「病人のために祈るときは『わたしたちはどう祈ったらよいかわからない』ことを覚えなければならない。わたしたちが望む祝福が最上のものか否かはわからない。したがって、わたしたちの祈りには次のような気持ちがなければならない。「主よ、あなたは魂のすべての秘密を知り、これらの人々をよく知っておられます。この人々の仲保者であるイエス様は彼らのためにその生命をおささげになりました。彼らに対するイエス様の愛はわたしたちが彼らを愛するよりもずっと大きいものです。もし主のみ栄えとなり、病人の益となるならば、健康が回復するよう、イエス様のみ名によってお願い申し上げます。もし回復することがあなた様のみ旨でなければ、苦しいときにあなたの恵みが彼らを慰め、そば近くにあなた様がおられまして、彼らをささえてくださるようにお願いも申しあげます。」
「神様は初めから終わりまですべてを知り、あらゆる人の心を熟知しておられる。神様は魂の中にあるいっさいの秘密を読み、祈ってもらっている人が生き長らえるとき、その上にきたる試練に耐えられるか否かをご存知である。またその人の生涯は彼ら自身にとっても、社会にとっても祝福となるか、それとものろいとなるかを知っておられる。」わたしたちが熱心に祈りをささげるとき、「しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください。」と言わなければならない理由の一つがここにある。神様の知恵と、御旨にすべてをゆだねるというこの言葉を、イエス様はゲッセマネの園で、「わが父よ、もしできることでしたら、どうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と懇願されたとき申されたのであった。神様の子、イエス様にこの言葉がふさわしいものであったとすれば、有限であり、まちがいを犯す人間の口にはなおさらのことである。」
僕入院した時の事です。後でお聞きしたら、クリスチャンの方々はそれこそ熱心に祈ってくださいました。
しかし、その時は入社したて・・別のことを考えていました。
その時期、会社はちょうど決算期・・残業時間だけで、月200時間をはるかに超えます。
入社したばかりで僕も当然安息日も出るように・・・と言われます。
そのとき健診でひっかかり、「入院」・・・心ひそかに思いました。「お導きかも・・・」
結局、入院は会社指定の大学病院のベッドが空かないといる理由で、
2ヶ月に及びました。しかも安息日はいつも外出届けを出して出席させていただきました。
教会から病院に帰ってくると、6人部屋の病室の患者さんはみなカーテンを開けて待っていてくれ待っていてくれました。「どうだった?どうだった」家政婦さん、看護婦さん交えての病室証会でした。
しかし、最後の安息日の前の日、医師が来ました。「いつもなら、土曜日は検査をいれないのですが、明日はわたしが間違って検査を入れてしまいました。会社では、この検査を受けたら会社に戻してくれる、もし断ったら会社は首だといっています、どうされますか?」
「もし心の健康と、体の健康どちらかを選ばなければならないのでしたら、わたしは心の健康を選びます。」と安息日を選ぶ力をイエス様が与えられました。「そうですか」と医師は帰っていきました。
会社のちょうど決算処理が終わる「その日」退院をしました。
そして次の日出社すると・・・その場で正規職員にしてくださったのです。
「一生懸命祈っても、一向に退院しない」とおっしゃっていた教会の方に僕が「じつは・・・」と話すと納得・・・
聞かれない・・・と一見、思える祈りもまた・・・意味があるようです
2009年10月31日土曜日
聖書を他の人々に開くのはたのしい仕事である
「暗黒にいる人に聖書を開きなさい。そうすればあなたは、真理のために働くことにあきたり、興味を失ったといって不平をもらすことはないであろう。あなたの心は魂を切望することを悟るであろう。そして信仰のさまざまなあかしの中にいるよろこびが心に満ち、「物惜しみしない者は富み、人を潤す者は自分も潤される」
聖書の御言葉・・それは文字通り神様の御言葉であり、御言葉の中に、人を再創造する素晴らしい御力が宿っています。ですので「おちこぼれ」には聖なる御言葉の前に、ただ畏れおののく者・・・牧師さんや、伝道者さんにお任せしたい事柄です。
ああ、主よ、お許しください、地に属するもの・・塵に等しい者です
主の御言葉はあまりに聖い・・・そして永遠に続くものです。
と思いますが・・・
「主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がおこないを離れて生きることを好んでいるではないか」
「あなたがたがわたしにおこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」
世の中は・・悪人が死ぬと大喜び・・・やっと空気がきれいになった・・・
「ざまあ、みろ!」・・・
ところが天にそうではない方がおられます。
「わたしは何人の死をも喜ばない」
天国ではもはや病なく、痛みなく、涙がない・・・
しかし、ある方の証・・・
「人類は決して滅んではならないのです。なぜなら、イエス様の傷は・・・
永遠にわたって失われた者のために痛むからです。」
人生には、自分の存在が重荷に思うときもあります。
しかし、天ではそう思っておられない御方がいらっしゃるようです。
「しかもイエス様がしのばれたすべてのこと―その頭と手と足から流れた血のしたたり、その肉体を苦しめた苦痛、天父のみ顔がかくされたときにその魂を満たした言いようのない苦悩―それらは人類の子らひとりびとりに向かって、神様のみ子がこの不義の重荷を負うのを承諾されるのはあなたのためであり、死の支配をたちきって、パラダイスの門を開かれるのはあなたのためであると訴えている。荒れ狂う波をしずめて、泡立つ大波の上をあるかれたおかた、悪鬼をふるえあがらせ、病気を追い出されたおかた、めくらの目を開き、死人をいのちによみがえらせたおかた―が、いけにえとしてご自分を十字架上にささげられる。しかもそれはあなたを愛されるからである。罪を負うおかたであるイエス様が、神様の正義の怒りをしのび、あなたのために罪そのものとなられる。」
罪、仕事がない、病気などなど暗いトンネルにいる時は、ずっとこのまま続くのか・・と思っていました。
しかし・・・信じられないことかもしれませんが・・・
もしかしたら、状況は変わらないとしても、心を変えて救ってくださいます。
「夜明けは、必ず来るのである」
聖書の御言葉・・それは文字通り神様の御言葉であり、御言葉の中に、人を再創造する素晴らしい御力が宿っています。ですので「おちこぼれ」には聖なる御言葉の前に、ただ畏れおののく者・・・牧師さんや、伝道者さんにお任せしたい事柄です。
ああ、主よ、お許しください、地に属するもの・・塵に等しい者です
主の御言葉はあまりに聖い・・・そして永遠に続くものです。
と思いますが・・・
「主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がおこないを離れて生きることを好んでいるではないか」
「あなたがたがわたしにおこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」
世の中は・・悪人が死ぬと大喜び・・・やっと空気がきれいになった・・・
「ざまあ、みろ!」・・・
ところが天にそうではない方がおられます。
「わたしは何人の死をも喜ばない」
天国ではもはや病なく、痛みなく、涙がない・・・
しかし、ある方の証・・・
「人類は決して滅んではならないのです。なぜなら、イエス様の傷は・・・
永遠にわたって失われた者のために痛むからです。」
人生には、自分の存在が重荷に思うときもあります。
しかし、天ではそう思っておられない御方がいらっしゃるようです。
「しかもイエス様がしのばれたすべてのこと―その頭と手と足から流れた血のしたたり、その肉体を苦しめた苦痛、天父のみ顔がかくされたときにその魂を満たした言いようのない苦悩―それらは人類の子らひとりびとりに向かって、神様のみ子がこの不義の重荷を負うのを承諾されるのはあなたのためであり、死の支配をたちきって、パラダイスの門を開かれるのはあなたのためであると訴えている。荒れ狂う波をしずめて、泡立つ大波の上をあるかれたおかた、悪鬼をふるえあがらせ、病気を追い出されたおかた、めくらの目を開き、死人をいのちによみがえらせたおかた―が、いけにえとしてご自分を十字架上にささげられる。しかもそれはあなたを愛されるからである。罪を負うおかたであるイエス様が、神様の正義の怒りをしのび、あなたのために罪そのものとなられる。」
罪、仕事がない、病気などなど暗いトンネルにいる時は、ずっとこのまま続くのか・・と思っていました。
しかし・・・信じられないことかもしれませんが・・・
もしかしたら、状況は変わらないとしても、心を変えて救ってくださいます。
「夜明けは、必ず来るのである」
寄付
さて、最近、1億円を福祉のためご寄付をされた話がテレビで取り上げられていました。それを見ていて、ふと・・・。
諸教会では、最近でも個人で数十億円(60何億円?)、御業のために捧げた方、また大きな会社や世界的な会社を丸ごと教会に捧げた方、毎月、収入を全部?捧げてしまう人々・・・。土地を捧げて、そこに教会の学校が建てられたり、教会が立ったり、またこの地上で持っている物はほとんど福音のため「借金のかた」にはいっている方・・・学生の学費を補助される方、敷地を寄付されたり、などなど、すごいものです。
しかも、すごいことに絶対にニュースにならない、証にすら滅多に聞く事がない・・・
「多くの人を奮起させた」とあるように励ましになるから、いいんじゃないかな?と思っても、話題にすらならない・・・。
それこそ「右手でしていることを左手に知らせるな」。
しかし、イエス様の生活費すべてを捧げた方の話をはなされていらっしゃいますし・・・
少し書いてしまいます。
主イエス様の御業はすごいです。
「わたしの宮に食物のあるように、10分の1全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。わたしは食い滅ぼす者を、あなたがたのためにおさえて、あなたがたの地の産物を、滅ぼさないようにしよう。またあなたがたのぶどうの木が、その熟する前に、その実を畑におとすことのないようにしようと、万軍の主は言われる。」
10分の1献金の証・・・
九州で台風が来ました。ほとんどの農家のみかんが落ちてしまったのですが、教会員のみかん畑のみかんだけが落ちなかったそうです。と
大干ばつがきた時、教会とその学校の農園だけが緑があり、新聞で取り上げられた話・・・。
同じく干ばつが起こった時、学校でお祈りしたら、天気予報では快晴なのに雨がその地方全体で降った話。一人のクリスチャンがお祈りすると雨がざーっと降った話、などなど。
エリヤさんの時代に起こったことは、今もなお起こり続けています。
しかし、それに加えて、人の心に働かれるお力もまた本当に素晴らしいものです。
一人のクリスチャンの書いた、知育、徳育、体育の本、「教育」。たったこの一冊を読んで、膨大な土地を寄付され、そこに教会とキリスト教の学校も立ったことがあります。他にも、まだまだ・・・。
世の中の仕事、生活、娯楽、犯罪、偽りの宗教などなどいっぱいある中、もう世の中に望みなんて無いんじゃないか、と思えるような時でさえ・・・、イエス様の証に心を動かされて・・・、教会やキリスト教の学校や、病院に、そして人々の幸せのため、協力しようと喜んで犠牲を払われるその様子を見てきました。それは本当に胸に迫るものがあります。
以前は、教会の醜聞?、悪口、また人の犯罪の話など、そのことばかり聞いていまいました。
自分の悪と周りの悪で、絶望。ところが・・・。
「自己のことを考えていると、心は力といのちの源であるキリストから離れていきます。そして、悪魔は、人の心を救い主からそらそうと絶えず努力して、キリストとの一致の交わりを妨げようとするのです。世の快楽、生活上の心配事、悩み、悲しみ、他人の欠点、または、自分の欠点や不完全さ、こうしたものの全部、またはそのどれかに私たちの心をひこうと、悪魔は必死になっています。」
はっと気付き、方向転換、あの人、この人ではなく、敵の存在が見えてきます。こんな事に惑わされて、福音の手を弱めていたのか・・・。
「もし、悪魔のささやきに耳を傾けるならば、心は不信と反抗的な疑問で満たされることでしょう。また、自分の感情を口に出し、疑いの言葉を語るならば、それは自分に返ってくるばかりでなく、種のように他人の生涯にまかれて芽を出し、実を結び、あなたの言葉の影響を取り消すことはできなくなってしまいます。あなた自身は一時の誘惑に打ち勝ち、悪魔の罠から逃れることができるかもしれませんが、その言葉に感化された人々は、その不信仰から逃れることができないかもしれません。ですから、霊的な力といのちを与える事柄だけを話すということは本当に大切なことです。」
主イエス様のいつくしみがいっぱいに見えてきます。また思いをはるかに超えて、多くの人々が、聖書の内容を良く知っていることも・・・。科学者、農家、営業さん、病院で働いている人々・・・。
「地は主のいつくしみで満ちている」
こんな話したら、古くからの信者さんから「なあんだ、今頃気付いたの?それ基本だよ」なんて言われそう。
人々が眠っている間に、救い主がお生まれになられる話。
神様の宮で、サドカイ人とパリサイ人が激論を戦わせている間に、貧しい羊飼いたちに、東方の博士達に「良きおとずれ」が伝えられる話・・・とっても好きな話です。
人々が眠っている時も、誰も知られないうちに、世界各地でそれこそニュースになるような、感動で心が震えるような証が・・・、今もなお次々と起こり続けています。
最後に、イエス様はこうおっしゃっておられるようです。
わが民よ、聞け、わたしは言う。
イスラエルよ、わたしはあなたにむかって
あかしをなす。
わたしは神、あなたの神である。
わたしがあなたを責めるのは、
あなたのいけにえのゆえではない。
あなたの燔祭はいつもわたしの前にある。
わたしはあなたの家から雄牛を取らない。
またあなたのおりから雄やぎを取らない。
林のすべての獣はわたしのもの、
丘の上の千々の家畜もわたしのものである。
わたしは空の鳥をことごとく知っている。
野に動くすべてのものはわたしのものである。
たといわたしは飢えても、あなたに告げない、
世界とその中に満ちるものとは
わたしのものだからである。
わたしは雄牛の肉を食べ、
雄やぎの血を飲むだろうか。
感謝のいけにえを神にささげよ。
あなたの誓いをいと高き者に果たせ。
悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、
あなたはわたしをあがめるであろう。
諸教会では、最近でも個人で数十億円(60何億円?)、御業のために捧げた方、また大きな会社や世界的な会社を丸ごと教会に捧げた方、毎月、収入を全部?捧げてしまう人々・・・。土地を捧げて、そこに教会の学校が建てられたり、教会が立ったり、またこの地上で持っている物はほとんど福音のため「借金のかた」にはいっている方・・・学生の学費を補助される方、敷地を寄付されたり、などなど、すごいものです。
しかも、すごいことに絶対にニュースにならない、証にすら滅多に聞く事がない・・・
「多くの人を奮起させた」とあるように励ましになるから、いいんじゃないかな?と思っても、話題にすらならない・・・。
