2009年11月23日月曜日

再創造

ある教会員の方が自動車で走っていました。
そこへ、若者の乗った自動車が正面からつっこんできて、正面衝突しました。
その方はすぐに教会の病院にかつぎこまれました。

眼球は飛び出し、耳は千切れ飛んでいました。
人工眼球が用意されましたが、手の施しようがない状態でした。

そこへ教会の方々が集まってきました。
牧師さんが「ここに信仰のある方々だけが、残ってください」とおっしゃいました。
そして、みんなが膝まづいてお祈りされました。

皆が祈っている間、その患者さんは残った片方の目で・・・
「真っ黒だった手」がピンク色にもどっていくのが見えたそうです。そしてお祈りが終わったとき、千切れ飛んでいた耳がなおっていて、飛び出した眼球は治っていました。

その方はすぐに、刑務所に行きました。
そして、彼の自動車に正面衝突をして、そこに入っていた若者に出会い・・

癒された・・・神様の不思議な再創造の話をされたそうです。
そして、「キリストへの道」など、刑務所で聖書研究が始まり、まわりの囚人にまで広がっていったのでした。

2009年11月21日土曜日

去年の出来事~書いたときは「最近の出来事」 一年経ちます

さて、信仰を育てていただいた教会から離れて、もう一年半、それでも何と、何と多くの不思議な出来事に恵まれたか、びっくりします。毎日、毎日の記録をつけるようにはしていますが、主のいつくしみの不思議な御業のない日は1日もないというとっても不思議なお恵みです。

離れて初めの頃は、何もかも初めてでした。知っている人誰もいない初めての職場、初めての住まい、初めてのお店、近所・・・。

時には、身体中、痛みが走り、夜眠れない状態の時がありました。もともとクリスチャンは他のために祈るのであって、自分のためには祈らないものだと思いますが、恥ずかしながら、お祈りすると、痛みがなくなり、その晩からずっと眠れるようになった経験をしました。

また、今までは食事や病気の時、本当に多くの教会の兄弟、姉妹方の暖かい保護と、薬、食事、などなど数え切れないほどの祝福をもって支えていただきましたが、今度は次の教会の兄弟、姉妹ばかりではなく、神様を知らない、あるいは信じていない方々からも、通常では考えられない方法で支えていただき、守られています。

困った時には、兄弟姉妹の信仰をお借りしなさいとまで勧められていますが、全然、「お借りできない」状況ですと、ただ主イエス様にすがるしか方法がなくなります。

しかし、主は驚くべき方法で毎日、毎日憐れみ深く、また安息日もお約束通り、守っていただき、仕事でも、生活でも導いてくださっています。振り返るとお祈りに応えて、数々の出来事が起こっていることに気付きはじめています。

「わたしたちの必要とするもの―物質的、霊的祝福―を日ごと求めるように教えることによって、神様はわたしたちの益のために1つの目的を達成しようとしておられます。神様は、わたしたちが神様の絶えざるご配慮に依存していることを認めさせようと望んでおられるのです。それは、わたしたちをご自身との交わりにいれようと望まれるからです。キリスト様とのこの交わり、すなわち、祈りと、みことばのこの上なく尊い真理を学ぶことを通じて、飢えた魂は養われ、渇く者はいのちの泉で潤されるのです。」
この言葉は、本当に真実です。この言葉通り、一言も違わずその通りです。

聖書の中には、「見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ。わたしはあなた方の時代に一つの事をする。それは、人がどんなに説明して聞かせても、あなたがたのとうてい信じないような事なのである」という事柄が書いてありますが、「信仰とは説明はできないが、体験によって知ることができる」ということもまた、真実であり、また事実だと、生活を通して実感させられます。

去年の夏は、僕にしては珍しく、風邪をひきませんでした。一度風邪を引くと2~3ヶ月くらいずっと続く、そんな毎年でした。しかし、今年は仕事上、絶対に休めませんでした。しかし今回は、僕としては不思議なくらい、守っていただきました。

ところが、最近おもいっきり風邪をひきました。先週月曜日夜、咳が止まらず、結構?大変でした。
連休明け、火曜日は替わりの人がいないのでどうしても出なければならないし、やむを得ずイエス様に必死でお祈りしました。
咳が止み、静かになりました。

そして先週ずっと出勤出来ました。
その中で、月曜日は職場でお医者さんの食べる夕食をいただきました。食欲が全然無くて何も食べたくなかったのですが、いただきました。

また他にも、牛乳とおいしい「どら焼」までいただきました。(^^) 夜は久しぶりに眠れました。

そして職場で火曜日はお昼をいただき、夕食もいただきました。火曜日は食欲もあり、おいしくいただきました。
イエス様に感謝です。
そしてまたその他にも、溢れるほどのパンの山とバナナ二本。牛乳、お菓子、お茶、ケーキまでいただきました。
神様がやさしく守って下っています。

さて、話はちがいますが、学生の頃、イスラム教の正典「コーラン」を読み、大学の講義を聞きました。天国では救われた人々がお酒を飲みながら、地獄に落ちて苦しんでいる人を見て、救われたことを喜んでいるそうです。

「お酒が飲めない?」からではないですが、僕にとっては、天国ではありませんでした。また、イスラム教の教えていることが真実だとしたら、僕は100%天国には入れないでしょう。

イエス様が、もしお祈りにお答えくださらなければ、今週は仕事に出られませんでした。もし、主が十字架にかからなければ、僕のような者は100%天国に救われないでしょう。

「彼は、あやまちや罪があまりに大きいので、主は私たちの祈りをかえりみてくださらず、私たちを祝福し、救ってはくださらないと思わせようとします。私たち自身のうちには、欠点以外何も見られず、神様にとって魅力あるものは何も見られません。サタンは、無駄だ、品性の欠陥を改めることはできないとわたしたちに告げます。私たちが神様のもとに来ようとする時、敵は祈ってもむだだ、あなたはあの悪事をしたではないか、あなたは神様に対して罪を犯し、自己の良心にそむいたではないかとささやくでしょう。しかし、わたしたちは、「御子イエス様の血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」と敵に告げることができます(ヨハネ第一・1-7)、私たちが罪を犯した、祈ることができないと感じる時こそ、まさに祈るべき時なのです。恥じ、誇りをいたく傷つけられているかもしれませんが、祈り、かつ信じなければなりません。「『キリスト・イエス様は罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人の頭なのである。・・・」

