2017年8月4日金曜日

清潔

ある若者が、教会に泣きながら入ってきました。席に着くと、信仰の先輩の方に涙ながらに語ります。「僕の押入れが汚いんです」・・・。

信仰の先輩の方が、すぐにおっしゃいます。「それでは、押入れをきれいにしなさい。」
「・・・?????」
その若者は、はっと気付き、笑顔になりました。「何を馬鹿なことを言っていたんだろう。泣きながら、汚いんです~なんて。」

「とにかく、やること、はじめること、はじめたらやめないこと。」

「何かせよ、今すぐせよ、全力を尽くしてせよ。」

「そうすれば、後から気付くから、今まで何もやってこなかったんだ・・・と。」

清潔、一つとっても「知っていること」と「身につく」こととは、雲泥どころか全く別世界です。まして、「汚くてもゴミじゃ死なない」と思っていた人間が、「清潔が好きになる」ことは驚くべき奇跡だと思います。本来家庭でしつけられ、学んでくるものですが、そのような環境にいない場合、「大人になって大恥をかきます」。そして、場合によっては「馬鹿にされて」、悔し涙と共に必死で身につけていく場合もあるでしょう。「しつけ」はとっても大切ですね。人間は教えられないと、何も身についてないのです。

家がゴミだらけ・・・と家では「、清潔」なんて身につくのは至難の業??でしょうか。なにせ、思っている「清潔」のグレードが全然違います。教会員のお住まいに行けば一目瞭然、少し生活を共にしてみれば、「いかにしつけがなっていなかったかが」よくわかります。

「毎日、掃除しても、ほこりってすぐたまるんだ」なんて当然の事に「びっくりして」感動するような始末です。ですから、教会がいつも「ほこり一つない」ということはすごいことです。

「歯磨き」といえば、夜寝る前1回・・・が当たり前だと思っていました。ところがある時、結構多くの人が、食後3回磨いていることを大発見?します。人によっては、朝起きてからを含め1日4回・・・。ところが慣れてしまえばなんてことありません。

洗濯の仕方、干し方、アイロンのかけ方、服の畳み方、すべて違います。こうやって、「無人島から出てきたかのような自分の姿」に気がつくようになります。

しかし、はっきりいって身についてしまえば一生の宝・・・。だんだんやっていくことが好きになってきます。すべて徳と言われるものに心を留めるように導いてくださいます。そして、「生きる力をいただく」ことになります。

自分が、簡単に何でも身についたんだ・・・と思われたら大誤解。すべて先輩のクリスチャンの祈りと、忍耐と許し、ご指導、また、周りの兄弟、姉妹の忍耐とご配慮のおかげで、デンデン虫より?遅い歩みをしているに過ぎません。

「あ~あ、身につかないなあ」なんて思っていると、「1000回でも2000回でもやるのよ」との優しい、しつけのなった信仰の先輩の声が耳に浮かびます。すべては「できない」のではなく、「やらない」のが原因です。「やり始める」と「今までやってこなかった」と気付くのです。

こういう証はかなり好きです。教会で罪の習慣の証をしていると、その場にいる若い学生達もポーカーフェイスをしていますが、内心「やばい!」と思い、家に帰って、生活が改められるそうです。みんなが良くなり、幸せになっていくことは本当に良いことです。

こんな事書いていて「メソジスト」、几帳面屋と言われたら、かなりの栄誉・・・。この名は全世界で誉ある名称になっています。「行いによる義」と言われたら? シャツ出しっぱなしで「信仰による義とは!」と説教していたら・・・かなり格好悪いです。信仰以前の問題ですね。

「あなたは、今まで何度となく失敗したかもしれない。しかし、今度は成功しないという保証はない。」「イエス様はまた魂の敵と激しい戦いをたたかっている者にも出会われた。これらの人々をイエス様は耐え忍ぶように励まし、神様の天使たちが彼らの側についていて勝利を与えてくれるから、勝てるのだと保証された。」

自分が罪と闘っていたとき、ひとりのクリスチャンの方が涙を流されながら、おっしゃられた言葉が忘れられません。「あなたを見ていると、痛々しい。みんなもっと真剣に信仰をなさい。」「若い人がこんなに苦しんでいる・・・。大人が模範になっていないからよ」と。

そして、改められた時・・・「なんだ、そんなことか」とはおっしゃいません。涙を流して・・・、喜んでくださる方々・・・。それがクリスチャンでした。

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