それこそ「右手でしていることを左手に知らせるな」。
しかし、イエス様の生活費すべてを捧げた方の話をはなされていらっしゃいますし・・・
少し書いてしまいます。
主イエス様の御業はすごいです。
「わたしの宮に食物のあるように、10分の1全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。わたしは食い滅ぼす者を、あなたがたのためにおさえて、あなたがたの地の産物を、滅ぼさないようにしよう。またあなたがたのぶどうの木が、その熟する前に、その実を畑におとすことのないようにしようと、万軍の主は言われる。」
10分の1献金の証・・・
九州で台風が来ました。ほとんどの農家のみかんが落ちてしまったのですが、教会員のみかん畑のみかんだけが落ちなかったそうです。と
大干ばつがきた時、教会とその学校の農園だけが緑があり、新聞で取り上げられた話・・・。
同じく干ばつが起こった時、学校でお祈りしたら、天気予報では快晴なのに雨がその地方全体で降った話。一人のクリスチャンがお祈りすると雨がざーっと降った話、などなど。
エリヤさんの時代に起こったことは、今もなお起こり続けています。
しかし、それに加えて、人の心に働かれるお力もまた本当に素晴らしいものです。
一人のクリスチャンの書いた、知育、徳育、体育の本、「教育」。たったこの一冊を読んで、膨大な土地を寄付され、そこに教会とキリスト教の学校も立ったことがあります。他にも、まだまだ・・・。
世の中の仕事、生活、娯楽、犯罪、偽りの宗教などなどいっぱいある中、もう世の中に望みなんて無いんじゃないか、と思えるような時でさえ・・・、イエス様の証に心を動かされて・・・、教会やキリスト教の学校や、病院に、そして人々の幸せのため、協力しようと喜んで犠牲を払われるその様子を見てきました。それは本当に胸に迫るものがあります。
以前は、教会の醜聞?、悪口、また人の犯罪の話など、そのことばかり聞いていまいました。
自分の悪と周りの悪で、絶望。ところが・・・。
「自己のことを考えていると、心は力といのちの源であるキリストから離れていきます。そして、悪魔は、人の心を救い主からそらそうと絶えず努力して、キリストとの一致の交わりを妨げようとするのです。世の快楽、生活上の心配事、悩み、悲しみ、他人の欠点、または、自分の欠点や不完全さ、こうしたものの全部、またはそのどれかに私たちの心をひこうと、悪魔は必死になっています。」
はっと気付き、方向転換、あの人、この人ではなく、敵の存在が見えてきます。こんな事に惑わされて、福音の手を弱めていたのか・・・。
「もし、悪魔のささやきに耳を傾けるならば、心は不信と反抗的な疑問で満たされることでしょう。また、自分の感情を口に出し、疑いの言葉を語るならば、それは自分に返ってくるばかりでなく、種のように他人の生涯にまかれて芽を出し、実を結び、あなたの言葉の影響を取り消すことはできなくなってしまいます。あなた自身は一時の誘惑に打ち勝ち、悪魔の罠から逃れることができるかもしれませんが、その言葉に感化された人々は、その不信仰から逃れることができないかもしれません。ですから、霊的な力といのちを与える事柄だけを話すということは本当に大切なことです。」
主イエス様のいつくしみがいっぱいに見えてきます。また思いをはるかに超えて、多くの人々が、聖書の内容を良く知っていることも・・・。科学者、農家、営業さん、病院で働いている人々・・・。
「地は主のいつくしみで満ちている」
こんな話したら、古くからの信者さんから「なあんだ、今頃気付いたの?それ基本だよ」なんて言われそう。
人々が眠っている間に、救い主がお生まれになられる話。
神様の宮で、サドカイ人とパリサイ人が激論を戦わせている間に、貧しい羊飼いたちに、東方の博士達に「良きおとずれ」が伝えられる話・・・とっても好きな話です。
人々が眠っている時も、誰も知られないうちに、世界各地でそれこそニュースになるような、感動で心が震えるような証が・・・、今もなお次々と起こり続けています。
最後に、イエス様はこうおっしゃっておられるようです。
わが民よ、聞け、わたしは言う。
イスラエルよ、わたしはあなたにむかって
あかしをなす。
わたしは神、あなたの神である。
わたしがあなたを責めるのは、
あなたのいけにえのゆえではない。
あなたの燔祭はいつもわたしの前にある。
わたしはあなたの家から雄牛を取らない。
またあなたのおりから雄やぎを取らない。
林のすべての獣はわたしのもの、
丘の上の千々の家畜もわたしのものである。
わたしは空の鳥をことごとく知っている。
野に動くすべてのものはわたしのものである。
たといわたしは飢えても、あなたに告げない、
世界とその中に満ちるものとは
わたしのものだからである。
わたしは雄牛の肉を食べ、
雄やぎの血を飲むだろうか。
感謝のいけにえを神にささげよ。
あなたの誓いをいと高き者に果たせ。
悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、
あなたはわたしをあがめるであろう。
クリスマス
クリスマス
さて、クリスマスが近づくと、僕のお世話になったクリスチャンの方々は、毎年、乳児園にクリスマスケーキを届けに行かれます。
乳児園とは、3歳までの子供たちで、親がいなかったり、あるいは捨てられたり・・・した子供たちが保母さんの方々と一緒に生活している施設です。あんまり書くと、ちょっと悲しいのでやめときます。
話によると、保母さんの方々も休みを取れないことが多く、またこの時期の子供たちは、インフルエンザを初め、風邪をひいたり、保母さん方もかなり心を使う季節のようです。
さて、この乳児園に贈るケーキは当然1個や2個ではありません。10数個?の大きなデコレーションケーキです。デパートで売っている最高級のイチゴをいっぱいにサンドし、また上にもいっぱいのせて、最上級のクリームいっぱいに飾った愛情あふれるケーキです。
それに加えて、手作りのクッキーをいっぱいに焼いて、それを手作りのかわいい袋に1人分ずつ詰めて、そして子供たち一人ひとりにクリスマスプレゼントをいっぱいに買って、乳児園の子供たちのところ行かれます。
ケーキは教会で作ることも多いのですが、あまりに多いので教会で生地だけ作り、各教会員のご家庭のオーブンで焼かれたりしました。
それに加えて、教会のクリスマスのために、同じようにケーキを作られたりしますので、日ごとの食事、また、集会、お祈りなどなどに加えて大忙しです。
乳児園には、クリスマスのほか、餅つき、木の葉の落ちる季節には清掃、枝の伸びる季節には剪定、バーべキュー大会などなどされていました。もちろんすべて無償のご奉仕でした。餅は、もちろんつきたてのお餅にすべて手作りのごまだれ、大根おろし、きなこ・・・・など5~7種類のたれがついてとってもおいしく、子供たちも大喜びでした。
教会員の行かれる日は、とっても寒い、北風がビュービュー吹く日でも、「その時間だけ」小春日和のような陽射しが与えられ、主の祝福を思いながら、過ごしました。
その乳児園の働きに、そのクリスチャンのお勤めになっている企業もまた企業として参加されるようになり、金融の最先端での、僕とは「ケタが5~7ケタぐらい」違う仕事の会社ですが、社員の方々も大勢協力されるようになっています。社長さん自ら、アイスクリームを乳児園で作られて、子供たちに渡されます。
しかし、そのクリスチャンの方はこう話していました。
「でもね、わたしたちがいくら一生懸命やったとしても・・・子供たちが欲しいものは、お母さんなのよ・・・」
ある他の乳児園で子供たちに何が欲しいか聞いたそうです。一番は、「お母さん」でした。
ある子は、こう言ったそうです。「どんなに、悪いお母さんでもいいから、お母さんに会いたいの」
クリスマスの季節ですが・・・
「世の友 われらを捨て去る時も、祈りに応えていたわりたもう」
「この人もう無理だよ」「あの人は変わらないよ」「正直いって、絶望だと思ったよ」――そんなことを言われてきましたが・・・
世の中のすべての人が、見捨てて当然の人間、罪のない他世界の人々、あるいは天使の方々でさえ、あきれ返る人間だけど・・・。
宇宙でたった1人、手と足に釘打たれてとりなし、愛したもう主イエス様の、その御顔を仰ぎ見、賛美歌をもってその驚くべき愛を褒め称えたいと願っています。
さて、クリスマスが近づくと、僕のお世話になったクリスチャンの方々は、毎年、乳児園にクリスマスケーキを届けに行かれます。
乳児園とは、3歳までの子供たちで、親がいなかったり、あるいは捨てられたり・・・した子供たちが保母さんの方々と一緒に生活している施設です。あんまり書くと、ちょっと悲しいのでやめときます。
話によると、保母さんの方々も休みを取れないことが多く、またこの時期の子供たちは、インフルエンザを初め、風邪をひいたり、保母さん方もかなり心を使う季節のようです。
さて、この乳児園に贈るケーキは当然1個や2個ではありません。10数個?の大きなデコレーションケーキです。デパートで売っている最高級のイチゴをいっぱいにサンドし、また上にもいっぱいのせて、最上級のクリームいっぱいに飾った愛情あふれるケーキです。
それに加えて、手作りのクッキーをいっぱいに焼いて、それを手作りのかわいい袋に1人分ずつ詰めて、そして子供たち一人ひとりにクリスマスプレゼントをいっぱいに買って、乳児園の子供たちのところ行かれます。
ケーキは教会で作ることも多いのですが、あまりに多いので教会で生地だけ作り、各教会員のご家庭のオーブンで焼かれたりしました。
それに加えて、教会のクリスマスのために、同じようにケーキを作られたりしますので、日ごとの食事、また、集会、お祈りなどなどに加えて大忙しです。
乳児園には、クリスマスのほか、餅つき、木の葉の落ちる季節には清掃、枝の伸びる季節には剪定、バーべキュー大会などなどされていました。もちろんすべて無償のご奉仕でした。餅は、もちろんつきたてのお餅にすべて手作りのごまだれ、大根おろし、きなこ・・・・など5~7種類のたれがついてとってもおいしく、子供たちも大喜びでした。
教会員の行かれる日は、とっても寒い、北風がビュービュー吹く日でも、「その時間だけ」小春日和のような陽射しが与えられ、主の祝福を思いながら、過ごしました。
その乳児園の働きに、そのクリスチャンのお勤めになっている企業もまた企業として参加されるようになり、金融の最先端での、僕とは「ケタが5~7ケタぐらい」違う仕事の会社ですが、社員の方々も大勢協力されるようになっています。社長さん自ら、アイスクリームを乳児園で作られて、子供たちに渡されます。
しかし、そのクリスチャンの方はこう話していました。
「でもね、わたしたちがいくら一生懸命やったとしても・・・子供たちが欲しいものは、お母さんなのよ・・・」
ある他の乳児園で子供たちに何が欲しいか聞いたそうです。一番は、「お母さん」でした。
ある子は、こう言ったそうです。「どんなに、悪いお母さんでもいいから、お母さんに会いたいの」
クリスマスの季節ですが・・・
「世の友 われらを捨て去る時も、祈りに応えていたわりたもう」
「この人もう無理だよ」「あの人は変わらないよ」「正直いって、絶望だと思ったよ」――そんなことを言われてきましたが・・・
世の中のすべての人が、見捨てて当然の人間、罪のない他世界の人々、あるいは天使の方々でさえ、あきれ返る人間だけど・・・。
宇宙でたった1人、手と足に釘打たれてとりなし、愛したもう主イエス様の、その御顔を仰ぎ見、賛美歌をもってその驚くべき愛を褒め称えたいと願っています。
落胆しているものに・・・確かな治療法がある
「落胆している者に信仰、祈り、仕事という確かな治療法がある。信仰と活動は確信と満足を授け、それは日ごとに増し加わる。あなたがたは不安な予感や、全くの失望の気持ちに負けそうになることがあるか。どんなに喜びのない日で、どんなに形勢の悪そうに見える時でも、恐れてはならない。神様を信ずる信仰を持ちなさい。神様はあなたの必要を知っておられる。神様はあらゆる力を持っておられる。神様の無限の愛と憐れみは疲れることがない。神様がみ約束を守らないのではないかと恐れてはならない。神様は神様を愛する者と共に結びたもうた契約を決してお変えにならない。そして神様はその忠実なしもべたちが必要に応じて要求するだけの能力をお授けになる。」
「霊的怠慢を本当に治す治療法はただひとつである。それは仕事である。すなわち、助けを必要としている魂のために働くことである。」
「これはキリスト様が臆病な者、疑う者、恐れおののく者のためにお勧めになった処方である。主の御前を悲しげに歩む悲嘆にくれた人々は立ち上がり、助けを必要としている人を助けよう。」
「いやな経験を持ち、本当の宗教を構成するものが何であるか全くわからなくなってしまうまで苦しみ、疑い、不平をこぼし、罪を犯し、後悔して疲れ果てる人々は、この無我の働きに携わっていない人々である。彼らは世の中に戻って行くことができないと感じているので、つまらぬ妬み、うらやみ、失望、後悔を抱いてシオンのすそにすがりついている。彼らはあら捜しのかたまりであり、兄弟達の過失で生きている。彼らの宗教生活には希望のない信仰のない、あじけない経験しかない。」
「キリストのためにわずかしか奉仕しない者、あるいは何もしない者は危険である。神様の御恵みは、大いなる特権と機会を持ちながら沈黙を続けている者の魂に長く留まらない。」
「悪に反抗する力は積極的な奉仕によって最もよく得られる。」
「すぐれた働きをするように神様から資格を授けられた人々の多くがなぜ、何ら成すところがないかというと、彼らは何もしようと努力しないからである。」
「たとえ100回のうち99回失敗しても、破滅から1人の魂を救うことに成功したら、主のみ業のために立派な行いをしたことになる。」
「あなたの義務を他人に転嫁することはできない。あなたの仕事をできる者はあなた以外にない。もしあなたがあなたの光を与えずに控えていれば、その怠慢のために誰かが暗黒に残されねばならない。」
「この世界はクリスチャンの天国ではなく、単に神様の仕事場にすぎない。ここで我々は、聖なる天にいる罪を犯したことのない天使たちと結合するのに適したものとならなければならない。」
「主のご承認は大きなことを成し遂げたとか、多くのものを得たとかいうことで与えられるのではなく、わずかなことにも忠実であったということで与えられる。神様が重要視されることは、我々が立派な結果に達することではなく、我々の行動する動機である。神様は成し遂げた働きの量よりも、善意と忠実さを賞賛される。」
「我々は飽きたり、弱気を起してはならない。永遠の栄光を安易さ、便利さ、楽しみと交換することは、恐ろしい損失になるだろう。神様の御手から授けられる賜物は、勝利者を待っている。我々は誰もそれを受ける資格はない。それは神様がお授けになる無償の賜物である。この賜物は実にすばらしい輝かしいものであろうが、『この星とあの星との間に、栄光の差がある』ということを覚えていよう。しかし、我々は勝利を求めて努力するよう切に勧められているのであるから、イエス様のみ力により、多くの星で重みのついた冠を目指そうではないか。『賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、星のようになって永遠にいたるでしょう』。」
