今日の証の原稿です
教会に来始めた最初の頃の話です。ある時、合同礼拝のような大きな集会に出席しました。自分の心は、不満や欲や、罪の心で荒れ狂っていました。他に座っている方々を見ながら、「みんな、どうして涼しい顔をして座っていられるのだろう。自分だけおかしいのだろうか、自分だけ狂っているのだろうか。自分の心だけがどうしてこんなに荒れ狂っているのだろうか」と悩んでいました。そしてあるとき、教会に非常に暗い顔をして入っていきました。教会の方から「どうしたの」と聞かれたので、わたしは「自分の罪が多くて、また重くて」と話しました。すると、「それでは、イエス様に清められた罪が2つか、3つはないの?」と聞かれました。しかし、「2つか、3つはあるけどまだまだ多くて・・」と答えました。すると「それは傲慢です」と言われました。そして静かに「私たちの罪は髪の毛ほども多いかもしれないけれど3つ清められたら3つだけ感謝じゃないの」
心から重荷がすっとなくなりました。「私たちの罪は髪の毛よりも多いかもしれないけれど」との言葉を聞いたとき、「ああ、僕だけじゃないんだ」と思ったのです。そして、「3つ清められたら3つだけ感謝じゃないの」。と言われたとき、心が前に進んだのでした。そして謙遜ということが、「罪深い、罪深い」と言っていることではなく、「イエス様に3つ清められたら3つ感謝する」「こんなものにありがたい」という心が謙遜である、ということを知ったのでした。
そこで今日は、主の数々のお恵みの中から、いつくか証をさせていただきたいと思います。私の好きな言葉の中に「証とは、新しいことを提示することではなく、人々が忘れていた物を思い出させるためのものです」とあります。今日は、わたしの証を聞くというよりも、皆さんお一人おひとりを今日まで導いてこられた主の絶大なお恵み、その大きな御業を思い起こして頂ければ嬉しく思います。
信仰の初期の頃、すなわち入信の証は、安息日学校ですでにしてしまったので、今日は、簡単にして先に進もうと思います。
神様を知らない時は、1年のうち、喜びが1度あったかな~と暗く、虚しく、不平不満ばかりでした。キリスト教は嫌いで、キセルの常習犯で、自殺未遂の絶望的な人生でした。教会に来てから初めの頃は、だんだん罪ということが深く、大きく痛々しいまでにわかってきました。しかし、その暗い、長い、永遠に続くかと思われた長い、長いトンネルでしたが、今は過ぎ去ってしまっております。その間、何十回以上もあった安息日問題や、不治と宣告された病気などなどいろいろなところを通りましたが、そのたびごとにイエス様の憐れみと、御力、そして慈しみを心にいっぱいにいただき、イエス様のお約束の真実さと、憐れみ、愛の大きさ、深さを知るようになりました。始めの頃の疑いばかりが湧いてくる心、それが自分でも嫌で嫌でたまらず、モグラ叩きゲームのように心の中でずっと打ち消していた入信の頃・・・そんな心がキリストへの道に書いてある通り「神様の約束は今まで違ったこともなければ、これからも違うこともありません。そして私どもが、イエス様に近づき、イエス様の溢れる愛にひたるとき、イエス様ご臨在の光に、わたくしどもの疑いも暗きも消え去ってしまうのであります。」との約束が現実の事となったのでした。イエス様に出会い毎日感謝と喜びがあるという生き方に変えられていくということを経験するようになりした。イエス様にお会いする前の、あの虚無感、虚しさがない、寂しさがない・・・これは本当の驚くべき大変化でした。
このように神様からいただいた祝福は本当に大きく、まためぐみ深いものでした。しかし、各時代の希望に「キリストのうちに住むならば、あなたが今日豊かな賜物をうけることは、あしたはもっとゆたかな賜物を受ける保証である。」とありますが、主イエス様のお恵みはさらに驚くべきものでした。
さて、ある集会の時でした。ちょうどその時の自分はかなりコチコチになっており、聖書に書いてあることに、「これもなっていない、あれもなっていない」と大変悩んでいました。