あの十字架があるからこそ、信じがたい力をもって立ち上がることができます。そして、また、主イエス様が「生きて欲しい」と願われるのであれば、「生きてみようかな」と思うのです。

2009年11月17日火曜日

価値ある生き方 (5)

聖書の中にイエス様の4つの畑のたとえがあります。
道端に落ちた種
石地
茨の地
そして良い畑

僕が農業やるなら100%、良い地にしかまかないだろうな。しかし、あえて種は4つの畑にまかれています。しかも、「種」とは「一粒の種、もし死ななければ」とイエス様の犠牲を指しています。
自分の心が人に踏みつけられて「道ばた」のように固く思える時も、鳥が来て種を取っていってしまうように思われる時でも、石地のように思える時も、いばらの地に見えるときも、イエス様は種をお蒔きになられるようです。
悔い改めのくわをもって固い地を耕かし、自我の石を取り除き、いばらを抜きながら、前進です。

また、道端にも種をまかれるイエス様のことを思うとまだまだやることが、たくさんあることに気づきます。「あの人、道ばただから、いばらいっぱいだから・・・」と外見で判断してはならないようです。
僕の好きな言葉の中に「あなたがかえりみないその時こそ、その魂があなたの同情を最も必要としている時かも知れない」というものがあります。

反対している人でさえも・・・
血液の中の酸素の量を調べる機械にパルスオキシメーターというものがあります。今、ほとんどの病院で使用されていて、救急医療も含めて多くの人々の命を救っています。これは日本人の発明です。
それを開発者が学会で初めて発表したときに、その学会の座長がその器械に猛反対したそうです。後で、ある人がその座長に聞きました。「先生、どうしてあの時反対されたのですか?」
先生が答えたそうです。
「あまりにも素晴らしい発明だから、反対した」

イエス様の弟子たちから、猛反対を受けた「ナルドの香油」のお話もまた、イエス様が預言されたように全世界に伝えられ、至るところにその香りを放っています。

反対されたり、迫害の証を読むとき、「えーやだー、こんな目に会いたくない」と思う時は、何にも戦っていない時です。

人生の常である、躓いたり、失敗したり、反対を受けたり、上手くいかなかったりする、すなわち最も証を必要とする時、その時に最も力をいただくのは「雄々しく戦ってきた聖徒の方々の姿」です。

また相手が「許せない!」との超醜い罪深い心に勝利するのは(いろいろありとあらゆる事をやりましたけれど)、イエス様が十字架に架けられておられる中で、「父をお許しください、彼らは何をしているのか、分からずにいるのです」と仰せになったお姿でした。

心に「全て許し」と思うこと、それともう1つ「1万タラント借金」のたとえに関して、「この恩知らずの僕は自分が貸したお金のことばかり考えていた」との言葉でした。
(今は絶版「豊かな人生の秘訣」福音社 たしか英語名CHRIST’S OBJECT LESSONS 、当時ドイツかどこかの女王からも著者に丁寧なお礼状が届いた、とっても良い本です。)

心が解放されるありがたさ、これはその醜さ、罪深さを知っているだけに本当にありがたいものです。

この心の解放を告げるために、「山に、河に、町に、村に、道端に、石地に、茨の地に、身は炎に焼かれながらも」福音は伝えられています。

価値ある生き方 (4) 

日本の実話です。

あるお母さんに息子がいました。その息子がぐれて、悪をくり返したあげく、やくざの仲間にはいってしまいました。

しかしある時、息子が家に帰ってきます。
お母さんは息子さんの足音ですぐにわかります。
「この子に何かあった・・・」。お母さんが息子に聞いてみます。
「親分に不義理なことをして、指をつめて来いと言われた」息子は苦しそうに言います。

その時、お母さんは言います。「指をつめたら許してくれるのか」 
息子は言います。「許してくれる」

「そうか」 お母さんは立ち上がり、迷うことなく、自分の指を切り落としました。

そして、その血だらけの指を包んで息子を連れてヤクザの親分のところへ行きます。
ヤクザの親分がその「お母さんの指」を見たとき、親分の体が震えたそうです。
お母さんは言います。「もう今後息子と関わりをもたないでください」と。

帰り道、お母さんは息子さんに言います。
「二度と、あの人たちの仲間になってはいけないよ」

価値ある生き方 (3)

アメリカの証です。

あるご主人方が,集まってお酒を飲みながら,自分の奥さんの自慢話をしていました。
「うちの奥さんの鼻の高いこと、世界一だ」
「うちの奥さんの料理のうまいこと、世界一だ」などなど。
その時、ある男が言いました。「うちの奥さんの怒らないこと、これが世界一だ」と・・・。
それを聞いた旦那さんが方はいっせいに「本当?」と言いました。アメリカでは奥さんは、いばって?いるそうです。
「よし、それではみんなで見に行こう」「そうしよう」とみんなでその家に行くことになりました。

その時刻、夜の三時半・・・。
ご主人が家の戸をたたきました。「おーい,ご主人様のお帰りだぞ!」
「なんですって、今何時だとおもっているの」・・・ではなく、
奥さんはすぐに家をあけました。
そこにいるのは、大勢のご主人の友達・・・。「今帰ったぞ、さあ、ご馳走、ご馳走!」とご主人はできるだけ奥さんを怒らせようとたきつけます。
「あんた、今何時だと思っているの、3時半になんか、出すものないわよ」ではなく、
「ごめんなさいね、わたしは料理が下手だから、少しおまちくださいね」
奥さんはお料理を作り始めます。

さすがの友達も、「わかった、わかった、お前の奥さん世界一だ」とみんな、食事ができる前に帰ってしまいました。
ようやく食事ができました。奥さんが運んでくると、「あら、お友達は?」 
ご主人「帰ったよ、うん今帰った」
 「え!帰った?あんた一人で食べなさい!」と御主人に頭からどばっとマカロニをかけた・・・のではなく、

奥さんは「ごめんなさいね、私の料理の作るのが遅くて、みなさん帰ってしまったのね。あなた、どんなに恥ずかしい思いをしたか、ごめんなさいね」とご主人に謝ったそうです。
さすがのご主人も参ってしまいました。「おれは、お前にこんなにつらく当たるのに、どうしていつもやさしくしてくれるんだ?」 彼女のチャンスがやって来ました。