「我々の考えは全く狭すぎる。神様は光をまき散らず働きに絶えず前進するようにと求めておられる。我々は人々に接する進歩した方法や手段を研究せねばならない。我々は、主の軍勢の偉大な指揮官が「前進せよ」と言われるのを、信仰の耳を傾けて聞かねばならない。我々は行動しなければならない。そうすれば神様は我々を見捨てたまわないであろう。我々が信仰を持って我々の分をなすならば、神様はご自分の分をなさる。長い間信仰を持っている兄弟姉妹方、あなたがたは、神様がせよと命じておられる仕事をしてこなかった。人々に対するあなたの愛はどこにあるのか。」
「わずかな才能しかない人々は、神様の愛の中に心を保つことに忠実であれば、多くの魂をキリストに導くことができる。ハーラン・ページは平凡な才能しか持たず、限られた教育を受けたにすぎない貧しい機械工であった。しかし彼は神様のご計画を進展させることを第一の仕事にし、努力の甲斐あってすばらしい成功を収めた。彼は個人との会話において、また熱心な祈りによって同胞の救いのために働いた。祈祷会を設け、日曜学校を組織し、トラクトやその他の宗教的な読み物も配布した。そして彼は臨終に顔に永眠の影を称えつつこう言い得たのである。『私は、それがすべて神様の恵みであって、私がしたことの功績でないことを知っています。でも私は100人以上の魂が私個人の助けを借りて神様に改心させられたのだということを証しできると思います』と。」
「霊的怠慢を本当に治す治療法はただひとつである。それは仕事である。すなわち、助けを必要としている魂のために働くことである。」
「これはキリスト様が臆病な者、疑う者、恐れおののく者のためにお勧めになった処方である。主の御前を悲しげに歩む悲嘆にくれた人々は立ち上がり、助けを必要としている人を助けよう。」
「いやな経験を持ち、本当の宗教を構成するものが何であるか全くわからなくなってしまうまで苦しみ、疑い、不平をこぼし、罪を犯し、後悔して疲れ果てる人々は、この無我の働きに携わっていない人々である。彼らは世の中に戻って行くことができないと感じているので、つまらぬ妬み、うらやみ、失望、後悔を抱いてシオンのすそにすがりついている。彼らはあら捜しのかたまりであり、兄弟達の過失で生きている。彼らの宗教生活には希望のない信仰のない、あじけない経験しかない。」
「キリストのためにわずかしか奉仕しない者、あるいは何もしない者は危険である。神様の御恵みは、大いなる特権と機会を持ちながら沈黙を続けている者の魂に長く留まらない。」
「悪に反抗する力は積極的な奉仕によって最もよく得られる。」
「すぐれた働きをするように神様から資格を授けられた人々の多くがなぜ、何ら成すところがないかというと、彼らは何もしようと努力しないからである。」
「たとえ100回のうち99回失敗しても、破滅から1人の魂を救うことに成功したら、主のみ業のために立派な行いをしたことになる。」
「あなたの義務を他人に転嫁することはできない。あなたの仕事をできる者はあなた以外にない。もしあなたがあなたの光を与えずに控えていれば、その怠慢のために誰かが暗黒に残されねばならない。」
「この世界はクリスチャンの天国ではなく、単に神様の仕事場にすぎない。ここで我々は、聖なる天にいる罪を犯したことのない天使たちと結合するのに適したものとならなければならない。」
「主のご承認は大きなことを成し遂げたとか、多くのものを得たとかいうことで与えられるのではなく、わずかなことにも忠実であったということで与えられる。神様が重要視されることは、我々が立派な結果に達することではなく、我々の行動する動機である。神様は成し遂げた働きの量よりも、善意と忠実さを賞賛される。」
「我々は飽きたり、弱気を起してはならない。永遠の栄光を安易さ、便利さ、楽しみと交換することは、恐ろしい損失になるだろう。神様の御手から授けられる賜物は、勝利者を待っている。我々は誰もそれを受ける資格はない。それは神様がお授けになる無償の賜物である。この賜物は実にすばらしい輝かしいものであろうが、『この星とあの星との間に、栄光の差がある』ということを覚えていよう。しかし、我々は勝利を求めて努力するよう切に勧められているのであるから、イエス様のみ力により、多くの星で重みのついた冠を目指そうではないか。『賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、星のようになって永遠にいたるでしょう』。」
「我々の考えは全く狭すぎる。神様は光をまき散らず働きに絶えず前進するようにと求めておられる。我々は人々に接する進歩した方法や手段を研究せねばならない。我々は、主の軍勢の偉大な指揮官が「前進せよ」と言われるのを、信仰の耳を傾けて聞かねばならない。我々は行動しなければならない。そうすれば神様は我々を見捨てたまわないであろう。我々が信仰を持って我々の分をなすならば、神様はご自分の分をなさる。長い間信仰を持っている兄弟姉妹方、あなたがたは、神様がせよと命じておられる仕事をしてこなかった。人々に対するあなたの愛はどこにあるのか。」
「わずかな才能しかない人々は、神様の愛の中に心を保つことに忠実であれば、多くの魂をキリストに導くことができる。ハーラン・ページは平凡な才能しか持たず、限られた教育を受けたにすぎない貧しい機械工であった。しかし彼は神様のご計画を進展させることを第一の仕事にし、努力の甲斐あってすばらしい成功を収めた。彼は個人との会話において、また熱心な祈りによって同胞の救いのために働いた。祈祷会を設け、日曜学校を組織し、トラクトやその他の宗教的な読み物も配布した。そして彼は臨終に顔に永眠の影を称えつつこう言い得たのである。『私は、それがすべて神様の恵みであって、私がしたことの功績でないことを知っています。でも私は100人以上の魂が私個人の助けを借りて神様に改心させられたのだということを証しできると思います』と。」
ナイアガラの流れ
「必要なのは熱心なクリスチャンの熱意である。・・・何かを行うことによって示される熱意である。・・・ナイヤガラ瀑布(ばくふ)の流れを止めることができないように、キリストを身につけている人に対して、主を証することを妨げることはできない。」
「今立つことのできる人は、心から全く決心している男女である。キリストはしもべたちを何度も振るわれて、ある時には、クリスチャン教会の基礎を置くのにわずか11人と2、3人の忠実な婦人しか残らなかった。負わねばならない重荷に遭うと退くが、教会のすべてが燃えているときには、彼らは熱中して歌い、叫び、有頂天になる。しかし彼らを見つめてみよ。その熱が冷めたとき、わずかな少数の忠実なカレブたちだけが前に出てきて、ゆるぎない節義を示すであろう。こういう人は風味を保つ塩である。教会に本当の助けが現れるのは、御業の進展が困難なときである。」
「奉仕のために男女を選ぶに当たって、神様は、学問があるとか、雄弁であるとか、世的な富があるかとかお尋ねになるのではない。神様は『わたしが彼らにわたしの道を教えることができるような謙遜さで歩くだろうか。わたしは言葉を彼らの唇におくことができるだろうか、彼らはわたしを代表するだろうか」とお尋ねになる。」
「敗北の屈辱は、神様のみ助けなしに御心を行うことが出来ないのだということをわれわれに示してくれるので、かえって祝福となることがよくある。」
「真心から神様を称えることは、祈りと同様の義務である。罪に陥った人類への神様の驚くべき愛を感謝するとともに、神様の無限の冨の中から、いっそう大きな祝福を受けることを待望していることを、私たちは世界と、そしてすべての住民たちに示さなければならない。私たちは今まで以上に、もっと自分の尊い体験語る必要がある。聖霊が特別に注がれると、主にある喜びとその奉仕における能力とは、神様の子らに対する神様の慈しみと驚くべき御業を私たちが語ることによって、著しく増大するであろう。
こうしたことは、サタンの力を後退させる。それはつぶやきと不平の精神を取り去り、誘惑者を退却させる。それは地上の住民の品性を天の邸宅を継ぐにふさわしく涵養する。こうした証は人々に感化を及ぼす。魂をキリストにかち取るのに、これ以上有効な方法はない。」
「今立つことのできる人は、心から全く決心している男女である。キリストはしもべたちを何度も振るわれて、ある時には、クリスチャン教会の基礎を置くのにわずか11人と2、3人の忠実な婦人しか残らなかった。負わねばならない重荷に遭うと退くが、教会のすべてが燃えているときには、彼らは熱中して歌い、叫び、有頂天になる。しかし彼らを見つめてみよ。その熱が冷めたとき、わずかな少数の忠実なカレブたちだけが前に出てきて、ゆるぎない節義を示すであろう。こういう人は風味を保つ塩である。教会に本当の助けが現れるのは、御業の進展が困難なときである。」
「奉仕のために男女を選ぶに当たって、神様は、学問があるとか、雄弁であるとか、世的な富があるかとかお尋ねになるのではない。神様は『わたしが彼らにわたしの道を教えることができるような謙遜さで歩くだろうか。わたしは言葉を彼らの唇におくことができるだろうか、彼らはわたしを代表するだろうか」とお尋ねになる。」
「敗北の屈辱は、神様のみ助けなしに御心を行うことが出来ないのだということをわれわれに示してくれるので、かえって祝福となることがよくある。」
「真心から神様を称えることは、祈りと同様の義務である。罪に陥った人類への神様の驚くべき愛を感謝するとともに、神様の無限の冨の中から、いっそう大きな祝福を受けることを待望していることを、私たちは世界と、そしてすべての住民たちに示さなければならない。私たちは今まで以上に、もっと自分の尊い体験語る必要がある。聖霊が特別に注がれると、主にある喜びとその奉仕における能力とは、神様の子らに対する神様の慈しみと驚くべき御業を私たちが語ることによって、著しく増大するであろう。
こうしたことは、サタンの力を後退させる。それはつぶやきと不平の精神を取り去り、誘惑者を退却させる。それは地上の住民の品性を天の邸宅を継ぐにふさわしく涵養する。こうした証は人々に感化を及ぼす。魂をキリストにかち取るのに、これ以上有効な方法はない。」
あなたはここで何をしているのか
「真実で忠実な人々のたゆまぬ活動に依存するところが大きい。この理由からサタンは、服従を通して達成される神様の御目的を妨げようとあらゆる努力をする。彼はある人々に自分たちの高尚できよい使命を見失わせ、この世の生活の楽しみで満足させようとする。彼は安楽な生活をするよう、あるいは、より大きい世的な利益のために、彼らが善に対する力となるかもしれない場所から移るように彼らを導く。その他の人々に対してサタンは、反対や迫害のために義務を離れさせ失望に追いやる。しかし、これらのことはみな天から最もやさしく、あわれみ深く見守られている。魂の敵が声を沈黙させることに成功した神様の子らに1人1人に「あなたはここで何をしているのか」という質問がなされている。私は全世界に出て行って、福音を宣べ伝え、神様の日のために1つの民を備えさせるようあなたに任命した。なぜあなたはここにいるのか。だれがあなたをつかわしたのか。」
「われわれは勤勉な働き人になるはずである。怠惰な者はみじめな者である。しかし、キリストが完成するために御自分の命を与えたもうた大事業において怠惰に対し何という言い訳ができようか。霊的能力は、用いなければなくなってしまう。そして、それを滅ぼすことがサタンの計画である。全天は人々に、この世界にキリストが再臨されるための準備をさせる仕事に積極的に携わっており、『わたしたちは神様の同労者である』すべてのものの終わりは間近い。今こそ働く機会である。」
「必要なのは良心的な伝道者である。断続的な努力は少しも良くない。われわれは注意を引かねばならない。われわれは心から熱心にならねばならない。」
「キリスト様のお働きは主として個人的な会見から成っていた。彼は一人の聞き手を大いに重んじておられた。その一人から、受けた情報が多くの人々に伝えられた。」
「クリスチャン生活には三つの標語がある。それはサタンにつけ入らせぬようするために留意せねばならないもので、すなわち、目を覚まし、祈り、働くことである。」
「最も質朴な働き人がキリスト様と協力するとき、地の果てに響くような震動を起こす絃に触れることができ、永遠にメロディーを奏でるのである。」
「滅びゆく魂のために働くにあたって、あなたには天使という仲間がいる。幾百万、幾千万もの天使たちは、一つの民がキリスト様の再臨の準備ができるようにと神様が惜しみなく与えておられる光を伝えることにわれわれの教会員と協力しようと待っている。」
「このような働きには、天のすべての使いたちが常に協力しようとしている。全天の資源は、失われた者を救おうとする人々が、いつでも自由に使用できるように提供されている。天の使いたちは、どんなに軽率で、どんなに頑固な人にでも、あなたが近づくことができるように助けを与える。そして、道に迷った者が一人でも神様のところに連れ戻されると、天全体が歓喜の声をあげる。セラピムとケルビムは、金の竪琴をかきならし、人の子らに対する神様のあわれみといつくしみに対して、神様と子羊を褒め称えるのである。」
「あらゆる霊的力をふるい起こして行動しなさい。すべてのものの終わりが間近に迫っていることを、あなたが訪問する人々に話なさい。主イエス・キリスト様は彼らの心の戸をあけて、彼らの心に永遠の感銘を与えてくださる。人々を霊的無感覚状態から目覚めさせなさい。あなたがイエス様を見出した方法、主に対する奉仕の経験を得て以来祝福されてきたことについて彼らに話なさい。あなたがイエス様のみ足もとに座る時に受ける祝福と、御言葉から尊い教訓を学ぶことを彼らに話しなさい。クリスチャンの生活にある喜びと楽しみを彼らに話なさい。あなたの温かい熱心な言葉は、あなたが非常に高価な真珠を見出したことを彼らに悟らせるであろう。あなたの快活な、励ましの言葉によって、あなたが本当により高い道を見出したことを示しなさい。これが本当の伝道の働きであり、それがなされる時、多くの者は夢から目覚めるであろう。」
少し古い証ですが、
「軍隊の力は主として兵隊の能力で測られる。賢明な将軍は兵隊のひとりびとりが活動的に勤務するようにその訓練を士官たちに指示する。彼は全部の者の最高の能力を啓発することにつとめる。もし彼が士官だけにたよれば、作戦を成功させることに期待できない。彼は軍隊内の一人びとりの忠実でうむことのない勤務を当てにする。責任は主として兵隊にかかっているのである。」
「われわれは勤勉な働き人になるはずである。怠惰な者はみじめな者である。しかし、キリストが完成するために御自分の命を与えたもうた大事業において怠惰に対し何という言い訳ができようか。霊的能力は、用いなければなくなってしまう。そして、それを滅ぼすことがサタンの計画である。全天は人々に、この世界にキリストが再臨されるための準備をさせる仕事に積極的に携わっており、『わたしたちは神様の同労者である』すべてのものの終わりは間近い。今こそ働く機会である。」
「必要なのは良心的な伝道者である。断続的な努力は少しも良くない。われわれは注意を引かねばならない。われわれは心から熱心にならねばならない。」
「キリスト様のお働きは主として個人的な会見から成っていた。彼は一人の聞き手を大いに重んじておられた。その一人から、受けた情報が多くの人々に伝えられた。」
「クリスチャン生活には三つの標語がある。それはサタンにつけ入らせぬようするために留意せねばならないもので、すなわち、目を覚まし、祈り、働くことである。」
「最も質朴な働き人がキリスト様と協力するとき、地の果てに響くような震動を起こす絃に触れることができ、永遠にメロディーを奏でるのである。」
「滅びゆく魂のために働くにあたって、あなたには天使という仲間がいる。幾百万、幾千万もの天使たちは、一つの民がキリスト様の再臨の準備ができるようにと神様が惜しみなく与えておられる光を伝えることにわれわれの教会員と協力しようと待っている。」