「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」という状態でした。ところがその集会において、心を折る、人の話を聞くということを学び、そして心が和らげられたのです。その時「やらなきゃ」と思っていた心が「やっていきたい!」と言う心に変えられたのです。そして、神様は怖いと思っていた心が「神様は愛である」という心に変えられて、聖書や証の書に書いてあることが「なんだ、皆自分の幸せのためにかいてあることじゃないか」ということに突然気づいたのです。
神様や聖書や、証の書が変わったのではありません。心が変わったのでした。これは本当に驚くべきことだと思います。詩篇119篇92節にこう書いてあります。「あなたのおきてがわが喜びとならなかったならば、わたしはついに悩みのうちに滅びたでしょう。」また、豊かな人生の秘訣に「神を受け入れる者はすべて、神のみことばの主題が喜びであることをさとるのである」と書いてあります。他の証の中で、太陽が残酷に思え、小鳥の鳴き声を嘲笑に聞こえた方が、イエス様にお会いして、「自然の万物が自分と一緒に神を讃美しているに見える」とありましたが、イエス様を知る前、友人が「夕焼けがきれいだね」と言われても、「そう?」と寒々と言っていたものが、自然界の中に神様のメッセージを読むことができるようになっています。心一つで全てのものが変わるのでした。
ちょうどその頃、わたしは勤め先の病院から派遣されて臨床工学の学校に行っていました。入学するときは、募集要項をみてまず、安息日は休みの学校を選びました。
そして、入学試験の面接の時も、「土曜日はお休みですか?」と聞くと、「休みです」との答えだったので入学することになりました。
ところが、最終学年になり、いわゆる大学病院に言って実習の勉強に入ったとき
突然、学校から実習中毎週実習の様子の報告のため「土曜日に学校に出てきなさい」との指示を受けたのでした。
実習が始まると担任の先生からやはり学校に出てくるように言われました。担任の先生と話しても平行線でした。校長先生は、カンカンに怒っていました。一年生の時の担任の先生も来られ、「私ならとっくに切っとる」と話して去っていかれました。
今まで安息日に、学校の試験や、仕事などが当たった時は、それこそ必死の顔をして、祈り、聖書、証の書を読み、研究し、断食をして、神様に救出とお導きを求めてきました。憐れみ深い主は、そのたびごとに、本当に驚くべき奇跡をもって、乗り越えさせてくださり、人生における最も尊い経験へと作り替えてくださいました。しかしいつも・・・「いつも喜んでいなさい」という御言葉はすっかりわすれていて、悲壮な、必死の表情で歩んでいました。そして、問題が解決したとき、いつも「今回も笑顔で乗り越えられなかった」との思いに沈んでいたのです。しかしこの時は「今まで使ってしまった授業料どうしよう」でもなく、「退学になったらどうしよう」でもありませんでした。主イエス様に心が変えられていて、
「イエス様、証の時が来ました」との喜びに溢れていたのです。
いよいよ校長先生と面接になりました「教会に行くので、学校を休ませてください」といっても理解してくれなかったので、それまでのイエス様からいただいた証を話し始めました。
怒っていた校長先生の顔が和いて行くのを見えました「そんな奇特な人がいるんだ・・・」
そして、是非その話を文書で提出しなさい、と言われました。合計3枚出しました。
その文書は、臨床工学部の先生や、他大学の非常勤講師にまで伝わり、なんと学生たちまで伝わりました
そして、それはセブンスデーアドベンチストの他の証も加わり、大学や医療器メーカーにまで広がっていきました。そして大学病院の方や、医療器メーカーの方々が購入すると何百万円もする機器から、注射針などたくさんの医療消耗品、事務消耗品に至るまで、それこそ何年間にわたって教会の機関に、また3.11の時には福島の教会に寄付してくださることになったのですそれら、超音波診断装置、大腸内視鏡、上部消化管内視鏡、生体情報モニター、分娩監視装置などなど数え切れない一つ一つの出来事の状況を今でも鮮明に覚えております。それは、単にそれらを下さったことだけが嬉しかったのではありません。
一部の人々が、伝道が難しいとか、クリスチャンが少ないと言っている日本で、これだけ多くの人々がイエス様の証の心をゆり動かされて、教会の学校や、病院に対して「何かしたい」と思うまでにしてくださったことに感謝したのでした。