「あなたは、イエス様を信じて私と一緒に天国へ行ってくれません。ですから、この地上で、あなたをできるだけ幸せにしてあげるの。私の幸せは天国に行ってから、それから始まるのですから」

「ごめんね、ぼくが悪かったよ」
それから、ご主人はイエス様を信じ、教会の長老さんになられたそうです。

代償

さて、病院で使う消毒剤で最も強力なもので、(ちょっと専門的ですけど)グルタラール製剤というものがあります。これは、いわゆる「揮発」すなわち消毒剤から、気化するため、看護婦さんたちの健康に影響が出るといわれている薬です。
現在、ディスオーパ(スレッドに商品名書いてもいいのでしょうか…)という「揮発しない」製品が出ています。現在、僕の病院ではそれを使っています。しかし、「高い」です。しかし、「看護師を守るため」、特別に入れていただいたものです。

かつて病院では、注射針に針刺し事故防止装置がついていませんでした。針刺し事故とは、患者さんに刺した針を看護師がもう一度自分に刺してしまう事故です。その結果B型肝炎、C型肝炎、エイズなどに感染する可能性もあります。

ある時、注射針のメーカーさんと話をしていました。
「良い商品なんだけど、どうしても病院の委員会を通らないんです」
「しかし、1人の看護婦には、親があり、中には兄弟がいて、ご主人がいて、恋人がいて、中にはこれから結婚される方もいる。子さんがいらっしゃる方もいます。また、これから生まれてくる子供たちがいます」
「空気も汚くなった、川も、海も、山も・・・。ほんの少しでも良い世界をのこしてあげないと」

「 うちの病院では委員会が通らなくて、だめだけど、ぜひ他の病院でも広めてください。事故を起こした看護婦さんにあなたが抜けていたからだよ、じゃなくて私たちが、守ってあげないと」

「看護婦さんがどんなに疲れていても、苦しくても、どんなにあわてていても、急いでいても安全なように守ってあげるのが私たちの仕事です」
「いろいろ反対はあるかもしれないけれど、たった一人でも看護婦さんが、これで助かったらみんなで乾杯しましょう」
「一人の看護婦さんが、天国に入って自分の全生涯見せられたとき、『イエス様、わたしはこの時、「この安全針」で助かったんですね』と言えると良いですね」
その時、メーカーの営業の方々が立ち上がってくださいました。ある会社では、営業さんがタッグを組んで社長に直訴してくださいました。ある会社では、「上司から目をつぶってやれ」と言われました、とおっしゃっていました。そして、すべてのメーカーが、安全機構なしの針と同価格で入れてくれたのです。

院内の方々も信じてもらえませんでした。「そんなことはない!もう一度調べろ!」と言われれました。しかし調べると、それはやはり破格の金額でした。

今、病院で看護婦さんが使っている注射用の針、それはメーカーさんが一丸となり、看護婦さんの命のため、幸せのため入っているものです。

何年かたって、メーカーの次の営業の方が来られた時、「Sさん、彼、これ首を覚悟でやったんですよ」とおっしゃっていらしたことが、忘れられません。

「一人の人には、親がいて、また、人によっては兄弟がいて、また、お子さん、旦那さん、奥さんがいる」、これは教会で教わったことです。
1人の人生の尊さは、教会で教わりました。100万円かかって1人の人が救われるのなら安いものだ、と今でも世の中からつまはじきにされた方々に全財産、全生涯、億のローンを持たれながら、言うこと聞かない1人のためにいまも働いていらっしゃいます。そしてこのスピリットがたくさんの人々に、感動を呼び起こし、熱い炎を、そして温かい心を作り出しています。そして、その方々が、その火を今度は他の方々に分けあたえています。
「首覚悟」で病院の看護師の命のために働いてくださった方は、それから間もなく会社を辞められました。理由は教えてくれませんでした。

誰も感謝しないかも知れないけれど、馬鹿にするかもしれないけれど、神様を知らない方々が、教会の証に心が揺り動かされて、「看護師のために」と働いてくださったものです。

今、病院で働いている看護師たち、それは決して「安っぽい命」ではありません。
その方を育てて来られた親御さん、また兄弟、配偶者、子供たち、また、これから生まれてくる子供たち、その幸せを願ってみんなが1つとなって、働いてくださいました。
一人の命もまた、また「感謝しないかもしれないけれど」、「馬鹿にするかもしれないけれど」、父なる神様が、御子を手離して与えられたものです。「罪深い、もうだめだ」と思っているかもしれないけれど、すべてご存知でイエス様は命を捨ててくださいました。
「わたしに従いなさい」と。
「イエス様助けてください」とお祈りして聖書を開いて、何万回?助けていただいたかわかりません。

さてある時、先ほどの「社長に直訴してくださった」メーカーの営業本部長さんがいらっしゃいました。
「みな、初めに会社に入るときは、『人のために役に立ちたい』と入ってくるんですよ。しかし、3年、4年と経つと『営業成績』や『営業利益』などで最初のスピリットを忘れてしまうんです。しかし、この「安全針」の話があってから会社のものがみんな「最初のスピリット」と思い出したんです。そしたら、この針の売り上げが次の月倍に、またその次の月はその倍に、またその次の月はその倍に増えたんです。ありがとうございました。」
成績でも、利益でもない。
イエス様は、「神様の愛で心がときめいた尊い瞬間、初めの愛」を与えて下さっています。
「あなたは初めの愛から離れてしまった」
だからもう一度、変わらない愛のイエス様に戻りなさい、そのような招きを受けています。

2009年11月16日月曜日

価値ある生き方(2) ~クリスチャンには休暇がない~

「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」とは主イエス様のお言葉ですsしかし、教会もまた、休暇のないところです。
毎日、夜10時まで開かれていて、どのような人が何時来ても良いようになっています。
困っている人が来ると、「いつでも電話していいよ」とおっしゃいます。