「このような働きには、天のすべての使いたちが常に協力しようとしている。全天の資源は、失われた者を救おうとする人々が、いつでも自由に使用できるように提供されている。天の使いたちは、どんなに軽率で、どんなに頑固な人にでも、あなたが近づくことができるように助けを与える。そして、道に迷った者が一人でも神様のところに連れ戻されると、天全体が歓喜の声をあげる。セラピムとケルビムは、金の竪琴をかきならし、人の子らに対する神様のあわれみといつくしみに対して、神様と子羊を褒め称えるのである。」
「あらゆる霊的力をふるい起こして行動しなさい。すべてのものの終わりが間近に迫っていることを、あなたが訪問する人々に話なさい。主イエス・キリスト様は彼らの心の戸をあけて、彼らの心に永遠の感銘を与えてくださる。人々を霊的無感覚状態から目覚めさせなさい。あなたがイエス様を見出した方法、主に対する奉仕の経験を得て以来祝福されてきたことについて彼らに話なさい。あなたがイエス様のみ足もとに座る時に受ける祝福と、御言葉から尊い教訓を学ぶことを彼らに話しなさい。クリスチャンの生活にある喜びと楽しみを彼らに話なさい。あなたの温かい熱心な言葉は、あなたが非常に高価な真珠を見出したことを彼らに悟らせるであろう。あなたの快活な、励ましの言葉によって、あなたが本当により高い道を見出したことを示しなさい。これが本当の伝道の働きであり、それがなされる時、多くの者は夢から目覚めるであろう。」
少し古い証ですが、
「軍隊の力は主として兵隊の能力で測られる。賢明な将軍は兵隊のひとりびとりが活動的に勤務するようにその訓練を士官たちに指示する。彼は全部の者の最高の能力を啓発することにつとめる。もし彼が士官だけにたよれば、作戦を成功させることに期待できない。彼は軍隊内の一人びとりの忠実でうむことのない勤務を当てにする。責任は主として兵隊にかかっているのである。」
2009年10月30日金曜日
「癒されたものは?」
「イエス様はまず、人々を目で見えるものでお助けになられて、目に見えないこと、すなわち罪をゆるす力についても、彼に信頼をおくようにお教えになりました。イエス様は中風の病人をいやす時に、このことをはっきりと言われました。『人の子は地上で罪を許す権威を持っていることが、あなたがたにわかるために』と言い、中風の者にむかって、「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた」
さて、前に書いたキリスト教の病院で、ご患者さんが入院されました。精密検査をしてみると、癌でした。しかも6箇所に「転移」していました。すぐに手術し、開きましたが、手の施しようがなく、閉じてしまいました。
しかし、その方はクリスチャンでしたが、こう話しました。「わたしは癌になって、イエス様を本当によく知ることができた。癌になって感謝だ」と・・・。
そして、入院している病棟でも「私は、癌になって感謝だ、癌になって感謝だ」と明るく話されていました。他の患者さんから、「少し静かにしてください」と言われた?くらいです。
さて、その方は再手術を受けることになりました。彼女が所属する教会から牧師さんがきました。その牧師さんは、手術前、執刀する医師と一緒にお祈りをしました。お祈りが終わると、牧師さんは医師にむかってこう尋ねました。「先生、だいじょうぶでしょうか」。医師は「だめでしょうね」と答えました。牧師さんは「そうでしょうね」と力なく答えました。
しかし、その患者さんは手術台に登るとき、「たとえ、これで死んだとしても、神様に感謝です」といって手術室に向かわれました。
7時間半かかると言われた手術が、30分で終わりました。6箇所開いてみると、皆きれいなピンク色をしていて、癌がすっかり癒されていたのです。
患者さんは、まもなくご退院されていかれました。
主は人の心も癒される権威を持っておられます。
さて、前に書いたキリスト教の病院で、ご患者さんが入院されました。精密検査をしてみると、癌でした。しかも6箇所に「転移」していました。すぐに手術し、開きましたが、手の施しようがなく、閉じてしまいました。
しかし、その方はクリスチャンでしたが、こう話しました。「わたしは癌になって、イエス様を本当によく知ることができた。癌になって感謝だ」と・・・。
そして、入院している病棟でも「私は、癌になって感謝だ、癌になって感謝だ」と明るく話されていました。他の患者さんから、「少し静かにしてください」と言われた?くらいです。
さて、その方は再手術を受けることになりました。彼女が所属する教会から牧師さんがきました。その牧師さんは、手術前、執刀する医師と一緒にお祈りをしました。お祈りが終わると、牧師さんは医師にむかってこう尋ねました。「先生、だいじょうぶでしょうか」。医師は「だめでしょうね」と答えました。牧師さんは「そうでしょうね」と力なく答えました。
しかし、その患者さんは手術台に登るとき、「たとえ、これで死んだとしても、神様に感謝です」といって手術室に向かわれました。
7時間半かかると言われた手術が、30分で終わりました。6箇所開いてみると、皆きれいなピンク色をしていて、癌がすっかり癒されていたのです。
患者さんは、まもなくご退院されていかれました。
主は人の心も癒される権威を持っておられます。
覚醒
ある時、こんな文章を見ました。
「わたしたちは、悲しみに手をもみ絞る時ではなく、立って働くときである。」
「われわれが信仰をもってわれわれの分をなすならば、神様はご自分の分をなさる。長い間信仰を持っている兄弟姉妹が、あなたがたは、神様がせよと命じておられる仕事をしてこなかった。人々に対するあなたの愛はどこにあるのか」
「臆病な人に対する治療法はただ1つしかない、それは困っている人のため一生懸命働くことである。」
文字通り、悲しみに手をもみ絞っていた僕は組んでいた手をといて、「何をやっているのだろう」と思いました。
ある時、安息日にどうしても学校に出てこなくてはいけなかったのを休みました。それで校長先生、副校長先生、担任の先生と面接に・・・しかし、このことを機会に、教会の証を伝え始めて、「障害も人生の最高の祝福」であることを実感しました。そしてクリスチャン以上にたくさんの方々が主イエス様の教会の証に感動してくださったのを目の当たりにした時、はっと気づいたことがあります。
「そうか、伝道が伝わらないのではなく、伝えなかったんだ!」
「あれ、こんなに頑張っているのに・・・・・・」と、「わ、全然やってこなかったんだ!」と気づくとは格段の違いです。どちらに力が加わるか。「イエス様、やってこなかったです」と悔いる心です。
「ああ、僕は何もやってこなかった」と気づけば行動が開始されます。あれが、おかしい、これがおかしいとやっているのが「馬鹿だった!」と気づきます。
「靴屋のマルチン」これは、トルストイのつくった小説、事実ではない、作り話ぐらいに思っていましたが、伝え始めると「これ初めての人にまだマタイによる福音書と言いにくいところでは役に立つよ。「そうか、このために作られたんだな」と恥ずかしい気づきが与えられます。
「敵に沈黙させられてしまったすべての僕たちに主は憐れみ深くこうおたずねになられる。『あなたはここで何をしているのか』」
「覚醒」、それは、「いつか、いつか、リバイバルが起きたら、どっかいい集会にいったら・・」と思っていました。しかし、いつの時代も答えはたった一つです。「そっか、主がしなさいということをやることなんだ・・・」。
う〜ん 身体が動かない・・・。しかしこういう証があります。
「何かせよ、すぐにせよ、全力を尽くしてせよ」「力は使えばでてきます」
実行すると・・・本当だ!主の憐れみ深さに涙するものです。
「わたしたちは、悲しみに手をもみ絞る時ではなく、立って働くときである。」
「われわれが信仰をもってわれわれの分をなすならば、神様はご自分の分をなさる。長い間信仰を持っている兄弟姉妹が、あなたがたは、神様がせよと命じておられる仕事をしてこなかった。人々に対するあなたの愛はどこにあるのか」
「臆病な人に対する治療法はただ1つしかない、それは困っている人のため一生懸命働くことである。」
文字通り、悲しみに手をもみ絞っていた僕は組んでいた手をといて、「何をやっているのだろう」と思いました。
ある時、安息日にどうしても学校に出てこなくてはいけなかったのを休みました。それで校長先生、副校長先生、担任の先生と面接に・・・しかし、このことを機会に、教会の証を伝え始めて、「障害も人生の最高の祝福」であることを実感しました。そしてクリスチャン以上にたくさんの方々が主イエス様の教会の証に感動してくださったのを目の当たりにした時、はっと気づいたことがあります。
「そうか、伝道が伝わらないのではなく、伝えなかったんだ!」
「あれ、こんなに頑張っているのに・・・・・・」と、「わ、全然やってこなかったんだ!」と気づくとは格段の違いです。どちらに力が加わるか。「イエス様、やってこなかったです」と悔いる心です。
「ああ、僕は何もやってこなかった」と気づけば行動が開始されます。あれが、おかしい、これがおかしいとやっているのが「馬鹿だった!」と気づきます。
「靴屋のマルチン」これは、トルストイのつくった小説、事実ではない、作り話ぐらいに思っていましたが、伝え始めると「これ初めての人にまだマタイによる福音書と言いにくいところでは役に立つよ。「そうか、このために作られたんだな」と恥ずかしい気づきが与えられます。
「敵に沈黙させられてしまったすべての僕たちに主は憐れみ深くこうおたずねになられる。『あなたはここで何をしているのか』」
「覚醒」、それは、「いつか、いつか、リバイバルが起きたら、どっかいい集会にいったら・・」と思っていました。しかし、いつの時代も答えはたった一つです。「そっか、主がしなさいということをやることなんだ・・・」。
う〜ん 身体が動かない・・・。しかしこういう証があります。
「何かせよ、すぐにせよ、全力を尽くしてせよ」「力は使えばでてきます」
実行すると・・・本当だ!主の憐れみ深さに涙するものです。
2009年10月29日木曜日
一番ほしいもの
さて、むか~し聖書の中で、僕が一番欲しい賜物がありました。
それは、「癒しの賜物」・・・らい病人をいやし、足なえの足を立たせ・・・
「この奇跡があれば、伝道もさぞかし・・・」
そして・・・聖書に書いてあるような「癒しの賜物」はいただいていませんが・・・
数々の癒しの御業は見てきました。それは、今もなお多くの人の心に残っています。
しかし・・・?必ずしも癒されたから「よし、イエス様にお答えして・・・」というわけではないことを知ります。
心臓病で、足が悪く、お金もない・・・方が教会に来られ、
心臓病がいやされ、足も直り、売れない細い土地が売れて・・・よし残りの生涯は献身?ではありませんでした。
「よし、これから山に遊びに行こう!」
その後、信仰から離れていかれました。
10人のらい病人が癒されても、帰ってきたのはたった一人、
また、生まれつき盲目の方が、シロアムの池に行って目を洗い、いやされて、証ししたら、両親から見捨てられ、会堂から破門されて・・・との話は、今も同じであることを見ることになります。
紅海が分かれ、マナが降り、岩から水が吹き出したのを目の当たりに見たイスラエルの人、
三日?ぐらいで御業を忘れ、つぶやきはじめます。
これは、今もなお、現実の話・・・
僕も脳腫瘍の方が、クリスチャンの方の祈りと、愛と、食事で癒されたり、喘息が癒されたり、アトピーが癒されたり、末期すい臓癌の方が命を永らえ、などなどたくさん見てきました。
また、もはや助からないと言われた方が、オリーブ油の祈りでいやされたり・・・
ある妊婦さん・・・出産後・・肺塞栓症になり、心肺停止、必死の救急蘇生でもよみがえりませんでした。医師があきらめ、死亡診断書を書こうと決意した時・・・急に顔に鮮やかな血色が戻り、患者さんは助かりました。
陰の控え室で看護婦さんが集まって祈っておられたそうです。
他にも、拒食症になり、医師が死亡診断書を書いた時、牧師さんの祈りでいやされたり方、交通事故で、眼球が飛び出て、耳がちぎれ飛んで、人工眼球も用意され、命も助からないといわれた方が牧師さんたちが病室に入って膝まづいてお祈りされ癒された話、・・・
すべて厳粛な事実も聞いてきました。
自らもひざを癒されたり・・
もちろん、
「弟子であると公言するだけでは何の価値もありません。魂を救うキリストに対する信仰とは多くの人が表明しているようなものではないのです。彼らは「信じなさい、信じなさい、あなたは律法も守る必要はない」と言います。しかし、服従へ導かない信仰は臆断です。使徒ヨハネは、「『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない」と言っています。だれも、特別な摂理や奇跡的なあらわれなどがあるからといって、彼らの働きやその主張する思想がまちがいない証拠であると考えてはなりません。人々が神様のことばを軽んじて語り自分の印象や感情や行動を神様の標準以上に見なす時、彼らのうちには光がないことがわかるのです。
服従は弟子であることの試金石です。私たちの神様に対する愛の真実性を証拠だてるのは律法の遵守です。わたしたちの受け入れる教理が心の中の罪の根を断ち、魂を汚れから清め、清きに至る実を結ばせるなら、わたしたちはそれが神様の真理であることを知ることができます。」
「神様のみこころの一点をあえて無視することによって、私たちの最初の祖先は、この世界にわざわいの水門を開いてしまいました。そして彼らの例にならう者はみな、同様の結果を刈り取ります。神様の愛がその律法の一つ一つの戒めの基礎です。そして戒めを離れる者は、自分で自分の不幸と破滅をもたらしているのです」
なのですが・・・
イエス様は9人戻ってこられないこともご存知でいらしたのにおいやしになられた・・・
イエス様のユダヤ人も、サマリヤ人も、盲人の両親や祭司たちもお救いになられたかった・・・
イエス様は人の幸せしか考えておられないようです。その愛をほんのちょっとずつ知っていくことになります。
「許しを与える神様の愛を受け、また、その精神をあらわすために欠くことのできない一つのことは、神様がわたしたちに対していだいておられる愛を知り、かつ信じることです。わたしたちがその愛を認めないように、サタンはあらゆる欺きをもって働いています。彼は、あやまちや罪があまりに大きいので、主はわたしたちの祈りをかえりみてくださらず、わたしたちを祝福し、救ってはくださらないと思わせようとします。わたしたち自身のうちには、欠点以外何も見られず、神様にとって魅力のあるものは何も見られません。サタンはむだだ、品性の欠陥を改めることはできないとわたしたちに告げます。わたしたちが神様のもとに来ようとする時、敵は祈ってもむだだ、あなたはあの悪事をしたではないか、あなたは神様に対して罪を犯し、自己の良心にそむいたではないかとささやくでしょう。
しかしわたしたちは「御子イエス様の血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」と敵に告げることができます。わたしたちが罪を犯した、祈ることができないと感じる時こそ、まさに祈るべき時なのです。恥し、誇りをいたく傷つけられているかも知れませんが、祈り、かつ信じなければなりません。・・・・」
放蕩息子のお兄さんも、弟も、すべては これからの人生・・・
「神様の愛は、難攻不落の要塞です」
