最後の厳粛な働きには、えらい人たちはほとんどたずさわっていない。彼らは自己満足し、神様によりたのまないので、神様は彼らをお用いになることができない。主は忠実なしもべたちを持っておられるが彼らはふるわれて試みられる時に人々の目の前にあらわれる。バアルにひざをかがめなかった尊い人々がいまはかくされている。彼らはあなたがたの上に集中された輝きとなって輝いている光を持っていなかった。だが粗野な、魅力のない外面の下に真のクリスチャン品性の輝きが、あらわされることがある。昼間は、天を見ても星は見えない。星は大空に固着してそこにあるのだが、目には見わけられない。夜になると、その真の光輝がみられるのである。
各々の魂に試みがやってくる時はそんなに遠くない・・・そのとき、教会の中では金とくずとが分けられる。真の敬虔とそのまねやめっきとがはっきり区別される。われわれがその光輝を称賛した多くの星がそのときやみに消え去る。豊かに穀物の床しか見えなかったところからさえ、もみがらが雲のように風にのってはこび去られる。聖所の飾りだけを身に着けて、キリストの義を着ていない者はみな自分の裸の恥をさらしながら現れる」
こういう事は、確かにあることです・・この文書をみて、自分が、えらい、星だ、金だ、ふるわれていない、と思っているときは、心配に?・・・ふるわれたらどうしよう・・・しかし、心の貧しさを感じているときは、悩んでいるときは、励ましになります。同じ文章見ても・・・違うものですね。
「将来ふるわれたらどうしよう」
「信仰は今、信仰は今よ」「今日、今日でいきるのよ」「明日のことを思いわずらうなでしょ。」
太平洋戦争のとき、天皇を神と認めず、イエス様を神様と信じたために投獄された牧師さん「わたしたちは、指一本怪我しただけで、痛いものですよ。しかし殉教者の徳は彼らがその徳が必要となるときまで与えられなかった。その徳が必要となった時、それが与えられたのですよ。」
「今日が最後の日であっても、わたしはりんごの木を植える」
今日という日、いえいえ、今という時にイエス様と一緒に歩むことが、一番です。
もしこれらの言葉がなかったら、何十年も、いえ一生不安の中で過ごしたかも・・生きた信仰者の方々の証は尊い宝物です。
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