さん、そしてお姉さんは洗礼を受け、イエス様を信じる群れに加えられました。
証は語っていないと・・・失ってしまいます・・・
虚しい求め
さて、前に僕は一晩中、イエス様憐れんでください、と祈っていたことがありました。それこそ、神様の奇跡的御介入を求めていました。
さらにずっと前は、「神様は、どうしてなかなか答えてくださらないのだろう」と傲慢そのもの・・・
「キリストを告白する現代の教会は、最高の特権に恵まれている。主は、ますます輝かしい光の中でわたしたちに啓示されている。わたしたちの特権は昔の神様の民の特権よりはるかに大きい。わたしたちは、イスラエルに託された大きな光を持っているばかりではない。偉大な救いの確証がキリストを通していっそう明らかに与えられている。彼らには旧約の歴史があったが、わたしたちにはそれに加えて新約の歴史がある。わたしたちには来臨なさった救い主、十字架にかかり復活し、開かれたヨセフの墓に向かって「わたしはよみがえりであり、命である」と仰せになった救い主の確証がある。私たちがキリストを知り、キリストがわたしたちを愛しておられることによって、神様の国はわたしたちのまん中に置かれている。キリストは説教によってわたしたちに啓示され、歌にうたわれる。霊の婚宴はわたしたちの前に豊かにととのえられている。測り知れない価で備えられた礼服はあらゆる魂に無代で提供される。わたしたちは、キリストの義、信仰による義、神様のみことばのきわめて大きな尊い約束、キリストによって天父に自由に近づくこと、聖霊の慰め、神様の国における永遠の命の保証などが神様の使者によって教えられている。神様は、天の婚宴である大晩餐の準備のために、これ以上何をしてくださることができよう」
一方では神様が助けてくださるのを必死で求めていたのに・・・
ところが、「これ以上何をしてくださることができるであろう」との言葉・・・
「ん?」あまりのギャップに・・・自分の罪にびっくり!
そう・・助けは、もうすでに目の前に与えられていることに気づきます。
「キリストは弟子たちに光を輝かすように努力せよと、お命じにならなかった。ただあなたがたの光を輝かしなさいと言われただけであった。もし、キリストの恵みをうけているのであれば、光はあなたのうちにある。障害物を取り除くならば、主の栄光はあらわれるのである。光は暗黒の中に輝き出て、やみを追いやってしまう。こうしてあなたは自分の感化の及ぶ範囲で、光を輝かせずにはおられない」
「不正の富を用いてでも、自分のために友達をつくるがよい」そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう」とキリストは言われる。神様も、キリストも、天使も、すべてが悩み、苦しみ、罪に沈んだ者のために奉仕している。この働きのためにあなた自身をささげ、神様のたまものをこの目的のために用いてください。そうすれば、あなたは、天に住むものの群れに加わることができる。あなたの心は、彼らの心と共鳴し、あなたの品性は、彼らと同じようになることであろう。あなたにとって永遠のすまいの住民たちは、他国人ではなくなる。地上の万物が過ぎ去るとき、天の門衛は、あなたを喜んで迎えることであろう」
「世の中には、希望を失っている者が多い。彼らには、太陽の光をとりもどしてあげよう。勇気のくじけた者が多い。彼らには励ましの言葉を語り、彼らのために祈りをささげよう。」
太陽の光・・・以前は太陽の光が「世の光」神様の普遍の愛の栄光を表していることもしらないで、ひたすら闇の中・・・
「神様も、天使の方々もすべてが悩み、苦しみ、罪に沈んだ者のために奉仕している」
何もしていないのは僕だけ?