僕も信じています。それはこの地上の誰よりも、深い愛・・・
いえ・・宇宙で一番大きな愛を持っておられる御方であると・・・
イエス様と、人の思い、あまりにも当然・・・人では到底測り知れないくらい・・・ちがうようです。
「品性を評価するにあたって、神様と人との標準は、なんと大きな相違があることであろう。世の中や親しい友人さえも知らない、家庭内や心のなかの誘惑、数々の誘惑に打ち勝ったことなどを神様はごらんになる。自己の弱さを知って、けんそんにしていること、一つの悪い思いでさえ、心から悔い改めることなどを、神様はごらんになる。また、神様は、ご用のために心から奉仕する人をごらんになる。自己とのはげしい戦い、そして遂に、その戦いの勝利したことなども注目なさるのである。これらのすべてを、神様が知っておられ天使も知っている。主をおそれ、主の名をおぼえる者のために、主の前に記憶の書がかかれている」
それは、「癒しの賜物」・・・らい病人をいやし、足なえの足を立たせ・・・
「この奇跡があれば、伝道もさぞかし・・・」
そして・・・聖書に書いてあるような「癒しの賜物」はいただいていませんが・・・
数々の癒しの御業は見てきました。それは、今もなお多くの人の心に残っています。
しかし・・・?必ずしも癒されたから「よし、イエス様にお答えして・・・」というわけではないことを知ります。
心臓病で、足が悪く、お金もない・・・方が教会に来られ、
心臓病がいやされ、足も直り、売れない細い土地が売れて・・・よし残りの生涯は献身?ではありませんでした。
「よし、これから山に遊びに行こう!」
その後、信仰から離れていかれました。
10人のらい病人が癒されても、帰ってきたのはたった一人、
また、生まれつき盲目の方が、シロアムの池に行って目を洗い、いやされて、証ししたら、両親から見捨てられ、会堂から破門されて・・・との話は、今も同じであることを見ることになります。
紅海が分かれ、マナが降り、岩から水が吹き出したのを目の当たりに見たイスラエルの人、
三日?ぐらいで御業を忘れ、つぶやきはじめます。
これは、今もなお、現実の話・・・
僕も脳腫瘍の方が、クリスチャンの方の祈りと、愛と、食事で癒されたり、喘息が癒されたり、アトピーが癒されたり、末期すい臓癌の方が命を永らえ、などなどたくさん見てきました。
また、もはや助からないと言われた方が、オリーブ油の祈りでいやされたり・・・
ある妊婦さん・・・出産後・・肺塞栓症になり、心肺停止、必死の救急蘇生でもよみがえりませんでした。医師があきらめ、死亡診断書を書こうと決意した時・・・急に顔に鮮やかな血色が戻り、患者さんは助かりました。
陰の控え室で看護婦さんが集まって祈っておられたそうです。
他にも、拒食症になり、医師が死亡診断書を書いた時、牧師さんの祈りでいやされたり方、交通事故で、眼球が飛び出て、耳がちぎれ飛んで、人工眼球も用意され、命も助からないといわれた方が牧師さんたちが病室に入って膝まづいてお祈りされ癒された話、・・・
すべて厳粛な事実も聞いてきました。
自らもひざを癒されたり・・
もちろん、
「弟子であると公言するだけでは何の価値もありません。魂を救うキリストに対する信仰とは多くの人が表明しているようなものではないのです。彼らは「信じなさい、信じなさい、あなたは律法も守る必要はない」と言います。しかし、服従へ導かない信仰は臆断です。使徒ヨハネは、「『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない」と言っています。だれも、特別な摂理や奇跡的なあらわれなどがあるからといって、彼らの働きやその主張する思想がまちがいない証拠であると考えてはなりません。人々が神様のことばを軽んじて語り自分の印象や感情や行動を神様の標準以上に見なす時、彼らのうちには光がないことがわかるのです。
服従は弟子であることの試金石です。私たちの神様に対する愛の真実性を証拠だてるのは律法の遵守です。わたしたちの受け入れる教理が心の中の罪の根を断ち、魂を汚れから清め、清きに至る実を結ばせるなら、わたしたちはそれが神様の真理であることを知ることができます。」
「神様のみこころの一点をあえて無視することによって、私たちの最初の祖先は、この世界にわざわいの水門を開いてしまいました。そして彼らの例にならう者はみな、同様の結果を刈り取ります。神様の愛がその律法の一つ一つの戒めの基礎です。そして戒めを離れる者は、自分で自分の不幸と破滅をもたらしているのです」
なのですが・・・
イエス様は9人戻ってこられないこともご存知でいらしたのにおいやしになられた・・・
イエス様のユダヤ人も、サマリヤ人も、盲人の両親や祭司たちもお救いになられたかった・・・
イエス様は人の幸せしか考えておられないようです。その愛をほんのちょっとずつ知っていくことになります。
「許しを与える神様の愛を受け、また、その精神をあらわすために欠くことのできない一つのことは、神様がわたしたちに対していだいておられる愛を知り、かつ信じることです。わたしたちがその愛を認めないように、サタンはあらゆる欺きをもって働いています。彼は、あやまちや罪があまりに大きいので、主はわたしたちの祈りをかえりみてくださらず、わたしたちを祝福し、救ってはくださらないと思わせようとします。わたしたち自身のうちには、欠点以外何も見られず、神様にとって魅力のあるものは何も見られません。サタンはむだだ、品性の欠陥を改めることはできないとわたしたちに告げます。わたしたちが神様のもとに来ようとする時、敵は祈ってもむだだ、あなたはあの悪事をしたではないか、あなたは神様に対して罪を犯し、自己の良心にそむいたではないかとささやくでしょう。
しかしわたしたちは「御子イエス様の血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」と敵に告げることができます。わたしたちが罪を犯した、祈ることができないと感じる時こそ、まさに祈るべき時なのです。恥し、誇りをいたく傷つけられているかも知れませんが、祈り、かつ信じなければなりません。・・・・」
放蕩息子のお兄さんも、弟も、すべては これからの人生・・・
「神様の愛は、難攻不落の要塞です」
僕も信じています。それはこの地上の誰よりも、深い愛・・・
いえ・・宇宙で一番大きな愛を持っておられる御方であると・・・
イエス様と、人の思い、あまりにも当然・・・人では到底測り知れないくらい・・・ちがうようです。
「品性を評価するにあたって、神様と人との標準は、なんと大きな相違があることであろう。世の中や親しい友人さえも知らない、家庭内や心のなかの誘惑、数々の誘惑に打ち勝ったことなどを神様はごらんになる。自己の弱さを知って、けんそんにしていること、一つの悪い思いでさえ、心から悔い改めることなどを、神様はごらんになる。また、神様は、ご用のために心から奉仕する人をごらんになる。自己とのはげしい戦い、そして遂に、その戦いの勝利したことなども注目なさるのである。これらのすべてを、神様が知っておられ天使も知っている。主をおそれ、主の名をおぼえる者のために、主の前に記憶の書がかかれている」
2009年10月25日日曜日
隠れクリスチャン?
「夜が暗ければ暗いほど、星は美しく輝くのである」
世の中、真っ暗・・・。
あちこちにため息や、失望の声が聞こえます。
さて、ある普通の演奏会の指揮者のあいさつ文、読んでいくと・・・
親しい友人が・・・「この人きっと隠れキリシタンだよ・・・」
そもそも曲名は「ヨハネ受難曲」、その演奏会では御言葉は公然とそして純粋に証されていました。
ある営業さん・・・「僕は、いつもかばんの中に聖書を持ち歩いているんですよ。そして仕事先で『こいつ憎い』と思うと読むんです。」
周りの方々に小さな証を話していくと、とっても驚くことがあります。みなさん、かなりキリスト教と密接につながっていることです。ミッションスクール、幼稚園、親戚、友人・・・。もちろん黙っていれば誰もわからない・・・。しかし、話を聞いてみると・・・ある方の机の中には、いつも聖書とリビングバイブルがあり、事務所の名前は「祈りの部屋」と名づけられたとか、そして、「僕はクリスチャンじゃないけど、キリストを信じている」とみんなの前でおっしゃったりするようになられました。
ある在宅酸素療法の営業さんはとっても忙しいお仕事の中、おじいさん、おばあさんに時には何時間も???話を聞いてあげて、そのため?毎日、仕事が終わるのは夜の12時・・・。
しかし、休日はダウン症の子供たちのため、ボランティア活動へ行かれています。部下がミスをしても、「俺たちの教え方が悪かったんだ」と上の人に謝りにいかれます。
そして、仕事もとっても重要な職責を任されていらっしゃいます。
また、ある方は困っている人には病院の社会相談室の仕事の範囲を超えて、親身になってその方の生活や、様々な悩み事に関わり続けられています。仕事を失って困っていたら、「あげるつもりで」100万円、ポンと渡されます。当然、家族からは反対と文句の声「返ってこないよ・・・」。
しかし、そんなことはおかまいなく、にこやかにされています。お金を借りた相手の方は、一生懸命働かれました。そして、そのお金を「そのまま」返されたそうです。
「こんなに信用してくださって・・・」と感動され、勇気が与えられ、仕事を見つけ、働かれたそうです。そして、そのお金には「とっても手がつけられたかった」そうです。
ある方は、身内の女の子が、友達に悪魔の業をかけられ、失神し、男の声で話すようになります。そして学校の先生は怖くなり逃げてしまいます。しかし、その方は、「悪魔はイエス様のお名前が怖い、感謝の心が嫌い、イエス様にお詫びする心が嫌い」そして「イエス様お助けくださいと祈ること」、との話を聞き、そして「イエス様は悪魔に対して絶対的支配力を持っておられる」と聞くと、さっそく女の子に教えられます。
するとある日ニコニコして「とっても元気になったよ」と明るくおっしゃっておられました。そして、「その子が来たら、わたしにはキリストがついているから大丈夫、と言ってあげな!と言ってやったの」と明るくおっしゃっておられました。
何か信仰深い牧師さんが悪魔を追い出された話は聞いたことがありますが・・・普通の人が??
「『イエス様お助けください、私たちは死にそうです。』この叫びをあげて顧みられない魂はない。」
「主の名は堅固なやぐらのようだ、
正しい者はその中に走りこんで救いを得る」
「エッサイの根から芽が出て、
異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。
異邦人は彼に望みをおくであろう。」
「あなたがたは、世の光である」との救い主のみことばは、主の弟子たちに世界的任務がゆだねられた事実を示しています。キリストの時代には、神様のみことばの守り手に任ぜられた者たちと地球上の他のすべての国々との間に、利己主義、高慢、偏見が、強く高い障壁を築いていました。しかし救い主はこのすべてを変えるためにこられたのです。人々が主の口から聞いたことばは、彼らがいままでラビから聞いてきた事とまったく違っていました。キリストはへだての壁、利己主義、国民と国民をへだてる偏見を打破し、人類全体に対する愛をお教えになっています。主は利己主義が規定する狭い囲いから人々を引き上げ、すべての国境線や社会の人為的差別を廃されます。主は隣人と見知らぬ他人、また友人と敵の区別をなくされます。そしてわたしたちにすべての困窮者を隣人と見、世界をわたしたちの伝道地とみなすようにお教えになっています。」
すべての出来事は、僕自身の心の中にある国境線や偏見を壊し続けています。
エリヤさんが主を信じる人を数えられ、「たった一人」を思われていらした時、主は憐れみ深く、「バアルに膝をかがめない」7000人の方々のことをお教えになられました。
「この世では少数の人々と歩むと思えても、・・・天では大多数となるのである」のような証しもあったような・・・。
本物のクリスチャン、そして隠れクリスチャンの方々は・・・今もなおたくさんの世の人々の幸せのため、信じられないくらい数々の素晴らしい働きをして、天に宝をたくわえています。
「しかし、キリストに従う者は、自分たちの望みが絶たれたのではないか、神様は地をお見捨てになったのではないかなどと恐れるべきではありませんでした。力と栄えとは神様に帰し、神様の偉大な目的は、何ら妨げられることなく、その完成へ向かって前進するのです。日ごとの必要を言い表す祈りの中で、キリストの弟子たちは、悪のあらゆる支配を越えて、万物の主宰者であり、彼らの父であり、永遠の友である神様を仰ぎ見るように命じられているのです。」
世の中、真っ暗・・・。
あちこちにため息や、失望の声が聞こえます。
さて、ある普通の演奏会の指揮者のあいさつ文、読んでいくと・・・
親しい友人が・・・「この人きっと隠れキリシタンだよ・・・」
そもそも曲名は「ヨハネ受難曲」、その演奏会では御言葉は公然とそして純粋に証されていました。
ある営業さん・・・「僕は、いつもかばんの中に聖書を持ち歩いているんですよ。そして仕事先で『こいつ憎い』と思うと読むんです。」
周りの方々に小さな証を話していくと、とっても驚くことがあります。みなさん、かなりキリスト教と密接につながっていることです。ミッションスクール、幼稚園、親戚、友人・・・。もちろん黙っていれば誰もわからない・・・。しかし、話を聞いてみると・・・ある方の机の中には、いつも聖書とリビングバイブルがあり、事務所の名前は「祈りの部屋」と名づけられたとか、そして、「僕はクリスチャンじゃないけど、キリストを信じている」とみんなの前でおっしゃったりするようになられました。
ある在宅酸素療法の営業さんはとっても忙しいお仕事の中、おじいさん、おばあさんに時には何時間も???話を聞いてあげて、そのため?毎日、仕事が終わるのは夜の12時・・・。
しかし、休日はダウン症の子供たちのため、ボランティア活動へ行かれています。部下がミスをしても、「俺たちの教え方が悪かったんだ」と上の人に謝りにいかれます。
そして、仕事もとっても重要な職責を任されていらっしゃいます。
また、ある方は困っている人には病院の社会相談室の仕事の範囲を超えて、親身になってその方の生活や、様々な悩み事に関わり続けられています。仕事を失って困っていたら、「あげるつもりで」100万円、ポンと渡されます。当然、家族からは反対と文句の声「返ってこないよ・・・」。
しかし、そんなことはおかまいなく、にこやかにされています。お金を借りた相手の方は、一生懸命働かれました。そして、そのお金を「そのまま」返されたそうです。
「こんなに信用してくださって・・・」と感動され、勇気が与えられ、仕事を見つけ、働かれたそうです。そして、そのお金には「とっても手がつけられたかった」そうです。
ある方は、身内の女の子が、友達に悪魔の業をかけられ、失神し、男の声で話すようになります。そして学校の先生は怖くなり逃げてしまいます。しかし、その方は、「悪魔はイエス様のお名前が怖い、感謝の心が嫌い、イエス様にお詫びする心が嫌い」そして「イエス様お助けくださいと祈ること」、との話を聞き、そして「イエス様は悪魔に対して絶対的支配力を持っておられる」と聞くと、さっそく女の子に教えられます。
するとある日ニコニコして「とっても元気になったよ」と明るくおっしゃっておられました。そして、「その子が来たら、わたしにはキリストがついているから大丈夫、と言ってあげな!と言ってやったの」と明るくおっしゃっておられました。
何か信仰深い牧師さんが悪魔を追い出された話は聞いたことがありますが・・・普通の人が??