灯台はいつでも灯りをともしていることに意義があります。
「クリスチャンよ、イエス様の光はあなたから輝きでるのを決して忘れないでほしい。」

え~!毎日?
その献身的な姿は目に焼きついています。人が正しいことをしたいと願うのは、そのような姿を見るからなのかもしれません。

聖書の中に書いてあるイエス様のお姿 「彼は自分の魂の苦しみにより、光を見て満足する。」
ひょっとして、その光って、罪深い僕が悔い改める姿なのかなと思うと心に熱いものがこみ上げてきます。
多くの人が、自分の楽しみ、自分の人生、娯楽などに打ち騒いでいるとき、人の幸せのために生きる姿、それはなによりの説教です。

病院では病気の人は戦いです。それこそ休暇がありません。また、人生に絶望していたり、死んでしまいたいと思ったり、いじめられたりしている人々もまた戦いです。休暇はありません。少なくとも自分の場合はそうでした。
その中で、絶えざるお祈りのおかげで何度助けていただいたかわかりません。

教会ではバスで伝道旅行に行くときがあります。未信者のご家族の方々と一緒に交えての旅行です。みな、楽しく歌を歌ったり、証をしたりしていきます。皆で周りの景色に感動したり、とっても楽しい旅行です。
皆さん、楽しそうにされていますが、信仰の先を行く方々は、心の中ではその間、ずっと祈っていらっしゃいます。
さあ、ここまで書くと、「えー!たいへーん」となるでしょうか。

「伝道は最高のリクリエーションである」と有名な言葉があります。

証しているときや、人がイエス様の証に感動してくださる姿、涙ぐんでくださる姿、人生の重荷が軽くなる姿、それを見る喜び、それは最高級の“Re-Creation”(再創造)です。

2009年11月15日日曜日

価値ある生き方 (1)

今、NPOでペットボトルの蓋を集めて、それによってワクチンを恵まれない子供たちに届けようという運動があるそうです。

「お金を出せばいいじゃん」「どうせ、ほとんど誰かのポケットにはいってしまうよ」
ごもっともなお話です。

捨ててしまうゴミのようなペットボトルの蓋でも、「人を助けることができるんだ」「それならば、ましてや人間は、はるかに優れたものじゃないか」

僕の好きな言葉があります。「たとえ救われる人がたった一人だったとしても、イエス様は十字架の苦しみを受けられたであろう」

「あなたの努力が、99人の人から嘲笑や迫害しかうけなかったとしても、もし一人が救われたら、あなたは神様のために立派なことをしたことになるのです」
「もし自分がそのたった一人だったらどうだろう。100人分感謝しなきゃ・・・」

教会にいるといろいろな方々に出会います。才能があり、知恵があり、やさしく、「世の中で大成功するよ」と思う人。約束された将来、有望な地位を捨て、富や誉がいっぱいあった、あるいは用意されていた人生を捨てて、「人の救いのため」微笑みつつ生きている方たち。これも、またすごい奇跡です。
教会のため、人の救いのため、全財産、全時間かけて働いていらっしゃる方がいます。
ある時、その方に救われた人がこうたずねられました。「どうしたら、お返しすることができますか」

その方が微笑んでおっしゃいました。「あなたが幸せになることよ」
道端におちているペットボトルの「ふた」でさえ、ちいさな命を助けようとしています。

イエス様は今もなお、大勢の天使の方々、そして人間をお遣わしになられ、人を救っておられます。

イエス様のお名前の御力

さてある時、信仰の先を行かれる方が「聖書関連の本」を読もうとしました。ところが、開こうとしてもどうしても開けませんでした。


 「えい!」と力をかけて開きました。すると、そこには悪魔の方法、そして、それを見破る方法が書いていました。

 こういう証は世界各国にあります。

 ある牧師さんがいわゆる「霊媒師」の集会に行った時のことです。聖書ではそういうところには行ってはならない、と書いてありますが、その牧師は「あえて」いきます。すると、その集会の主が「今日、ここには来てはならない人が来ています」と言います。牧師は怖くなり、慌てて逃げ出します。すると、誰もいないのに後ろから捕まえられそうになります。「イエス様助けてください」と叫びます。すると、その手がぱっと外れます。家に帰って背中を見ると、背中に爪の後が残っていたそうです。

 また朝鮮戦争のころ、ある教会員の息子さんが出兵しました。するとある時、「息子さんが戦死した」との連絡がアメリカ軍より来ます。

 お母さんは、毎日嘆き悲しみます。するとある時、家をノックする音がします。それが「死人を呼び出す霊媒師への案内」でした。集会で「息子さんが現れて会いたい、と言っています」とのことでした。聖書ではそういうところへ行ってはならないと書いてあったため、行きませんでした。しかし、その案内が毎日来るのでお母さんは行くことにしました。そして、その集会に来てみると、その呼び出された「息子」に会いました。昔話もし「本物」でした。お母さんは、教会に行くことを止め、お金を払ってその集会に行くようになりました。そして言いました。「教会で言っていたことはうそだ」
 ところがある時、また家をノックする音がしました。ドアを開けると「息子」が立っていました。「あれ、今日は会う日ではないわよ」とお母さんがびっくりして言いました。
 息子は言いました。「何、言っているんだお母さん。僕は戦争に行って敵軍の捕虜になっていたんだ。友軍に助けられ、今日戻ってきたんだよ」。
 お母さんは何がなんだか分からなくてびっくりしました。この後、このお母さんはその「偽者を見せた」霊媒師を相手取って裁判を起こしたそうです。夏なのでというわけではないですが、全て現実の話です。

 もし、今まで書いてきた光の力強い天使の方々がいらっしゃらなかったら、恐れて当然です。しかし、「友なき友」のイエス様はすでに悪魔に勝ったお方です。忠実な一人の魂が悪魔に連れ去れるぐらいならば、天国の全ての天使をお遣わしになられても、その魂を守られます。あるクリスチャンの家をゲリラ兵が攻撃しようと思ったとき、その家見ると天の軍勢が守っていて攻撃できなかったそうです。「イエス様、お助けください」の声にいつでもあの釘付けられた御手を伸ばしてお救いになられます。

 『イエス様お助けください、私たちは死にそうです』この叫びを上げて、かえりみられない魂はないのです。


人には言えない悩みを、たくさんの人が持っています。最近その中で、結構多くの方が持っているものが、「金縛り」「心霊写真」などサタン(敵という意味)特有の人を不安がらせる悩みでした。

