さて、信仰を育てていただいた教会から離れて、もう一年半、それでも何と、何と多くの不思議な出来事に恵まれたか、びっくりします。毎日、毎日の記録をつけるようにはしていますが、主のいつくしみの不思議な御業のない日は1日もないというとっても不思議なお恵みです。
離れて初めの頃は、何もかも初めてでした。知っている人誰もいない初めての職場、初めての住まい、初めてのお店、近所・・・。
時には、身体中、痛みが走り、夜眠れない状態の時がありました。もともとクリスチャンは他のために祈るのであって、自分のためには祈らないものだと思いますが、恥ずかしながら、お祈りすると、痛みがなくなり、その晩からずっと眠れるようになった経験をしました。
また、今までは食事や病気の時、本当に多くの教会の兄弟、姉妹方の暖かい保護と、薬、食事、などなど数え切れないほどの祝福をもって支えていただきましたが、今度は次の教会の兄弟、姉妹ばかりではなく、神様を知らない、あるいは信じていない方々からも、通常では考えられない方法で支えていただき、守られています。
困った時には、兄弟姉妹の信仰をお借りしなさいとまで勧められていますが、全然、「お借りできない」状況ですと、ただ主イエス様にすがるしか方法がなくなります。
しかし、主は驚くべき方法で毎日、毎日憐れみ深く、また安息日もお約束通り、守っていただき、仕事でも、生活でも導いてくださっています。振り返るとお祈りに応えて、数々の出来事が起こっていることに気付きはじめています。
「わたしたちの必要とするもの―物質的、霊的祝福―を日ごと求めるように教えることによって、神様はわたしたちの益のために1つの目的を達成しようとしておられます。神様は、わたしたちが神様の絶えざるご配慮に依存していることを認めさせようと望んでおられるのです。それは、わたしたちをご自身との交わりにいれようと望まれるからです。キリスト様とのこの交わり、すなわち、祈りと、みことばのこの上なく尊い真理を学ぶことを通じて、飢えた魂は養われ、渇く者はいのちの泉で潤されるのです。」
この言葉は、本当に真実です。この言葉通り、一言も違わずその通りです。
聖書の中には、「見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ。わたしはあなた方の時代に一つの事をする。それは、人がどんなに説明して聞かせても、あなたがたのとうてい信じないような事なのである」という事柄が書いてありますが、「信仰とは説明はできないが、体験によって知ることができる」ということもまた、真実であり、また事実だと、生活を通して実感させられます。
去年の夏は、僕にしては珍しく、風邪をひきませんでした。一度風邪を引くと2~3ヶ月くらいずっと続く、そんな毎年でした。しかし、今年は仕事上、絶対に休めませんでした。しかし今回は、僕としては不思議なくらい、守っていただきました。
ところが、最近おもいっきり風邪をひきました。先週月曜日夜、咳が止まらず、結構?大変でした。
連休明け、火曜日は替わりの人がいないのでどうしても出なければならないし、やむを得ずイエス様に必死でお祈りしました。
咳が止み、静かになりました。
そして先週ずっと出勤出来ました。
その中で、月曜日は職場でお医者さんの食べる夕食をいただきました。食欲が全然無くて何も食べたくなかったのですが、いただきました。
また他にも、牛乳とおいしい「どら焼」までいただきました。(^^) 夜は久しぶりに眠れました。
そして職場で火曜日はお昼をいただき、夕食もいただきました。火曜日は食欲もあり、おいしくいただきました。
イエス様に感謝です。
そしてまたその他にも、溢れるほどのパンの山とバナナ二本。牛乳、お菓子、お茶、ケーキまでいただきました。
神様がやさしく守って下っています。
さて、話はちがいますが、学生の頃、イスラム教の正典「コーラン」を読み、大学の講義を聞きました。天国では救われた人々がお酒を飲みながら、地獄に落ちて苦しんでいる人を見て、救われたことを喜んでいるそうです。
「お酒が飲めない?」からではないですが、僕にとっては、天国ではありませんでした。また、イスラム教の教えていることが真実だとしたら、僕は100%天国には入れないでしょう。
イエス様が、もしお祈りにお答えくださらなければ、今週は仕事に出られませんでした。もし、主が十字架にかからなければ、僕のような者は100%天国に救われないでしょう。
「彼は、あやまちや罪があまりに大きいので、主は私たちの祈りをかえりみてくださらず、私たちを祝福し、救ってはくださらないと思わせようとします。私たち自身のうちには、欠点以外何も見られず、神様にとって魅力あるものは何も見られません。サタンは、無駄だ、品性の欠陥を改めることはできないとわたしたちに告げます。私たちが神様のもとに来ようとする時、敵は祈ってもむだだ、あなたはあの悪事をしたではないか、あなたは神様に対して罪を犯し、自己の良心にそむいたではないかとささやくでしょう。しかし、わたしたちは、「御子イエス様の血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」と敵に告げることができます(ヨハネ第一・1-7)、私たちが罪を犯した、祈ることができないと感じる時こそ、まさに祈るべき時なのです。恥じ、誇りをいたく傷つけられているかもしれませんが、祈り、かつ信じなければなりません。「『キリスト・イエス様は罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人の頭なのである。・・・」
あの十字架があるからこそ、信じがたい力をもって立ち上がることができます。そして、また、主イエス様が「生きて欲しい」と願われるのであれば、「生きてみようかな」と思うのです。
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