「『イエス様お助けください、私たちは死にそうです。』この叫びをあげて顧みられない魂はない。」
「主の名は堅固なやぐらのようだ、
正しい者はその中に走りこんで救いを得る」
「エッサイの根から芽が出て、
異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。
異邦人は彼に望みをおくであろう。」
「あなたがたは、世の光である」との救い主のみことばは、主の弟子たちに世界的任務がゆだねられた事実を示しています。キリストの時代には、神様のみことばの守り手に任ぜられた者たちと地球上の他のすべての国々との間に、利己主義、高慢、偏見が、強く高い障壁を築いていました。しかし救い主はこのすべてを変えるためにこられたのです。人々が主の口から聞いたことばは、彼らがいままでラビから聞いてきた事とまったく違っていました。キリストはへだての壁、利己主義、国民と国民をへだてる偏見を打破し、人類全体に対する愛をお教えになっています。主は利己主義が規定する狭い囲いから人々を引き上げ、すべての国境線や社会の人為的差別を廃されます。主は隣人と見知らぬ他人、また友人と敵の区別をなくされます。そしてわたしたちにすべての困窮者を隣人と見、世界をわたしたちの伝道地とみなすようにお教えになっています。」
すべての出来事は、僕自身の心の中にある国境線や偏見を壊し続けています。
エリヤさんが主を信じる人を数えられ、「たった一人」を思われていらした時、主は憐れみ深く、「バアルに膝をかがめない」7000人の方々のことをお教えになられました。
「この世では少数の人々と歩むと思えても、・・・天では大多数となるのである」のような証しもあったような・・・。
本物のクリスチャン、そして隠れクリスチャンの方々は・・・今もなおたくさんの世の人々の幸せのため、信じられないくらい数々の素晴らしい働きをして、天に宝をたくわえています。
「しかし、キリストに従う者は、自分たちの望みが絶たれたのではないか、神様は地をお見捨てになったのではないかなどと恐れるべきではありませんでした。力と栄えとは神様に帰し、神様の偉大な目的は、何ら妨げられることなく、その完成へ向かって前進するのです。日ごとの必要を言い表す祈りの中で、キリストの弟子たちは、悪のあらゆる支配を越えて、万物の主宰者であり、彼らの父であり、永遠の友である神様を仰ぎ見るように命じられているのです。」
2009年10月22日木曜日
「私たちの日ごとの食物」
イエス様が、5つのパンと、二匹の魚で5000人以上の人を養われた話、たぶん小さいときから教会で育った方なら、よく聞かれた話、子供の絵本にもなっている奇跡です。
旧約聖書では、初穂のパンと、大麦のパン20個、新穀1袋により、エリシャさんのまわりにいた100人の人々を養われ、「彼らは食べてなお余した」と聖なる歴史に記録されています。
19世紀後半の方の証によると、「神様は、その後の歴史においてもたびたびそのような御業を現してこられた。」たぶん、孤児院に食べ物が窮乏したとき、お祈りによって食料が届けられた話などなど、「あったなあ」と思い出される方々もたくさんいらっしゃると思います。
小さな集会所で、講演会を開いた時、来られる方々は27人ということになり、教会の方々が夕食のため「おにぎり」を作られました。
しかし、実際に集まったのは30人・・・
「日ごろ、献身している人は、食べなくてもいいよね」なんて話していました。
さて、講演会が終わり、食事の時になりました。
一人一人に「おにぎり」が渡されていきます。
そして、さあ、お祈りして「いただきます・・・」
その時・・・「おにぎり」は毎日、献身していらっしゃるクリスチャンの方々含めすべての人の手に握られていました・
また、ある野外礼拝のとき、今度は教会でお弁当を作りました。この時も「おにぎり」
それをラップで1つ1つ包んできます。教会で敬虔なクリスチャンの当時、未信者のだんなさまが包んでいきます。ラップがわずかしかなかったので、他の教会員の方が、買いに出かけられました。ところがだんなさま「あれ?」「こりゃすごい」
もうわずかしか残っていないラップが・・・
なくならないで次々・・・しまいにはさすがのだんなさんも笑い出しました。
最後のおにぎりが包み終わった時、ラップは空になりました。
そして、自然公園に野外礼拝に行きます。礼拝も終わり、食事時・・・
なんと、多くの方がお弁当を持ってきていませんでした。
敷物をひいて教会で作ったお弁当を開きます。
すると・・・みんなおなかいっぱいに食べ、なおかなりたくさん余ったので家々にお土産にもっていかれました。
さて、たしかある正月、「うどん」をみんなで食べることになり、数々の具を用意する方々、「つゆ」を用意する方とそれそれ分担されました。
そして二人の人が「うどんの麺」を家から用意してくることになりました。
さて、みなさん、集会が終わり、いよいよ食事、おつゆはOK,具もOK、いよいよ「うどん」・・・
「あっ!」一人の人が忘れてきたことに気づきます。
「こりゃ、うどんが泳ぐようだね」と言いつつ、クリスチャンの方が「半分のうどん」でつくりはじめます。
すると・・・みんなによそわられた「うどん」はいっぱい!・・・あまるほどでした。
ある教会小学校の行事の時、教会の方々もそれに参加することになりました。
教会でお弁当をつくります。しかも、かなり豪華、お重に、いなりずし、おふかし、果物、などなどいっぱい持っていかれました。
さて、いよいよ食事の時、他教会の方々と久しぶりにお会いし、「ぜひ、食事も一緒に」ということになりました。しかし用意している方々は、知っていました。
「お皿の数がたりない」・・・・
しかし、お皿が配られると、すべての人が足りていました。
教会に帰って・・・クリスチャンの方々は、お皿を数えられませんでした。
「数えないのよ・・・」と静かにおっしゃっておられました。
ある教会学校では、生徒たちとの食事のとき、間違って一人分多く並べてしまっても、経験のある方は、静かに落ち着いておられます。
すると・・・
誰も知らない思いがけないお客さんが来られます。まるで、神様が食事を用意してくださっておられたかのようでした・・・
教会のクリスチャンの方々は、決して驚いたりされません。厳粛でうやうやしく、静かに証していらっしゃいました。
このような話をすると・・たぶん長い間信仰を持ってこられた方々は、
「そうねえ」と次々と証を思い出されると思います。
「イエス様はたびたびこのような御業を現してこられた」からです。
旧約聖書では、初穂のパンと、大麦のパン20個、新穀1袋により、エリシャさんのまわりにいた100人の人々を養われ、「彼らは食べてなお余した」と聖なる歴史に記録されています。
19世紀後半の方の証によると、「神様は、その後の歴史においてもたびたびそのような御業を現してこられた。」たぶん、孤児院に食べ物が窮乏したとき、お祈りによって食料が届けられた話などなど、「あったなあ」と思い出される方々もたくさんいらっしゃると思います。
小さな集会所で、講演会を開いた時、来られる方々は27人ということになり、教会の方々が夕食のため「おにぎり」を作られました。
しかし、実際に集まったのは30人・・・
「日ごろ、献身している人は、食べなくてもいいよね」なんて話していました。
さて、講演会が終わり、食事の時になりました。
一人一人に「おにぎり」が渡されていきます。
そして、さあ、お祈りして「いただきます・・・」
その時・・・「おにぎり」は毎日、献身していらっしゃるクリスチャンの方々含めすべての人の手に握られていました・
また、ある野外礼拝のとき、今度は教会でお弁当を作りました。この時も「おにぎり」
それをラップで1つ1つ包んできます。教会で敬虔なクリスチャンの当時、未信者のだんなさまが包んでいきます。ラップがわずかしかなかったので、他の教会員の方が、買いに出かけられました。ところがだんなさま「あれ?」「こりゃすごい」
もうわずかしか残っていないラップが・・・
なくならないで次々・・・しまいにはさすがのだんなさんも笑い出しました。
最後のおにぎりが包み終わった時、ラップは空になりました。
そして、自然公園に野外礼拝に行きます。礼拝も終わり、食事時・・・
なんと、多くの方がお弁当を持ってきていませんでした。
敷物をひいて教会で作ったお弁当を開きます。
すると・・・みんなおなかいっぱいに食べ、なおかなりたくさん余ったので家々にお土産にもっていかれました。
さて、たしかある正月、「うどん」をみんなで食べることになり、数々の具を用意する方々、「つゆ」を用意する方とそれそれ分担されました。
そして二人の人が「うどんの麺」を家から用意してくることになりました。
さて、みなさん、集会が終わり、いよいよ食事、おつゆはOK,具もOK、いよいよ「うどん」・・・
「あっ!」一人の人が忘れてきたことに気づきます。
「こりゃ、うどんが泳ぐようだね」と言いつつ、クリスチャンの方が「半分のうどん」でつくりはじめます。
すると・・・みんなによそわられた「うどん」はいっぱい!・・・あまるほどでした。
ある教会小学校の行事の時、教会の方々もそれに参加することになりました。
教会でお弁当をつくります。しかも、かなり豪華、お重に、いなりずし、おふかし、果物、などなどいっぱい持っていかれました。
さて、いよいよ食事の時、他教会の方々と久しぶりにお会いし、「ぜひ、食事も一緒に」ということになりました。しかし用意している方々は、知っていました。
「お皿の数がたりない」・・・・
しかし、お皿が配られると、すべての人が足りていました。
教会に帰って・・・クリスチャンの方々は、お皿を数えられませんでした。
「数えないのよ・・・」と静かにおっしゃっておられました。
ある教会学校では、生徒たちとの食事のとき、間違って一人分多く並べてしまっても、経験のある方は、静かに落ち着いておられます。
すると・・・
誰も知らない思いがけないお客さんが来られます。まるで、神様が食事を用意してくださっておられたかのようでした・・・
教会のクリスチャンの方々は、決して驚いたりされません。厳粛でうやうやしく、静かに証していらっしゃいました。
このような話をすると・・たぶん長い間信仰を持ってこられた方々は、
「そうねえ」と次々と証を思い出されると思います。
「イエス様はたびたびこのような御業を現してこられた」からです。
2009年10月21日水曜日
伝道旅行
夏休み、冬休み、春休み・・・と学校が休みになると教会学校が開かれます。
しかも、休みの初日から、最後の日まで開かれるまさしく教会学校。しかも、朝の朝礼?? から始まって、夜まで・・・。かなり楽しい学校でした。
大人の教会員も会社に休みをとって出席、子供達、若者達の学校の勉強を手伝ったり、子供達を連れて、車で遊びに行ったり・・・かなり楽しいです。子供達の純粋さ、素直さに元気をいただいているのでしょう。青年達のため、簿記や英会話、実務パソコンなどを教えられた方もいらっしゃいます。
もちろん、陰で子供達のために祈り、心を配られ、配慮されていらっしゃる方のご苦労があってのことだとは思いますが・・・。
子供達は、自然に、料理、掃除、挨拶、手伝い、また友達への配慮などを覚えているようです。彼らにとっては、奉仕は、「一番好きなこと」。「おちこぼれ」の子供時代とは「大違い」・・・
教える方々は、ご家庭の主婦の方々ですが、「おちこぼれ」に言わせるとまさしく「プロフェッショナル」。生活の知恵が隅々に行き届いており、話を聞いているだけで相当な知恵に恵まれます。
そこで教えられる聖書の話は、子供でも理解できること・・・。もちろん信仰って子供でも簡単に理解できることですけど。あるいは子供のほうが理解できる??
その中で、育まれる心のつながりは、お互いの思いやりはまさしく「兄弟、姉妹」。切っても切れない強さがあります。一生の宝物ですね。
さて、その中でのメインイベントは、教会員みんなと家族で行く、伝道旅行・・・。信仰の先輩のクリスチャンは、この旅行のために1ヶ月?前からお祈りされるとか・・・。
そこでの祝福は本当に大きいものです。出発予定の日、天気予報をみると・・・、大きな台風がまっすぐ近づいています。しかも、ちょうど時刻も、場所も旅行を直撃・・・。しかし、当日になると・・・空は晴れわたり、きれいな青空がその日を祝福しているかのようです。台風が急にスピードを上げ、教会員を乗せたバスは、その台風を追いかける形になったのです。
台風一過・・・。そしてフェーン現象が起こり、季節的に入れないはずの時期でしたが、みんなで海水浴も楽しみました。地元の方はびっくり、「あんたら運がいいよ、今年の夏は2、3日しか海が開かれなかったよ」。
それに続き、モーターボートの分乗しての岩めぐり・・・。地元の船主さんは言います。「あんたら運がいいよ。台風の後は海が荒れるのにねえ・・・」とびっくりされます。そして、次の川くだり・・・岩々を船頭さんのお話と、小唄が反響します。「皆さんも一曲・・・」と船頭さんがおっしゃるので、全員で「神の御子にますイエスのために」の賛美歌を歌い、主を褒め称える声が、主が御創りになられた大自然に響き渡ります。この船頭さんは、毎年の顔なじみになりました。
海の家でも、旅館でもイエス様の証・・・。みなさん、とってもあたたかい方々でした。
いよいよ、おいしい夕食を終えて帰路につきます。その時、信者さんのご家族で未信者の方々は、つぶやき始めます。「こりゃ、夜遅くなるよ。帰れないよ」 何せ、連休の最後の日、ごもっとも・・・。高速道路に出ると、あちこちに表示が出ます。「渋滞40km」「渋滞15km」。しかし、バスは渋滞にかかることなく、すいすいと進んでいきます。これには、子供達も、ご家族の方々も、主を畏れます。
すると、夕方の雲の間から、美しい太陽の光がつらぬいて「ヤコブのはしご」を描き出します。バスの中より、王をたたえる賛美歌が響きわります。「ハレルヤ、全能の主、統べおさめたまえり」。
この伝道旅行に参加された方々の数々の証は計り知られず・・・。様々な方々がキリスト・イエス様を信じるようになっています。
しかも、休みの初日から、最後の日まで開かれるまさしく教会学校。しかも、朝の朝礼?? から始まって、夜まで・・・。かなり楽しい学校でした。
大人の教会員も会社に休みをとって出席、子供達、若者達の学校の勉強を手伝ったり、子供達を連れて、車で遊びに行ったり・・・かなり楽しいです。子供達の純粋さ、素直さに元気をいただいているのでしょう。青年達のため、簿記や英会話、実務パソコンなどを教えられた方もいらっしゃいます。
もちろん、陰で子供達のために祈り、心を配られ、配慮されていらっしゃる方のご苦労があってのことだとは思いますが・・・。
子供達は、自然に、料理、掃除、挨拶、手伝い、また友達への配慮などを覚えているようです。彼らにとっては、奉仕は、「一番好きなこと」。「おちこぼれ」の子供時代とは「大違い」・・・
教える方々は、ご家庭の主婦の方々ですが、「おちこぼれ」に言わせるとまさしく「プロフェッショナル」。生活の知恵が隅々に行き届いており、話を聞いているだけで相当な知恵に恵まれます。
そこで教えられる聖書の話は、子供でも理解できること・・・。もちろん信仰って子供でも簡単に理解できることですけど。あるいは子供のほうが理解できる??