クリスチャンの方々なら、必ず経験している「イエス様の御名にまさる名はなし」ということと、その悪魔でさえ信じておののいているイエス様のお力。

ある方が、ある普通の集会に出席していたとき、そこにいたある方が突然何やら呪文を唱え始めると、そこにいた方が椅子ごと宙に浮いたそうです。そして、次の人の前に来ると、その人もまた椅子ごと宙へ、そして次、次、とだんだんその方のところへ順番が近づいてきました。その方が「イエス様助けて!」と心の中で叫ぶとその人は前だけ通りすぎていきました。

アメリカではなんと「グランドピアノ」まで宙に浮くそうですから、すごいものです。戦争を引き起こし、恐ろしい犯罪を起こし、人を狂わせる、「敵」の力は今でも現実のものです。

このイエス様と悪魔の戦い、「敵」に勝利する秘訣を書いてあるのは、もちろん聖書です。(他にも、キリスト教の歴史を通して聖書にそって書いてあるのでとっても良い本には「各時代の大争闘」(福音社)があります。この本が書かれるにも壮絶な敵の妨害があり、著者も敵に殺されかかっていますが・・・しかし、イエス様が御守りになられ無事でした。)

敵が一番嫌がるのが、「イエス様のお力が大きくなること」です。敵の力を大きく言っているとだんだん勢力が大きくなるといわれています。逆にイエス様の愛、お力、強さ、偉大さのことを話しているとイエス様の勢力が強くなる、それで、ここではイエス様の証だけを載せようと決心しています。

イエス様はお弟子さん方にこうおっしゃっておられます。「だから、あなたがたに害を及ぼす者はまったく無いであろう」。すでに征服された敵として、見るようにとも言われています。
では、どうやってイエス様の御守りをいただくのか。
それがイエス様に詫びる心、「イエス様お助けください」「イエス様罪人の私をお許しください」の心、感謝の心、悔い改めの心、と教わっていることが、なんと、なんとありがたいことかと思います。
しかし、そのこともまだ知らず、なんと多くの人々が悩み、苦しんでいることか、恐れていることか。
「みんな、言えなくて黙っているだけなんだ」と思いました。

天使の方々は、「聖なるかな、聖なるかな」と同じお言葉を話していますが、そのことにより、神様に栄光を帰していると言われています。同じ証を何回言っても、良いそうです。

2009年11月12日木曜日

再創造

「新しく造りかえられることこそ重要なのである」
たぶん、キリスト教の持つ最大のお力の一つのような気がします。奴隷商人だったジョンニュートンさんが「アメージンググレース」をつくられ、歓楽と冒涜の奴隷だったジョンバニアンさんが天路歴程を書かれ・・・。

このお力だけは、悪魔でさえ呆然と立ちつくすと言われるくらいすごいものです。

「禁煙なんて簡単さ、わたしはもう280回?もやっている」とおっしゃっていたのはマークトゥエインさん・・・。病院関係者なので、このために患者さんがどれほどの努力を払っていらっしゃるかは少しだけ知っています。禁煙ドックのため多額のお金を払い、禁煙外来、禁煙の薬、講習、禁断症状との闘い、禁煙OB会の組織・・・。

教会の経験あるクリスチャンの方は・・・超ヘビースモーカーで脳に腫瘍もでき、命が危ない青年に「タバコ呑んじゃいけないよ」とか、「~しちゃいけないよ」とはおっしゃいません。「男なら、1本、2本じゃなく、いっぺんに口にも鼻にも、耳にも20本くらい吸え!」くらいの勢いです。「しかし肺がんになるよ・・・」

伝道旅行にもアルコール中毒の初めての方には晩酌をつけてあげたり・・・。すると飲まれませんでした。

「聖霊様のお働きになられる余地をつくるのがクリスチャンの使命なのよ・・・」

そして、その若者も自分で気づいたら・・・タバコをやめていることを知ります。しかも禁断症状もなしに・・・。僕も医療に一応触れているので?他の方にいろいろ試行錯誤して禁煙させよう!としたこともあります。しかし、ことごとく失敗・・・。

ところが久しぶり会うと、その方も自然に「のみたくなくなったんだ」と言ってやめている姿に愕然・・・。造り主の御前に絶句する思いです。

さて、新生とは説明することはできないが、経験することはできる。この造り変えられていく過程は、「さなぎが蝶になる」とか「脱皮」?とかいろいろ説明されていますが、すごいものです。

「どんな人でも馬鹿にしちゃいけないよ。すべての人には神様の息がかかっているのだから」と教えられましたが、まさしくその通り。神様はどんな人をも造り変えることがおできになることをまのあたり見てきました。

「風は目に見えませんが、風の通った結果は、はっきりと見たり感じたりすることができます。聖霊が人の心に働くのも、ちょうど同じです。人の目には見えませんが、再創造の力が魂に新しい命を与え、神様のみかたちにしたがって新しい人をつくるのです。聖霊の働きは音もなく目にも見えませんが、その結果は明らかなものです。聖霊によって心が新たにされるならば、生活がその事実を証明します。わたしたちはどのようにしても自分の心を変えたり、神様と調和したりすることはできないのです。また、自己や自分の良い行いに頼ることもできませんが、心のうちに神様の恵みをやどしているかどうかはわたしたちの生活にあらわれてきます。性格に、習慣に、いっさいの行動に変化が起こりますから、過去と現在との間にはっきりと決定的な対照が見られるようにあります。人の性格はときどきの善行とか過ちでわかるのではなく、日常の言動の傾向によって知ることができるのです。」

多分、この御力抜きに、いろいろ説明しても周りに益にはならないかな・・・。人知ではとうていはかり知れないものです。しかし、それは事実、しかも喜ばしい現実です。

「世にはキリストのゆるしの愛を知り、本当に神様の子になりたいと望んでいながら、自分の性格が不完全で、生活にはあやまちが多いために、果たして自分の心が聖霊によって新たにされたかどうかと疑う人がいます。こうした場合に決して失望、落胆してはなりません。私たちは何度となく、欠点やあやまちを悔いてイエス様の足もとに泣き伏すことでしょう。けれども、そのために失望してはなりません。たとえ敵に敗れても、神様に捨てられ、拒まれたのではありません。キリストは神様の右に座し、わたしたちのために執り成しておられます。」

最後に今ふと、かなり久しぶりに思い出しました。フォントを思いっきり最小 min にしたいのですが、それこそ山の神、川の神・・・至るところのお地蔵さんを拝んで歩いていて、キリスト教に反対していたどっかの~すら・・・こんなところで証を書いているのです。

