「義認というのは義と宣言される事で、信仰によって義とせられるというのは神様の御言葉によって義とせられることです。神様の言葉が発せられると、何でも言われた通りになってしまいます。・・・イエス・キリストによって語られる神様の御言葉は、それが語られる以前には世に存在しなかった物を存在させてしまうのです。人間の内には義なるものはありません。・・・しかし神様は人間の上に義を宣言させる為にキリストをお立てになりました。キリストが言葉を語られたので、それを受け入れる者にはただそれだけで、何もなかった彼の内に義が現れるのです。・・・信仰によって受け入れられた神様の言葉は以前は何もなかった人間の内に、その生活において義を造り出します。」
「神様は信じる者の上に義を宣言されます。宣言するというのは言葉を出すことです。そして『あなたは義人だ』と言われた瞬間、それを信じる罪人は罪人でなくなり、神様の義となるのです。義を宣言する神様の御言葉自体が義であり、罪人が信仰によってその御言葉を自分の心に受け入れるや否や、その瞬間から彼は心の中に神様の義を持ち、心の状態は生活に現れますから、新しい神様の律法に従う人生が始まるのです。」
コップの水、いくら「これはブドウジュースだ」と何万回話しても、当然、水は水・・・。当たり前です。ところがイエス様がお語りになられると、話はまったく違います。あるキリスト教の中学校のチャペルで聖餐式がありました。聖餐式のための聖別して余ったブドウ汁は、人の踏まない地に注ぐのが規則・・・。ところがある時、当番の方が、それをすっかり忘れて棚に置いたままにしてしまいました。2~3週間?経って、「あっ!」と思い出します。急いで行って見てみると、棚に2つのブドウ汁があります。一つは、聖別したブドウ汁、もう一つは聖別していないブドウ汁でした。その方が見てみると・・・聖別したブドウ汁はそのまま新鮮。しかし、聖別していないブドウ汁は腐っていたそうです。
そしてこの不思議な出来事はここで終わりませんでした。この当番の方・・・この方は「聖餐式」を重要なものだとは思っていませんでした。この出来事から、聖餐式をとっても神聖な式として大切にされたそうです。
さて、聖餐式の前に「洗足式」という式があります。イエス様が弟子たちの足をお洗いになられた、との話から始まった式です。ある洗足式・・・。僕の相手をしてくださった方がいらっしゃいました。事もあろうに、その方は、超恥ずかしいですが、僕が見下していた方・・・。その方が、まず僕の足を洗ってくださいます。そして僕も足を洗います。すると、体から重いものがすっかりとれて軽くなり、心も体も和らげられ、式が終わって、その方と心から握手をし、すっかり仲良くなりました。何とも隠れたいような証ですが・・・はっきり言いましてこれは奇跡です。他にもたくさんありますが、以前には存在しなかったものを存在させてしまう、というメッセージは本当です。
そして次の聖餐式、12人全員が裏切っていく弟子たちを前に、パンを取り、感謝してこれを裂かれるイエス様・・・。その「感謝して」裂かれるお姿を思い、涙がとめどなく流れました。水がぶどう汁に変わるのは大変な奇跡・・・。しかし、一晩中、祈っても、断食しても、難行苦行しても?心が変わらなかったことを痛いほど知っています・・・。
かちかちの、かたくなな心が和らげられ、憎しみが友情に変わるのも・・・大変な奇跡であることを。
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