その中で、育まれる心のつながりは、お互いの思いやりはまさしく「兄弟、姉妹」。切っても切れない強さがあります。一生の宝物ですね。
さて、その中でのメインイベントは、教会員みんなと家族で行く、伝道旅行・・・。信仰の先輩のクリスチャンは、この旅行のために1ヶ月?前からお祈りされるとか・・・。
そこでの祝福は本当に大きいものです。出発予定の日、天気予報をみると・・・、大きな台風がまっすぐ近づいています。しかも、ちょうど時刻も、場所も旅行を直撃・・・。しかし、当日になると・・・空は晴れわたり、きれいな青空がその日を祝福しているかのようです。台風が急にスピードを上げ、教会員を乗せたバスは、その台風を追いかける形になったのです。
台風一過・・・。そしてフェーン現象が起こり、季節的に入れないはずの時期でしたが、みんなで海水浴も楽しみました。地元の方はびっくり、「あんたら運がいいよ、今年の夏は2、3日しか海が開かれなかったよ」。
それに続き、モーターボートの分乗しての岩めぐり・・・。地元の船主さんは言います。「あんたら運がいいよ。台風の後は海が荒れるのにねえ・・・」とびっくりされます。そして、次の川くだり・・・岩々を船頭さんのお話と、小唄が反響します。「皆さんも一曲・・・」と船頭さんがおっしゃるので、全員で「神の御子にますイエスのために」の賛美歌を歌い、主を褒め称える声が、主が御創りになられた大自然に響き渡ります。この船頭さんは、毎年の顔なじみになりました。
海の家でも、旅館でもイエス様の証・・・。みなさん、とってもあたたかい方々でした。
いよいよ、おいしい夕食を終えて帰路につきます。その時、信者さんのご家族で未信者の方々は、つぶやき始めます。「こりゃ、夜遅くなるよ。帰れないよ」 何せ、連休の最後の日、ごもっとも・・・。高速道路に出ると、あちこちに表示が出ます。「渋滞40km」「渋滞15km」。しかし、バスは渋滞にかかることなく、すいすいと進んでいきます。これには、子供達も、ご家族の方々も、主を畏れます。
すると、夕方の雲の間から、美しい太陽の光がつらぬいて「ヤコブのはしご」を描き出します。バスの中より、王をたたえる賛美歌が響きわります。「ハレルヤ、全能の主、統べおさめたまえり」。
この伝道旅行に参加された方々の数々の証は計り知られず・・・。様々な方々がキリスト・イエス様を信じるようになっています。
2009年10月20日火曜日
力をくださった証
「助けを必要としているところで熱心に思慮深く努力することにより、まことのクリスチャンは神様に対し、また同胞に対し自分の愛を示すのである。彼は奉仕のために命を失うかもしれない。しかし、キリスト様はご自分の宝をご自分のもとに集めにこられるとき、彼はその命を再び見いだすのである。」
「永遠への門口に立ち、恵み深い招待の声を聞きなさい。それはこの地上でキリストのために苦しむことを特権とし、名誉と思い、キリストと協力した人に与えられる恩恵の招待である。・・・そこではあがなわれた人たちは十字架にかけられた救い主に自分らを導いてくれた人と対面し、彼らは一つとなって人間が神様の生命と同じ生命を持つことができるために死なれた救い主を賛美する。戦いは終結し、すべての災いも争いも終わりを告げ、あがなわれた者が神様のみくらのまわりに立つ時、勝利の歌は全天にみちあふれ、『ほふられた子羊』 われらを神様にあがなってくださった『子羊こそは、・・・栄光とさんびとを受けるにふさわしい』と喜びの曲を歌うのである。」
「今教会は戦っている。いまわたしたちは暗黒の世界、ほとんど全部が偶像礼拝に身をささげている社会に当面している。しかし戦いが終わり勝利をかち得る日がきている。神様のみこころが天に行われるとおり、地にも行われなければならない。救われた諸国民は天の律法のほかには、どんな律法も知らない。すべての人は幸福な、1つに結ばれた家族となり、感謝と賛美の衣、すなわちキリストの義の衣をまとう。自然はすべてそのすばらしい美の中に神様を賛美し、礼拝するのである。」
「あがなわれた人々が自分たちのために重荷を負ってくれた人々に会って、あいさつをするとき、どんなにかすばらしい喜びがわくにちがいない。そして自分の楽しみのためでなく、祝福をほとんど持ち合わせない不幸な人々の祝福となるために生きてきた人々は、どんなにか心を満たされて感激することであろう。『彼らは返礼ができないから、あなたは幸いであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう』というみ約束に彼らは思い当たるであろう」
「救い主の来臨をあまりにも長く待っていると思うようなとき、すなわち、悩みに負け、骨折りに疲れ果てて、もうわれわれにゆだねられた仕事を終え、名誉ある免除を受けるために戦いから身を引くことに待ちきれないと思うならば、次のことを思い出そう―また、不平が出るごとにそれを思い出そう―神様は我々があらしや闘争に会い、クリスチャン品性を完成し、み父であられる神様と兄であられるキリストとよりよく知り合うように、また、主のために多くの魂をキリストに導く仕事をするように、そうして、『良い忠実な僕よ、よくやった。主人と一緒に喜んでくれ』という御言葉を喜びの心で聞くことができるように、われわれをこの地上に残しておられるのだという事を。」
他の人々は、飢えている者に食を与え裸な者に着物を着せた人々に感謝を表すであろう。
「信仰をもたずに失望していたとき、主はあなたをわたしに送ってくださり、希望と慰めの言葉を語ってくださった。あなたはわたしの肉体的必要を満たすための食事を持ってきてくださった。また、神様のみ言葉をわたしに開いて、霊的必要に目覚めさせてくださった。あなたはわたしを兄弟として扱い、わたしが悲しんでいる時に同情し、打撲傷を受けて傷ついたわたしの心を回復させてくださった。だからわたしを救ってくださろうと差しのべておられたキリストのみ手をわたしはつかむことができたのだ。わたしが無知であったときに、天国にはわたしを養ってくださるみ父がおられることを、あなたは辛抱強くわたしに教えてくださった。あなたは神様のみ言葉のとうといみ約束を読んでくださった。神様がわたしを救ってくださるのだという信仰を私に吹き込んでくださった。キリストが私のために払ってくださった犠牲のことを考えたとき、心は和らぎ、しずめられ、くだかれた。私は命のパンを求めて飢えるようになり、真理が私の魂になくてはならないものとなった。わたしは救われてここにいる。永遠に救われ、永遠に神様と共に住み、わたしのためにご自分のいのちを与えてくださったおかたを賛美するのである。」
「能力に応じて『それぞれ仕事』を割り当てられたお方は忠実な働きに無報酬ですますことは決してなさらない。忠義、忠実な行為にはことごとく神様の恩寵と賛成の特別なしるしを受ける栄誉が与えられる。すべての働き人に『種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう』というみ約束が与えられている。」
「報酬のことは全く神様におまかせして安んじていることを、主はわたしたちに望まれる。キリストが魂に宿られると、報酬のことは、第一の関心事ではなくなる。それがわたしたちの奉仕の動機ではない。」
「良い事をすることは病気に対する最もすぐれた療法である。みわざに携わる人々は神様をたずねるようにと招かれている。そして神様ご自身は、彼らにこたえると誓っておられるのである。彼らは良き物をもって満たされ、潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。」
「他の人々に注がれた光線はことごとくわれわれの心にも反射する。悲しむ者に語りかける親切で同情深い言葉、しいたげられた者の心を和らげる行為、同胞の必要とするものを補うための贈り物、神様のみ栄えのために与えられたり、なされた事はことごとく、与えた者に祝福となってもどってくる。このように働く人々は天の律法に従っているのであり、神様の承認を受けるのである。」
「わたしは、ひとりの男がある冬の日に、吹き寄せられた深い雪の中を旅をしていて、寒さに感覚を失いかけ、知らず知らずのうちに活力がほとんど奪われそうになったという話を読んだ。そして、彼は寒気に包まれてこごえ死にそうになり、もう生きるための戦いをあきらめようとしていたちょうどその時に、彼と同じように凍死しかかっている別の旅人のうめき声を聞いた。彼はその人を助けたいというけんそんな気持ちになった。彼は雪だるまになっているその気の毒な人のからだをさすり続け、かなりたって後その人を立たせた。彼は、その人が立つことができなかったので、自分ひとりでは行けないと思っていたその雪の中を、親切にその人をだきかかえていった。そして、彼は、仲間の旅人を安全な場所にまで運んだその瞬間に、隣人を救ったことで自分をも救ったのだという事実に気づいた。もう1人を救いたいといる彼の熱心な努力が、彼自身の血管の中で凍りかけていた血液を生気づけ、手の先まで健康的な暖かみを生み出した。」
この最後の証は実際に力をいただき、命を助けていただいた証です。
そして、いまもなお、人から人へ伝えられ・・・多くの人々に明るい光を与え続けています。
「永遠への門口に立ち、恵み深い招待の声を聞きなさい。それはこの地上でキリストのために苦しむことを特権とし、名誉と思い、キリストと協力した人に与えられる恩恵の招待である。・・・そこではあがなわれた人たちは十字架にかけられた救い主に自分らを導いてくれた人と対面し、彼らは一つとなって人間が神様の生命と同じ生命を持つことができるために死なれた救い主を賛美する。戦いは終結し、すべての災いも争いも終わりを告げ、あがなわれた者が神様のみくらのまわりに立つ時、勝利の歌は全天にみちあふれ、『ほふられた子羊』 われらを神様にあがなってくださった『子羊こそは、・・・栄光とさんびとを受けるにふさわしい』と喜びの曲を歌うのである。」
「今教会は戦っている。いまわたしたちは暗黒の世界、ほとんど全部が偶像礼拝に身をささげている社会に当面している。しかし戦いが終わり勝利をかち得る日がきている。神様のみこころが天に行われるとおり、地にも行われなければならない。救われた諸国民は天の律法のほかには、どんな律法も知らない。すべての人は幸福な、1つに結ばれた家族となり、感謝と賛美の衣、すなわちキリストの義の衣をまとう。自然はすべてそのすばらしい美の中に神様を賛美し、礼拝するのである。」
「あがなわれた人々が自分たちのために重荷を負ってくれた人々に会って、あいさつをするとき、どんなにかすばらしい喜びがわくにちがいない。そして自分の楽しみのためでなく、祝福をほとんど持ち合わせない不幸な人々の祝福となるために生きてきた人々は、どんなにか心を満たされて感激することであろう。『彼らは返礼ができないから、あなたは幸いであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう』というみ約束に彼らは思い当たるであろう」
「救い主の来臨をあまりにも長く待っていると思うようなとき、すなわち、悩みに負け、骨折りに疲れ果てて、もうわれわれにゆだねられた仕事を終え、名誉ある免除を受けるために戦いから身を引くことに待ちきれないと思うならば、次のことを思い出そう―また、不平が出るごとにそれを思い出そう―神様は我々があらしや闘争に会い、クリスチャン品性を完成し、み父であられる神様と兄であられるキリストとよりよく知り合うように、また、主のために多くの魂をキリストに導く仕事をするように、そうして、『良い忠実な僕よ、よくやった。主人と一緒に喜んでくれ』という御言葉を喜びの心で聞くことができるように、われわれをこの地上に残しておられるのだという事を。」
他の人々は、飢えている者に食を与え裸な者に着物を着せた人々に感謝を表すであろう。
「信仰をもたずに失望していたとき、主はあなたをわたしに送ってくださり、希望と慰めの言葉を語ってくださった。あなたはわたしの肉体的必要を満たすための食事を持ってきてくださった。また、神様のみ言葉をわたしに開いて、霊的必要に目覚めさせてくださった。あなたはわたしを兄弟として扱い、わたしが悲しんでいる時に同情し、打撲傷を受けて傷ついたわたしの心を回復させてくださった。だからわたしを救ってくださろうと差しのべておられたキリストのみ手をわたしはつかむことができたのだ。わたしが無知であったときに、天国にはわたしを養ってくださるみ父がおられることを、あなたは辛抱強くわたしに教えてくださった。あなたは神様のみ言葉のとうといみ約束を読んでくださった。神様がわたしを救ってくださるのだという信仰を私に吹き込んでくださった。キリストが私のために払ってくださった犠牲のことを考えたとき、心は和らぎ、しずめられ、くだかれた。私は命のパンを求めて飢えるようになり、真理が私の魂になくてはならないものとなった。わたしは救われてここにいる。永遠に救われ、永遠に神様と共に住み、わたしのためにご自分のいのちを与えてくださったおかたを賛美するのである。」
「能力に応じて『それぞれ仕事』を割り当てられたお方は忠実な働きに無報酬ですますことは決してなさらない。忠義、忠実な行為にはことごとく神様の恩寵と賛成の特別なしるしを受ける栄誉が与えられる。すべての働き人に『種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう』というみ約束が与えられている。」
「報酬のことは全く神様におまかせして安んじていることを、主はわたしたちに望まれる。キリストが魂に宿られると、報酬のことは、第一の関心事ではなくなる。それがわたしたちの奉仕の動機ではない。」
「良い事をすることは病気に対する最もすぐれた療法である。みわざに携わる人々は神様をたずねるようにと招かれている。そして神様ご自身は、彼らにこたえると誓っておられるのである。彼らは良き物をもって満たされ、潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。」
「他の人々に注がれた光線はことごとくわれわれの心にも反射する。悲しむ者に語りかける親切で同情深い言葉、しいたげられた者の心を和らげる行為、同胞の必要とするものを補うための贈り物、神様のみ栄えのために与えられたり、なされた事はことごとく、与えた者に祝福となってもどってくる。このように働く人々は天の律法に従っているのであり、神様の承認を受けるのである。」
「わたしは、ひとりの男がある冬の日に、吹き寄せられた深い雪の中を旅をしていて、寒さに感覚を失いかけ、知らず知らずのうちに活力がほとんど奪われそうになったという話を読んだ。そして、彼は寒気に包まれてこごえ死にそうになり、もう生きるための戦いをあきらめようとしていたちょうどその時に、彼と同じように凍死しかかっている別の旅人のうめき声を聞いた。彼はその人を助けたいというけんそんな気持ちになった。彼は雪だるまになっているその気の毒な人のからだをさすり続け、かなりたって後その人を立たせた。彼は、その人が立つことができなかったので、自分ひとりでは行けないと思っていたその雪の中を、親切にその人をだきかかえていった。そして、彼は、仲間の旅人を安全な場所にまで運んだその瞬間に、隣人を救ったことで自分をも救ったのだという事実に気づいた。もう1人を救いたいといる彼の熱心な努力が、彼自身の血管の中で凍りかけていた血液を生気づけ、手の先まで健康的な暖かみを生み出した。」
この最後の証は実際に力をいただき、命を助けていただいた証です。
そして、いまもなお、人から人へ伝えられ・・・多くの人々に明るい光を与え続けています。
2009年10月19日月曜日
「朝ごとに新しく・・・」
ある沖縄での集会に行ったときのことです。証が次々行われているとき、一人の長老さんがとってもつまらなそうにおっしゃいました。
「教会の歴史の中で、時々こういうことがおこるんだよね。まあ、やりなさいよ。」
冷めた、というか何というか・・・。これぞ、水掛け論? 狼少年症候群というか、「なあんだ、またか・・・」。この響きにはとっても悲しい、失望が現れています。