超不思議なものです???・・・
「何、言ってんの、まだまだ!」と愛の言葉が耳に響いてきます。

新しく造りかえられるとは、「新しく造り変えられ続けること」らしいです。終わりの時、「残りの教会は自分たちの罪深さに完全に気づいている」そうです。イエス様と共に歩むならば、人間もまた教会も・・・新しく造り変えられ続けるでしょう。

2009年11月10日火曜日

事情

「イエス様は、ひとりひとりの魂の事情をご存知である。
自分は罪深い者だ、とても罪深い者だとあなたは言うだろう。
あるいはそうかもしれない。しかしあなたが悪ければ悪いほど、 イエス様が必要なのである。
主は泣いて悔い改める者を決して退けられない・・・。
主は、ふるえている魂に勇気を出しなさいと命じられる。
主は、赦しと回復とを求めてみもとに来る全ての者を快く赦して下さる。」

 この言葉は、礼拝の週報に載っていたものです。

「久しぶりだな・・・」と思わず、思いました。当時、この文章を読んでいたとき、それは「必死」でした。それは、生きるか、死ぬかと真剣でした。それから・・・、これらの言葉は断片的にもいつでも思い出して助けていただいた言葉です。
そして、今は「これらの言葉は真実だった」と証できるかな・・・と思います。

近頃、かつて励まされた数々の聖句、証を思い出す機会がとっても多くなりました。「この約束も、この約束も本当だった」と思い返しています。
僕が、クリスチャンの方にお祈りしていただき、何年も水がたまっていた膝をいやしていただいたことがあります。膝が軽くなった時思い出した言葉は、「いやされたと信じて歩きなさい、そうすれば実現する」。
また、エリヤさんが何年も雨が降らなかった時、7回お祈りされます。そして、僕が小さな雲を見つけると、すぐさま「雨にとどめられないように車を整えて下れ」と王様に言うように命じます。エリヤさんは、小さな雲の中にあふれるばかりの雨を見出した。「これだ」と思いました。すると、痛みのため自転車では上れなかった坂を上れるようになり、正座ができるようになりました。

さて、癒されて1週間後、クリスチャンの看護学生が、とっても優しい声でこう聞きました。「足、大丈夫?」

この言葉は、心に深く染み入りました。

「いやし」の証が出ると、よく言われるのが「本物だろうか」「偽者じゃない」という論争です。僕の中でも反射的に、そういう言葉に身構えている姿がありました。
その時、「神様だもの、癒されて当然」ではなく、「足、大丈夫?」の言葉が心に入ったのです。
本物か、偽者か、そんな醜い裁く心ではなく、「心からその人を思う思いやり」が心を溶かしたのでした。

遠くの国に医療の奉仕に行く方々がいます。「いろいろ問題ある。こんな不正もある。そんなことしなくても、お金だせばいいじゃない」という話も聞きます。

しかし、今は「それで治った方々の幸せを喜ぶ」ようになりました。証を書いていて時々、読み返して「超恥ずかしい」文章にも会います。しかしその時ですら、暖かく「心で受け止めてくださった」方々がいらっしゃいます。
罪と必死で戦っていた姿、それは決して「きれいな」姿ではありませんでした。しかし、その戦っている姿を「いやしめもせず」「馬鹿にすることもなく」じっと、涙しながら見守ってくださった姿、そのおかげで今の人生があります。
心の罪との戦い、それは「聖なる戦い」とも呼ばれています。ビルに突っ込むことが聖なる戦いではありません。心の中の戦いです。
「彼らの聖なる戦いを記録天使に書いていただこう。彼らの涙を綴ってもらおう」。

「この醜い心」と「難行苦行によって」ではなく、「悔い改めの心によって戦う」ことが「聖なる戦い」です。
信仰の戦いの中にある「クリスチャン戦士」の方々に出会うとき、「あなたの姿が一番きれいだ」と言える心の目をもっていたいと思っています。

滅びるのは難しい

「信仰による義とは、実際的な行為であって、単なる理論ではありません。それは、実際には大変な悪人なのに天国に入れてしまうというのではなく、そうする必要がないようにつくり変えるのです」 「信仰によって義とされる、とは律法を行う者につくり変える、ということです」

ある日、僕が教会員の人に話していました。「僕なんか、死んだほうがいい」と。教会の人は一生懸命説得してくださっていました。

聖書には、「あなたがたは神様の宮であって、神様の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神様の宮を破壊するなら、神様はその人を滅ぼすであろう」と書いてありました。
さて、その週の安息日、そんなことはつゆとして知らない、一年に一度いらっしゃる牧師さんが礼拝説教でした。

礼拝説教の内容はなんと「自殺してはいけない」でした。「ああ、この教会は神様がご支配されておられる」と痛感しました。

その話の中で、ある少女が学校でいじめられていました。もう、いよいよ自殺しようとしたその日、何気なく最後に学校の机の中に手を入れると、一枚の手紙が入っていました。
そこにはこう書いてありました。「自分だけだ、と思わないでね・・・」。この一枚の手紙により彼女は助けられました。

主は一人の罪人を救うため、礼拝説教まで導かれるのだと思いました。そして、その後も無数のお恵みにより「生きる喜び、希望ある人間」へつくり変えてくださいます。これは、ただ陰の祈るクリスチャンの方々がいらっしゃったおかげです。
もちろん、つくり変えられるのは「自殺」ばかりではありません。私たちの罪は髪の毛よりも多いのですから・・・。

しかし、裏切った時にも、逃げたときにも、主はそこで待っておられました。「主の恵みはあなたを追う」とあります。

「カラスの子が神様に向かって呼ばわり、食物がなくて、さまようとき、カラスにえさを与える者はだれか」。この御方は食事をも備えたもうお方です。(迫害や病で食事も食べられず苦しんでいらっしゃる方いらしたら、ごめんなさい。)
神様は人を救われるために追われます。そこから、「滅びる」ことは本当に難しいです。