やがて他教派のインターネット新聞の職員と知り合いになり、是非その新聞に証を投稿してほしいというので、彼に原稿をわたし、数々の証が掲載されるようになりました。あるとき、その友人から連絡があり、「君の証の中に引用しているのはどの本からか?とっても確信に満ちている」と聞かれました。そこで、「キリストへの道と(希望の光2に入っている)クリスチャンの奉仕です」と答えました。話によると、今その教会の若い牧師の4割が証の書を買い込んで説教しているそうです。
そして、専門学校の方も、単位もくださり、卒業もさせてくださり、そして国家試験も合格し、今東京衛生病院で医療機器管理科にて働かせていただいております
祝福の山に
「神様は大いなる愛をもって、わたしたちのうちに聖霊による尊い徳を育成しようとしておられます。神様がわたしたちに障害や迫害や困難の来るのをおゆるしになるのは、のろいとしてではなく、わたしたちの生涯の最高の祝福としてでます。」とは本当の事だと思いました。」
今日はもうひとつだけ証をしたいと思います
あるとき、証の書の言葉に次のように書いてありました。「真の礼拝は、キリストと共に働くことにある。祈りと勧めと話は、しばしば結びつけられる安い実である。しかし良い働きや、困っている人、父のいない子、やもめなどを世話することに表される実は本当の実であって、当然良い木に実るものである。レビュー&ヘラルド」
今も礼拝ですし、話もしておりますし、「祈りは強力な武器である」「祈りは魂の呼吸である」また、「わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」ことも事実ですが、ここに祈りと勧めと話は・・・「安い実である」と書いてありまして、衝撃を受けたのでした。
それで、聖書に中に「特に信仰の仲間に対して、善を行おうではないか」とありますので教会員の年配のお一人暮らしの方に接触するようになったのです。この方には数年前に教会でお会いしたことがあり、ちょうど全身に痛みを感じておられ、教会の祈祷会でイエス様に祈りが捧げられ、その場で癒されたことがありました。
数年後、再会して接するようになったのでした。
それからの事は、たくさんの思い出があり、ここでは話しきれるものではありません
ご家族もない、ご親戚の訪問もない、という状況でしたが、しかし、時にかなって必要な助けが与えられていくのを目の当たりにしました。
聖書の中のイザヤ書46章4節です
「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生まれ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、
わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。
わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、
白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。
わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」とのお約束を主が忠実に成就されておられるのを、見ました。自分の心の冷たさと、神様の愛の大きさをまざまざと教えられる経験となりました。人は、「あの人」「この人」と言いますが、神様にとっては一人ひとりが「大切な子供なんだな」と思いました。
しかし、昨年三回目のご入院のある時、病室に行くと、この方が「今までありがとうございました」とおっしゃいました。その時は、まだお元気そうだったので、「いえいえ、まだまだ」と話してしまいました。
しかし、その後、急激に容態が悪くなっていったのでした。以前、「人が、最後の挨拶をしようとしている時は、それを『まだまだ、大丈夫ですよ』と拒否してはいけない。その人は人生を清算しようとしているのだから」とのお話を思い出し、大変後悔いたしました。そしてイエス様のお詫びして、御心ならばもう一度機会をと祈りました。やがてお亡くなりになる1週間位前、酸素マスクをして本当に苦しそうな時、この方は私の方を見て、振り絞るような声で、「あ、ありがとう、ありがとう」とおっしゃいました。そこで、「はい、僕も感謝しております。Mさんのおかげで結婚もさせていただきましたし」と言うと、この方は本当に満足そうなお顔をされて涙ぐんでおられました。