イエス様がエルサレムにロバの子に乗られていらしたとき、弟子たちの希望は最高潮に達します。しかし・・・、「メシヤは断たれるでしょう」とのダニエルさんの預言は成就してしまいます。
19世紀に起こった全世界的な再臨運動・・・。このときもクリスチャンは大失望を経験します。少し前は、ちょっと有名になった1999年7月のノストラダムスの大預言を、思いっきり聖書の預言とつなげて失望に陥った方々もいらしたとか。続く、2000年、クライシス・・・。 新聞には「キリスト教もこれで最後・・・」なんてことも見たような。
メッセンジャーが背信したりすると失望に落ちってしまう場合も・・・。もちろん、「メッセンジャーたちが背信しても、メッセージは神様のもの」なのですが。
期待しては崩れ、燃え上がっては崩れ、だんだん「なあんだ、またか・・・」。
ところが、
主のいつくしみは絶えることがなく、
そのあわれみは尽きることがない。
これは朝ごとに新しく、
あなたの真実は大きい。
賛美歌にも歌われていますが、これは本当のことです。
聖書の中で、ヒゼキヤ王様が癒された時、アハズの日時計が10度退くというしるしが与えられます。「10度???」。分度器で計って10度って、ひょっとしてこのくらい? 多分普通の生活をしている人なら、誰も何も感じられないくらいでしょう。
ところがこれが大事件、現在、話によると海底にはその時生じた巨大なひずんだ跡があるとか・・・。あるいは暦を計算していくとどうしてもこの10度を計算に入れないと合わないとか・・・。
驚くべきスピードで一定に回転しているこの巨大な地球が、止まって逆回転??? 遠心力は? 人は吹っ飛ばされないのか・・・。逆回転してまたすぐに順回転? ある人にはわずか10度、しかも・・・。
しかし、知っている人にはこれが驚くべきことであることがわかります。
証も同じ。ある人には「なあんだ、まぁ、やりなさいよ」。しかし、本人にとっては、それが罪に染まった、よるべない罪人に対する復活されたイエス様のいつくしみ、涙あふれる経験になります。
先ほどの長老さん、この集会のあと信仰に目覚め、自ら老後のたくわえをはたいて講演会を開き、伝道に走ります。そして、その結果多くの方々からの感謝の手紙を受け取られ、証されていらっしゃいました。
小さな証・・・。今まで見えなかったイエス様のいつくしみが、目の前に一杯あることに気付くようになります。
今朝も恵み新たに、
み恵みもて支えたもう
神の真実とうとし
それは小さな証ですが、イエス様のとっても大きな贈り物です。
「信仰によって我々が主の力をつかむとき、主はほとんど希望のない、失望するように見えるものをすばらしいものに変えてくださる。」
「穏やかさをつちかい、真実であられる創造者に自分のたましいをゆだねなさい。神様はご自分の責任としてゆだねられたものを守られるであろう。神様は祭壇を涙と不平でおおうことを喜ばれない。たとえまだ他の魂が改心しているのをみなくとも、すでに改心したもののために神様を十分賛美できるのである。しかし、すべてのことを自分の考えに合わせようとするのではなく、ただ前進しさえすれば良い働きが進められるのである。神様の平和があなたの心を支配し、感謝がみなぎるように。主に働きたもう余地を与え、主の道を妨げてはならない。我々さえその気になれは、主は働くことがおできになるし、働いてくださるのである。」
「わたしたちは、キリストに従う者として、互いのクリスチャン生活の助けとなり、励ましとなる言葉を語るようにしなければならない。わたしたちは、受けた恵みについてこれまでよりももっと多く語らなければならない。」
「真実で忠実な人々のたゆまぬ活動に依存するところが大きい。この理由からサタンは、服従を通して達成される神様の御目的を妨げようとあらゆる努力をする。彼はある人々に自分達を高尚できよい使命を見失わせ、この世の楽しみで満足させようとする。彼は安楽な生活をするよう、あるいは、より大きい世的な利益のために、彼らが善に対する力となるかもしれない場所から移るように彼らを導く。その他の人々に対してサタンは、反対や迫害のために義務を離れさせ失望に追いやる。しかし、これらのことはみな天から最も優しく、あわれみ深く見守られている。魂の敵が声を沈黙させることに成功した神様の子ら一人ひとりに、「あなたはここで何をしているのか」という質問がなされている。私は全世界に出て行って福音を宣べ伝え、神様の日のために一つの民を備えさせるようにあなたに任命した。なぜあなたはここにいるのか。誰があなたを遣わしたのか。」
魂の敵が声を沈黙させることに成功した神様の子ら・・・。
「あなたはここで何をしているのか」
自分は、真実で忠実な人々とはほど遠い・・・のに。
何故か・・・涙がこぼれ出るのです。
「教会の歴史の中で、時々こういうことがおこるんだよね。まあ、やりなさいよ。」
冷めた、というか何というか・・・。これぞ、水掛け論? 狼少年症候群というか、「なあんだ、またか・・・」。この響きにはとっても悲しい、失望が現れています。
イエス様がエルサレムにロバの子に乗られていらしたとき、弟子たちの希望は最高潮に達します。しかし・・・、「メシヤは断たれるでしょう」とのダニエルさんの預言は成就してしまいます。
19世紀に起こった全世界的な再臨運動・・・。このときもクリスチャンは大失望を経験します。少し前は、ちょっと有名になった1999年7月のノストラダムスの大預言を、思いっきり聖書の預言とつなげて失望に陥った方々もいらしたとか。続く、2000年、クライシス・・・。 新聞には「キリスト教もこれで最後・・・」なんてことも見たような。
メッセンジャーが背信したりすると失望に落ちってしまう場合も・・・。もちろん、「メッセンジャーたちが背信しても、メッセージは神様のもの」なのですが。
期待しては崩れ、燃え上がっては崩れ、だんだん「なあんだ、またか・・・」。
ところが、
主のいつくしみは絶えることがなく、
そのあわれみは尽きることがない。
これは朝ごとに新しく、
あなたの真実は大きい。
賛美歌にも歌われていますが、これは本当のことです。
聖書の中で、ヒゼキヤ王様が癒された時、アハズの日時計が10度退くというしるしが与えられます。「10度???」。分度器で計って10度って、ひょっとしてこのくらい? 多分普通の生活をしている人なら、誰も何も感じられないくらいでしょう。
ところがこれが大事件、現在、話によると海底にはその時生じた巨大なひずんだ跡があるとか・・・。あるいは暦を計算していくとどうしてもこの10度を計算に入れないと合わないとか・・・。
驚くべきスピードで一定に回転しているこの巨大な地球が、止まって逆回転??? 遠心力は? 人は吹っ飛ばされないのか・・・。逆回転してまたすぐに順回転? ある人にはわずか10度、しかも・・・。
しかし、知っている人にはこれが驚くべきことであることがわかります。
証も同じ。ある人には「なあんだ、まぁ、やりなさいよ」。しかし、本人にとっては、それが罪に染まった、よるべない罪人に対する復活されたイエス様のいつくしみ、涙あふれる経験になります。
先ほどの長老さん、この集会のあと信仰に目覚め、自ら老後のたくわえをはたいて講演会を開き、伝道に走ります。そして、その結果多くの方々からの感謝の手紙を受け取られ、証されていらっしゃいました。
小さな証・・・。今まで見えなかったイエス様のいつくしみが、目の前に一杯あることに気付くようになります。
今朝も恵み新たに、
み恵みもて支えたもう
神の真実とうとし
それは小さな証ですが、イエス様のとっても大きな贈り物です。
「信仰によって我々が主の力をつかむとき、主はほとんど希望のない、失望するように見えるものをすばらしいものに変えてくださる。」
「穏やかさをつちかい、真実であられる創造者に自分のたましいをゆだねなさい。神様はご自分の責任としてゆだねられたものを守られるであろう。神様は祭壇を涙と不平でおおうことを喜ばれない。たとえまだ他の魂が改心しているのをみなくとも、すでに改心したもののために神様を十分賛美できるのである。しかし、すべてのことを自分の考えに合わせようとするのではなく、ただ前進しさえすれば良い働きが進められるのである。神様の平和があなたの心を支配し、感謝がみなぎるように。主に働きたもう余地を与え、主の道を妨げてはならない。我々さえその気になれは、主は働くことがおできになるし、働いてくださるのである。」
「わたしたちは、キリストに従う者として、互いのクリスチャン生活の助けとなり、励ましとなる言葉を語るようにしなければならない。わたしたちは、受けた恵みについてこれまでよりももっと多く語らなければならない。」
「真実で忠実な人々のたゆまぬ活動に依存するところが大きい。この理由からサタンは、服従を通して達成される神様の御目的を妨げようとあらゆる努力をする。彼はある人々に自分達を高尚できよい使命を見失わせ、この世の楽しみで満足させようとする。彼は安楽な生活をするよう、あるいは、より大きい世的な利益のために、彼らが善に対する力となるかもしれない場所から移るように彼らを導く。その他の人々に対してサタンは、反対や迫害のために義務を離れさせ失望に追いやる。しかし、これらのことはみな天から最も優しく、あわれみ深く見守られている。魂の敵が声を沈黙させることに成功した神様の子ら一人ひとりに、「あなたはここで何をしているのか」という質問がなされている。私は全世界に出て行って福音を宣べ伝え、神様の日のために一つの民を備えさせるようにあなたに任命した。なぜあなたはここにいるのか。誰があなたを遣わしたのか。」
魂の敵が声を沈黙させることに成功した神様の子ら・・・。
「あなたはここで何をしているのか」
自分は、真実で忠実な人々とはほど遠い・・・のに。
何故か・・・涙がこぼれ出るのです。
2009年10月4日日曜日
聖別されたもの
「義認というのは義と宣言される事で、信仰によって義とせられるというのは神様の御言葉によって義とせられることです。神様の言葉が発せられると、何でも言われた通りになってしまいます。・・・イエス・キリストによって語られる神様の御言葉は、それが語られる以前には世に存在しなかった物を存在させてしまうのです。人間の内には義なるものはありません。・・・しかし神様は人間の上に義を宣言させる為にキリストをお立てになりました。キリストが言葉を語られたので、それを受け入れる者にはただそれだけで、何もなかった彼の内に義が現れるのです。・・・信仰によって受け入れられた神様の言葉は以前は何もなかった人間の内に、その生活において義を造り出します。」
「神様は信じる者の上に義を宣言されます。宣言するというのは言葉を出すことです。そして『あなたは義人だ』と言われた瞬間、それを信じる罪人は罪人でなくなり、神様の義となるのです。義を宣言する神様の御言葉自体が義であり、罪人が信仰によってその御言葉を自分の心に受け入れるや否や、その瞬間から彼は心の中に神様の義を持ち、心の状態は生活に現れますから、新しい神様の律法に従う人生が始まるのです。」
コップの水、いくら「これはブドウジュースだ」と何万回話しても、当然、水は水・・・。当たり前です。ところがイエス様がお語りになられると、話はまったく違います。あるキリスト教の中学校のチャペルで聖餐式がありました。聖餐式のための聖別して余ったブドウ汁は、人の踏まない地に注ぐのが規則・・・。ところがある時、当番の方が、それをすっかり忘れて棚に置いたままにしてしまいました。2~3週間?経って、「あっ!」と思い出します。急いで行って見てみると、棚に2つのブドウ汁があります。一つは、聖別したブドウ汁、もう一つは聖別していないブドウ汁でした。その方が見てみると・・・聖別したブドウ汁はそのまま新鮮。しかし、聖別していないブドウ汁は腐っていたそうです。
そしてこの不思議な出来事はここで終わりませんでした。この当番の方・・・この方は「聖餐式」を重要なものだとは思っていませんでした。この出来事から、聖餐式をとっても神聖な式として大切にされたそうです。
さて、聖餐式の前に「洗足式」という式があります。イエス様が弟子たちの足をお洗いになられた、との話から始まった式です。ある洗足式・・・。僕の相手をしてくださった方がいらっしゃいました。事もあろうに、その方は、超恥ずかしいですが、僕が見下していた方・・・。その方が、まず僕の足を洗ってくださいます。そして僕も足を洗います。すると、体から重いものがすっかりとれて軽くなり、心も体も和らげられ、式が終わって、その方と心から握手をし、すっかり仲良くなりました。何とも隠れたいような証ですが・・・はっきり言いましてこれは奇跡です。他にもたくさんありますが、以前には存在しなかったものを存在させてしまう、というメッセージは本当です。
そして次の聖餐式、12人全員が裏切っていく弟子たちを前に、パンを取り、感謝してこれを裂かれるイエス様・・・。その「感謝して」裂かれるお姿を思い、涙がとめどなく流れました。水がぶどう汁に変わるのは大変な奇跡・・・。しかし、一晩中、祈っても、断食しても、難行苦行しても?心が変わらなかったことを痛いほど知っています・・・。
かちかちの、かたくなな心が和らげられ、憎しみが友情に変わるのも・・・大変な奇跡であることを。
「神様は信じる者の上に義を宣言されます。宣言するというのは言葉を出すことです。そして『あなたは義人だ』と言われた瞬間、それを信じる罪人は罪人でなくなり、神様の義となるのです。義を宣言する神様の御言葉自体が義であり、罪人が信仰によってその御言葉を自分の心に受け入れるや否や、その瞬間から彼は心の中に神様の義を持ち、心の状態は生活に現れますから、新しい神様の律法に従う人生が始まるのです。」
コップの水、いくら「これはブドウジュースだ」と何万回話しても、当然、水は水・・・。当たり前です。ところがイエス様がお語りになられると、話はまったく違います。あるキリスト教の中学校のチャペルで聖餐式がありました。聖餐式のための聖別して余ったブドウ汁は、人の踏まない地に注ぐのが規則・・・。ところがある時、当番の方が、それをすっかり忘れて棚に置いたままにしてしまいました。2~3週間?経って、「あっ!」と思い出します。急いで行って見てみると、棚に2つのブドウ汁があります。一つは、聖別したブドウ汁、もう一つは聖別していないブドウ汁でした。その方が見てみると・・・聖別したブドウ汁はそのまま新鮮。しかし、聖別していないブドウ汁は腐っていたそうです。
そしてこの不思議な出来事はここで終わりませんでした。この当番の方・・・この方は「聖餐式」を重要なものだとは思っていませんでした。この出来事から、聖餐式をとっても神聖な式として大切にされたそうです。
さて、聖餐式の前に「洗足式」という式があります。イエス様が弟子たちの足をお洗いになられた、との話から始まった式です。ある洗足式・・・。僕の相手をしてくださった方がいらっしゃいました。事もあろうに、その方は、超恥ずかしいですが、僕が見下していた方・・・。その方が、まず僕の足を洗ってくださいます。そして僕も足を洗います。すると、体から重いものがすっかりとれて軽くなり、心も体も和らげられ、式が終わって、その方と心から握手をし、すっかり仲良くなりました。何とも隠れたいような証ですが・・・はっきり言いましてこれは奇跡です。他にもたくさんありますが、以前には存在しなかったものを存在させてしまう、というメッセージは本当です。
そして次の聖餐式、12人全員が裏切っていく弟子たちを前に、パンを取り、感謝してこれを裂かれるイエス様・・・。その「感謝して」裂かれるお姿を思い、涙がとめどなく流れました。水がぶどう汁に変わるのは大変な奇跡・・・。しかし、一晩中、祈っても、断食しても、難行苦行しても?心が変わらなかったことを痛いほど知っています・・・。
かちかちの、かたくなな心が和らげられ、憎しみが友情に変わるのも・・・大変な奇跡であることを。
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