1日振り返っただけでも、主のお恵みは溢れるばかりに見つかります。
スズメたちは、いつも主を賛美しています。明日は枯れて、火に投げ入れられる草木も同様です。しかし、罪に固まるとそれすらも見えなくなってしまいます。
祝福ってどういう心にそそがれるのでしょうか。「ああ、自分は罪ばかりだ、罪の奴隷だ、絶望だ!」という心?しかし、主は「自分は、豊かになった、何の不自由も無い」と思っていたら素通りされていかれるように思います。

「罪人であるわたしをお許しください」と涙ながらに叫ぶとき、「イエス様助けて!わたしたちは死にそうです」と叫ぶとき、主イエス様の祝福が一番近くに感じられるようです。

悔い改めとはギリシャ語で「メタノエオー」。考えが変わるという意味だそうです。すなわち、魂がイエス様に向きなおることだそうです。

2009年11月8日日曜日

種をまく人

僕は牧師でも、宣教師でもないですので、聖書の意味を解き明かすなんて無理です。しかし、それでも聖書は本当に素晴らしい恵みいっぱいの本です。
聖書の中にある種まきのたとえ、4つの畑、道端、石地、茨の地、良い畑・・・。僕なら、絶対に良い畑だけに蒔きます。道端に落ちたら拾って良い畑へ・・・。ところが、種を蒔かれるイエス様は、4つのすべてにお播きになられます。そんなこと無駄じゃない、結果ももうわかっているのに。初めから終わりまで見通される御方が誰よりもご存知なのに?

いろいろな人々と証をしていると、びっくりすることがあります。ビジネス界でバリバリに働いていらっしゃる方、「やくざ」まがいの会社?の方、いわゆるキャリアウーマン、朝から晩まで夜遅く夜中まで働いていらっしゃる方々、

だんだん話が進むと、意外なくらい聖書を知っています。

小さいころ、幼稚園が、大学が、ミッション系だった、ご家族がほとんどクリスチャンだった。特定の宗教は持っていないけれど、人間を超えた存在を信じている方々、かなりいらっしゃいます。

種を蒔かれるお方は、人間とは到底およびがつかないくらい大きな愛をもって、一人、一人の人生に種を蒔いておられるのがわかってきました。

誰が蒔いたのかな?以前は超自然的な方法で?と思っていました。
ある時、「誰かが」蒔いたんだ!と当然の事に気付きました。誰かが祈り、誰かが勇気をもって、誰かが時間を割き、伝えたのです。

引用文ですが・・・
このため、ワルデンセスの宣教師は、関心を持った人々に福音の尊い真理を熱心に伝えた。彼らは聖書の写本の一部を用心深く取り出した。刑罰の執行官のようにいかめしく構え、報復のみを行う神しか知らず、罪悪感に襲われ、いつも恐れおののいている人々に希望を与えることは、彼らにとって何よりの喜びであった。彼らは感動に唇をふるわせ、目に涙を浮かべながら、そして時折ひざまずいて、罪人の希望を告げる尊い神様の約束を彼らの同胞に読んで聞かせた。こうして真理の光は暗黒の中にある無数の人々の心を照らし、覆いかぶさるような暗雲を取り除き、ついには、その光にことごとく癒す力がある義の太陽が彼らの心にさし込むようになった。しばしば聖書のある部分は、くり返し何度も何度も読むことを相手から望まれた。あたかもそれが聞き違いではないかと確かめているようであった。特に次のような聖句は何度もくり返して読むように要求された。「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」「そして、ちょうどモーセが荒野でへびをあげたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」

道端の地は、人の足で、あるいは車輪で押し固められた心とも言われます。人は、打たれているうちに、心を閉じてしまったり、防衛本能で固めてしまっていることがとっても多いようです。よく「こわ~い看護婦さん」と言われますが、一応?彼女たちも「白衣の天使」を目指した?方々、ところが患者さんに怒鳴られたり、厳しい現実に出会い、「鬼になっている?」ケースも多いようです。そして、内心かなり葛藤している・・・。
お金のことしか興味がない?と思える「茨の地」(勝手にきめこんでいるのでしょう)方々でさえ、「一度も、誰にも心を開いたことがないのですが」と言いながら、心の中にある神様について話してくださったり・・・。超一流のメーカー営業マンでさえ、「親にも、家族にいえない心の闇」を持っていたり・・・。少なくとも、イエス様が「良い地だけ」に種をまかれていたら・・・、「おちこぼれ」はこの世にいなかったでしょう。
こんな言葉が大好きです。

「おそらく、あなたが顧みないその時こそ、彼らがあなたの同情を最も必要としている時である」

悪魔も馬鹿じゃないです。必要な魂がいるときには、周りの人がそれに気がつかないように働きます。

心の癒し主

さて僕も、医療のはしっこにちょっぴりひっかかっている者ですから、親しい人でタバコをのんでいる人がいると、「タバコは良くないよ」と言います。しかし、今までひょっとして一人もも?止めてくれた人がいません。まさに、「おちこぼれ」です。

僕の恩師は、クリスチャンではありませんでしたが、「おちこぼれ」よりはるかに優しい先生でした。授業中、ポケットにタバコを持っている学生がいると、ポケットのタバコを取って「なんだ、これ!」と叱る方でした。隣の棟でタバコを吸っている学生を見ると、すぐに飛んで行って叱っていました。道端で歩いている学生がタバコを持っているとその場所でも叱る先生でした。

先生は外科医で、長い間肺がんの患者さんと一緒に癌と戦ってきた医師でした。「タバコから生じる肺がんは小細胞癌と言って、とっても悪性なんだよ」と力をこめて講義されていた姿は忘れられません。皆から恐れられていましたが、優しい先生です。
しかし、学生は結構、隠れて吸っていました。

教会の先を行くクリスチャンの方はタバコを吸っている若者には、「吸え、吸え、どうせ吸うなら、一本、二本じゃなくて、一度に十本ぐらい、耳にも、鼻にも入れて吸え!」とおっしゃります。そして、「でも、肺がんになるよ」と。

教会みんなで旅行をするときも、晩酌をする未信者の方が一緒にいらっしゃると食事の時、お酒をつけてあげます。すると、「いや、みなさん飲まれないので」と快く飲まれません。

脳腫瘍でヘビースモーカーのある若者が教会に来ました。クリスチャンの方は、その若者のため、毎日会席料理のような食事を毎日作られました。そして、仕事を整え、服を買ってあげ、靴をそろえ、生活を整えられました。そして、仕事が嫌いな彼のため「これほど祈ったことがない」とおっしゃるほど祈られました。すると、脳腫瘍は治り、タバコも「禁断症状なし」に自然と「気がついたら」やめていました。



