2009年10月31日土曜日

入院 聞かれない祈り?

「病人のために祈るときは『わたしたちはどう祈ったらよいかわからない』ことを覚えなければならない。わたしたちが望む祝福が最上のものか否かはわからない。したがって、わたしたちの祈りには次のような気持ちがなければならない。「主よ、あなたは魂のすべての秘密を知り、これらの人々をよく知っておられます。この人々の仲保者であるイエス様は彼らのためにその生命をおささげになりました。彼らに対するイエス様の愛はわたしたちが彼らを愛するよりもずっと大きいものです。もし主のみ栄えとなり、病人の益となるならば、健康が回復するよう、イエス様のみ名によってお願い申し上げます。もし回復することがあなた様のみ旨でなければ、苦しいときにあなたの恵みが彼らを慰め、そば近くにあなた様がおられまして、彼らをささえてくださるようにお願いも申しあげます。」

「神様は初めから終わりまですべてを知り、あらゆる人の心を熟知しておられる。神様は魂の中にあるいっさいの秘密を読み、祈ってもらっている人が生き長らえるとき、その上にきたる試練に耐えられるか否かをご存知である。またその人の生涯は彼ら自身にとっても、社会にとっても祝福となるか、それとものろいとなるかを知っておられる。」わたしたちが熱心に祈りをささげるとき、「しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください。」と言わなければならない理由の一つがここにある。神様の知恵と、御旨にすべてをゆだねるというこの言葉を、イエス様はゲッセマネの園で、「わが父よ、もしできることでしたら、どうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と懇願されたとき申されたのであった。神様の子、イエス様にこの言葉がふさわしいものであったとすれば、有限であり、まちがいを犯す人間の口にはなおさらのことである。」

僕入院した時の事です。後でお聞きしたら、クリスチャンの方々はそれこそ熱心に祈ってくださいました。

しかし、その時は入社したて・・別のことを考えていました。
その時期、会社はちょうど決算期・・残業時間だけで、月200時間をはるかに超えます。

入社したばかりで僕も当然安息日も出るように・・・と言われます。
そのとき健診でひっかかり、「入院」・・・心ひそかに思いました。「お導きかも・・・」

結局、入院は会社指定の大学病院のベッドが空かないといる理由で、
2ヶ月に及びました。しかも安息日はいつも外出届けを出して出席させていただきました。
教会から病院に帰ってくると、6人部屋の病室の患者さんはみなカーテンを開けて待っていてくれ待っていてくれました。「どうだった?どうだった」家政婦さん、看護婦さん交えての病室証会でした。

しかし、最後の安息日の前の日、医師が来ました。「いつもなら、土曜日は検査をいれないのですが、明日はわたしが間違って検査を入れてしまいました。会社では、この検査を受けたら会社に戻してくれる、もし断ったら会社は首だといっています、どうされますか?」
「もし心の健康と、体の健康どちらかを選ばなければならないのでしたら、わたしは心の健康を選びます。」と安息日を選ぶ力をイエス様が与えられました。「そうですか」と医師は帰っていきました。

会社のちょうど決算処理が終わる「その日」退院をしました。
そして次の日出社すると・・・その場で正規職員にしてくださったのです。

「一生懸命祈っても、一向に退院しない」とおっしゃっていた教会の方に僕が「じつは・・・」と話すと納得・・・

聞かれない・・・と一見、思える祈りもまた・・・意味があるようです

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