だんだん目が開かれていくと・・・以前には想像もつかない御言葉が見えるようになります。
「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた」
「地は主のいつくしみで満ちている」
「そんなこと言っても苦しいのだけど・・・」
「本当?本当にそうなの?と自分の心につっこんでみるといいのよ」
「本当???、身体が動くこと、様々な品物が整えられていること、特に日本は世界で有数の裕福さ、祝福の大きさ、ほぼ世界最高峰の医療技術・・・などなども見えてきて・・・「忘恩」「感謝の無さ」「貪欲」など罪の正体を見破ることになります」
さらにずっと前は、「神様は、どうしてなかなか答えてくださらないのだろう」と傲慢そのもの・・・
「キリストを告白する現代の教会は、最高の特権に恵まれている。主は、ますます輝かしい光の中でわたしたちに啓示されている。わたしたちの特権は昔の神様の民の特権よりはるかに大きい。わたしたちは、イスラエルに託された大きな光を持っているばかりではない。偉大な救いの確証がキリストを通していっそう明らかに与えられている。彼らには旧約の歴史があったが、わたしたちにはそれに加えて新約の歴史がある。わたしたちには来臨なさった救い主、十字架にかかり復活し、開かれたヨセフの墓に向かって「わたしはよみがえりであり、命である」と仰せになった救い主の確証がある。私たちがキリストを知り、キリストがわたしたちを愛しておられることによって、神様の国はわたしたちのまん中に置かれている。キリストは説教によってわたしたちに啓示され、歌にうたわれる。霊の婚宴はわたしたちの前に豊かにととのえられている。測り知れない価で備えられた礼服はあらゆる魂に無代で提供される。わたしたちは、キリストの義、信仰による義、神様のみことばのきわめて大きな尊い約束、キリストによって天父に自由に近づくこと、聖霊の慰め、神様の国における永遠の命の保証などが神様の使者によって教えられている。神様は、天の婚宴である大晩餐の準備のために、これ以上何をしてくださることができよう」
一方では神様が助けてくださるのを必死で求めていたのに・・・
ところが、「これ以上何をしてくださることができるであろう」との言葉・・・
「ん?」あまりのギャップに・・・自分の罪にびっくり!
そう・・助けは、もうすでに目の前に与えられていることに気づきます。
「キリストは弟子たちに光を輝かすように努力せよと、お命じにならなかった。ただあなたがたの光を輝かしなさいと言われただけであった。もし、キリストの恵みをうけているのであれば、光はあなたのうちにある。障害物を取り除くならば、主の栄光はあらわれるのである。光は暗黒の中に輝き出て、やみを追いやってしまう。こうしてあなたは自分の感化の及ぶ範囲で、光を輝かせずにはおられない」
「不正の富を用いてでも、自分のために友達をつくるがよい」そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう」とキリストは言われる。神様も、キリストも、天使も、すべてが悩み、苦しみ、罪に沈んだ者のために奉仕している。この働きのためにあなた自身をささげ、神様のたまものをこの目的のために用いてください。そうすれば、あなたは、天に住むものの群れに加わることができる。あなたの心は、彼らの心と共鳴し、あなたの品性は、彼らと同じようになることであろう。あなたにとって永遠のすまいの住民たちは、他国人ではなくなる。地上の万物が過ぎ去るとき、天の門衛は、あなたを喜んで迎えることであろう」
「世の中には、希望を失っている者が多い。彼らには、太陽の光をとりもどしてあげよう。勇気のくじけた者が多い。彼らには励ましの言葉を語り、彼らのために祈りをささげよう。」
太陽の光・・・以前は太陽の光が「世の光」神様の普遍の愛の栄光を表していることもしらないで、ひたすら闇の中・・・
「神様も、天使の方々もすべてが悩み、苦しみ、罪に沈んだ者のために奉仕している」
何もしていないのは僕だけ?