あるところに、一人の「飲んだくれ」がいました。ある時、滅茶苦茶酔っ払って、その勢いで教会の講演会に飛び込みました。そして講演会中、真ん中のストーブのそばで気持ちよく寝てしまいました。講演会が終わり、みなさんが帰られました。牧師さんが、その男に近づくと、その男が言いました。「さあ、酔いもさめたし、帰るかな」。その時、男が言いました。「俺は、どうしても酒がやめられないんだよ」。牧師さんは「お祈りしましょう」といい、二人でお祈りしました。お祈りが終わると、男がお祈りの仕方を教えて欲しいと言いました。牧師さんが教えると覚えられなかったので、「もっと短く」と言いました。牧師さんが短くすると、「もっと短く」と言いました。

とうとう、ヨハネによる福音書3章16節、「神様はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは彼を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。アーメン」になってしまいました。

男が家に帰りました。いつもなら玄関をダーン!蹴っ飛ばして入ってくるのが、この夜はそろそろ・・・。奥さんがびっくりして、「あなたどうしたの?」。

「俺は変わった、今日から変わった」。

奥さんはますます心配して、「お父さん、確かに変わったよ、どうしたの?今日は早く休みんだら?」。
「その前にお祈りだ」。

家族はもうびっくりでした。
そこで男は家族と一緒にひざまづきお祈りしました。「ヨハネ3章の16節。アーメン」

次の日、仕事の帰り道 いつもの酒場の道に彼は行きませんでした。「おーいオールドジョン!道間違えたか?」。仲間が酒場から大声で呼びました。男は答えます。「おれは、オールドじゃないよ。ニュージョンだ」。
彼は教会に行きクリスチャンになりました。

イエス様は、人の心も・・・癒してくださいます

2009年11月3日火曜日

支え人

今まで書いてきましたが、僕自身、あと癌で二ヶ月といわれたクリスチャン女性の方にイエス様に導いていただいていますので、女性たちの影響力の大きさは非常に大きいです。

彼女たちの、純潔、清さ、あたたかさ、気力、洞察力、忍耐、思いやりの深さ、また、箴言の最後の章に書いている姿を地で生きていらっしゃる方・・・。

自分たちにはいつも厳しく、「怠りの糧を食べることをしない」どころか、そんな姿を一度として見た事がないほど、働かれます。作られる食事、デザートはいつも工夫と愛情があります。工夫、時間のかけ方、材料の選び方、努力、食べる人への思いやり、季節感、手を抜かない・・・食べ物を見ればすぐにわかります。

「信仰は料理に現れるのよ」「喜ぶ顔がみたい、という心で作るのよ」ととっても簡単におっしゃいます。作られた料理に、現れているので「そうだな・・・」と納得せざるを得ないです。ニンジンを不器用にトン、トトンと切っている僕は、言葉もでない状況です。しかも、それでいて、「ごめんね」との心を決して忘れられません。

家庭、教会をいつも明るい雰囲気に変えてしまいます。罪を罪と呼ばれますが、また、思いやりのないことをとっても嫌われますので、そばにいるだけで、「これは、まずいな・・・」と自らの思いやりのなさにすぐ気がつきます。

心の謙遜さは、全身から表れています。お会いしただけで、「自分は傲慢だ」とすぐわかります。1日中、それこそ謙遜に徹してきて、夜、お会いすると、「なんて自分は傲慢なんだ」とわかります。

服装はいつもセンスがとっても良く、当然のことですが、清潔です。

快活で、ユーモアがあり、それでいて、人の痛みがよくわかっている。また、奥が深い・・・。また、陰で祈っていてくれていることがわかる・・・。

「女は支え人として造られたのよ」「だから女が支えないと男の人は倒れるのよ」「男の人は、車輪、女は心棒なのよ」「まず女が変わらなければだめなのよ」「男の人が飲んだくれで、乱れていても、女は子供のために身を清く保たなければならないのよ」

単に傍から聞くこの言葉の印象と、自分だったらどうだろう、すなわち自分が女性だったらこう話せるかな・・・と思うことでは、とんでもない違いがあります。

ご自分にも厳しいですが、また、「愛はすばやく発見する」と本に書いてありますが、その洞察力は本当にすごいもので、まるで生活の隅々まで見ているかのよう。また心まで見通しているかのようです。

「彼女たちの目に恥じ入ることのないように」と思うだけで相当意識が変わります。
そして、その純潔な、また清らかな人生、雰囲気、そしてそれがごく自然・・・がどれほど人生の力になっているか測り知れないほどです。

僕にとって、クリスチャン女性の評価は非常に高いです。多分、今まであった方々の素晴らしい影響力により、クリスチャンの女性って、みなそうなんだという方向で人を見ているだろうなあ、と思っています。



さて、しかし、「そうか、女性の方々がんばってください」なんてまったく思いません。みな人形ではなく、感情もあり、躓いたり、疲れたり、失望したり、悲しんだり、怒ったりする、人間ですから。「試練、耐えがたい悲しみ、抵抗しがたい誘惑を持っていない人は一人もいない」とあるとおりです。彼女たちのイエス様への献身により、数々の御業が現われるのでしょう。

クリスチャンは「善においては互いに競争者」ですので、心ひそかに「負けてたまるか・・・」と思いつつ・・・。

たとえが適切でなかったらごめんなさい。おとぎ話の中に、「孫悟空が釈迦から逃げようと思って、金と雲にのって世界のはしっこまでずっと逃げていきます。もう、追って来れないだろうと思います。しかし、それは気づいたら釈迦の手の中だった」という話がありますが。
結構「あれ?いろいろやっているようだけど、彼女たちの細かい配慮や陰の働き、忍耐、お祈りの中で、泳いでいるだけじゃないか」と気づいたりします。

それどころか、人生の真っ只中にあって、危機の時、精神力が限界まで働いている時、主イエス様は、主の僕の方々「支え人」を置いてくださり、「時にかなって」助けていただいています。

本人たちは、ほとんど無意識のことが多いように思えますので、最後の日にどれほど彼女たちを通して助けられたかを見て、イエス様の恵みを大きさにびっくりすることでしょう。