世の中では、悪いことが起こると、神様に不平不満をつぶやくことがありますが
この方は、死を覚悟されていらした最後のとっても大切な時間、酸素マスクの下の苦しい息の中にあっても讃美歌を歌って神様を讃美しておられました。また、お亡くなりになる前日も苦しくて、また口が渇いて大変な時でも、お見舞いに来られた方々の手を強く握って「ありがとう、ありがとう」と話しておられました
そして、翌朝早く、「眠るように」お亡くなりになられたのでした。
人は、目が見える事、耳が聞こえること、食べ物、日の光、美しい自然などなどに主に感謝を忘れているものです。
しかし、今回これから死ぬとわかっている人が、神様に感謝し、そして周りの人に感謝している光景は強く心に残ったのです。証の書に書かれている小さな文章から始まったこの長い出来事は、非常に広く、深く、大きな祝福を私の人生に与えてくださったのでした。それは、自分がいかに罪深く、また冷たいものであるか、また、神様がいかにあたたかく慈愛に富んでおられ、お約束なさったことを忠実にお果しになっておられるか、を教えていただく人生の貴重な体験となったのです。
「神の御言葉、義の言葉、生命の言葉が”今”、”この場”で与えられています。あなたは今、義に造り変えられる事を望みますか?今、その御言葉によって生きようとなさいますか?これこそ信仰による義認です・・・世界で最も単純なことです。」ATJ
今まで律法を守ってきたとか、あるいは今までずっと失敗や、黒星続きだったというのではなく、あるいはこれから・・・もっと強い信仰を持ってからとか、あるいはもっと祈ってから、とか、これからイエス様から離れたらどうしよう、というのではもない、あるいは家に帰ってから、どこかに行ったらというのでもない、「今」「この場で」、今、この礼拝で、この教会で「あなたは義に造り変えられる事を望みますか。今、その御言葉によって生きようとなさいますか」ということであり、そしてこの同じ経験の重ねる事が重要であることを教えていただいたのでした。聖書のガラテヤ人への手紙6章の15節に「ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。」と書いてありますが、原語では「造り変えられ続けることこそ重要なのである」という意味であるそうです。
「ローマの信仰は、神が我々のうちに住まわれる為には、われわれが清まって聖なる者にならねばならないというのであり、イエスを信じる信仰というのは我々が清く、聖なる者となるには、まず神がわたしたちの内に住みたまわねばならない、というのです」(ATJ クリスチャン完全への道)
「信仰は、キリストを心の中に住まわせますが、キリストご自身・・・には律法が宿っているので、こうして律法が心に確立されるわけです。」(EJW サインズオブザタイムス)
バプテスマを受けた頃、イエス様は愛であることを知っていました。
しかし、今思うとその時は、イエス様の愛の大きさをほんのわずかも知っていなかったと思います。・・・主イエス様の愛は当時とは比べ物にならないほど大きく、また広く、また深いものですですから、もう一度おいでになられるイエス様は、今知っているよりもはるかに、もっともっと素晴らしい御方でいらっしゃると信じております。
イエス様が全人類のために、またあの人のために、この人のために十字架に掛かられたと言うのであれば理解できます。しかし、神の御子は「このわたしのために」天国の幸福をお捨てになられ、この地上に来られ、「この地上の幸福までも」お捨てになられ十字架に架かられたというのは本当に驚くべきことです。
この広大な大宇宙でたったお一人、私を愛し、わたしの罪の故に、御手と御足に十字架の傷跡を持っておられる御方に栄光が代々限りなくありますように。最後に聖書をお読みいたします
「どうか、わたしたちのうちに、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、遥かに越えてかなえてくださることができるかたに、教会により、またキリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン」エペソ人への手紙3-20