だんだん目が開かれていくと・・・以前には想像もつかない御言葉が見えるようになります。
「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた」
「地は主のいつくしみで満ちている」
「そんなこと言っても苦しいのだけど・・・」
「本当?本当にそうなの?と自分の心につっこんでみるといいのよ」
「本当???、身体が動くこと、様々な品物が整えられていること、特に日本は世界で有数の裕福さ、祝福の大きさ、ほぼ世界最高峰の医療技術・・・などなども見えてきて・・・「忘恩」「感謝の無さ」「貪欲」など罪の正体を見破ることになります」
2013年11月19日火曜日
職員礼拝のノートから
ある牧師さんがとっても悩んでいました。ご家族とハイウェイを自動車で走っている時、こう思いました。ハイウェイの数々の道路標識を見ながら、「わたしも神様からこういう道路標識のお導きがほしい」と思っていました。さて食事時になったのでパーキングエリアに入り、ご家族は食堂に入りました。しかし、牧師さんは車のそばに椅子をだして、座っていました。
すると、突然目の前の「公衆電話」が鳴り始めました。「だれかとるだろう」と待っていましたが、誰もとりませんでした。止む得ず牧師さんが立ち上がって電話をとりました。
「○○先生ですか」
と突然自分の名前を言われ、びっくりしました。
電話をかけてきた方は、今にも自殺しようとしていました。しかし、何年か前○○牧師の話を聞いたことがあり、「死ぬ前にもう一度お話がききたい」と思いました。
しかし、電話番号も何もしりませんでした。がっかりして、死のうと思った瞬間、目の前に数字がずらっとならびました。すぐにメモして電話をかけたのです。
牧師さんは答えました。「あなたはご存知ですか、これはわたしのオフィスの電話番号ではありませんよ」
「別の州の、ハイウェイのたまたまよったパーキングエリアの公衆電話の電話番号です。」
二人はあって、お互いに生きる勇気をいただきました。
すると、突然目の前の「公衆電話」が鳴り始めました。「だれかとるだろう」と待っていましたが、誰もとりませんでした。止む得ず牧師さんが立ち上がって電話をとりました。
「○○先生ですか」
と突然自分の名前を言われ、びっくりしました。
電話をかけてきた方は、今にも自殺しようとしていました。しかし、何年か前○○牧師の話を聞いたことがあり、「死ぬ前にもう一度お話がききたい」と思いました。
しかし、電話番号も何もしりませんでした。がっかりして、死のうと思った瞬間、目の前に数字がずらっとならびました。すぐにメモして電話をかけたのです。
牧師さんは答えました。「あなたはご存知ですか、これはわたしのオフィスの電話番号ではありませんよ」
「別の州の、ハイウェイのたまたまよったパーキングエリアの公衆電話の電話番号です。」
二人はあって、お互いに生きる勇気をいただきました。
この証を教会の安息日学校の青年のクラスで話していた時の事です。一人の青年が手を上げました。「僕の親戚の方も、同じように教会の電話番号を教えていただいたことがあります。」と。証とは私たちが忘れていた事を思い出させるためのものです。
ある証の中の話です。ある方が夢を見ました。それは天使が泣いている夢でした。
天使は涙ながらに彼女に話しかけます。「ここに答えを書きなさい」そして、教会のことについていろいろなことをはなされたのです。そして最後に、こうおっしゃったのです。「人類は決して滅んではならないのです。なぜなら、イエス様の十字架の傷は永遠にわたって失われたもののために痛むからです」
イエス様が、全人類の罪のために十字架に付けられた、というのはなんとなく理解できました。また、この人のために、とかあの人のために十字架に付けられたというのならば理解できます。しかし、わたしのために至高の神の御子が天国をお捨てになられて地上に来られ、私のために侮辱と屈辱をお受けになり、十字架の苦しみに耐えられたというのは、理解を超えています
この証を聞いて、思いました。もし自分が天国に行けなくて、滅んだとしてもずっと覚えていてくださる方がいるんだ・・・そしてもう一つ、私のためにずっと永遠に痛み続ける方がいらっしゃるんだ。ということでした。神様の愛とは、何と驚くべきものだろう、と思いました。そして、多くの方々がもはや死も悲しみも、叫びも痛みもない地において、歓喜のうちに主の御前に立つとき、自分もそこに立っていなければならない、と思いました。なぜなら「イエス様の御傷は永遠にわたって失われたもののために痛むからです」
私たちの前に、今日というまったく真っ白な1ページが開かれています。誰もがここに「生き方」というペンで「答え」を書いていきます
「神様の御言葉、義の言葉、生命の言葉が“今”、“この場で”与えられています。あなたは 今、義に造り変えられる事を望みますか?今、その御言葉によって生きようとなさいます か?これこそ信仰による義認です。・・・世界で最も単純なことです。」
理念もそうですが、聖書の高い標準を見て、「登れない」というのではなく、まず一歩足を上げることが重要だと教えられています。そして1歩1歩と足し算で積み重ねる時、主はかけ算で報いてくださるとあります。
最後に聖書を読ませていただきます。
マタイによる福音書25章です
「あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」
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