2009年10月20日火曜日

力をくださった証

「助けを必要としているところで熱心に思慮深く努力することにより、まことのクリスチャンは神様に対し、また同胞に対し自分の愛を示すのである。彼は奉仕のために命を失うかもしれない。しかし、キリスト様はご自分の宝をご自分のもとに集めにこられるとき、彼はその命を再び見いだすのである。」

「永遠への門口に立ち、恵み深い招待の声を聞きなさい。それはこの地上でキリストのために苦しむことを特権とし、名誉と思い、キリストと協力した人に与えられる恩恵の招待である。・・・そこではあがなわれた人たちは十字架にかけられた救い主に自分らを導いてくれた人と対面し、彼らは一つとなって人間が神様の生命と同じ生命を持つことができるために死なれた救い主を賛美する。戦いは終結し、すべての災いも争いも終わりを告げ、あがなわれた者が神様のみくらのまわりに立つ時、勝利の歌は全天にみちあふれ、『ほふられた子羊』 われらを神様にあがなってくださった『子羊こそは、・・・栄光とさんびとを受けるにふさわしい』と喜びの曲を歌うのである。」

「今教会は戦っている。いまわたしたちは暗黒の世界、ほとんど全部が偶像礼拝に身をささげている社会に当面している。しかし戦いが終わり勝利をかち得る日がきている。神様のみこころが天に行われるとおり、地にも行われなければならない。救われた諸国民は天の律法のほかには、どんな律法も知らない。すべての人は幸福な、1つに結ばれた家族となり、感謝と賛美の衣、すなわちキリストの義の衣をまとう。自然はすべてそのすばらしい美の中に神様を賛美し、礼拝するのである。」

「あがなわれた人々が自分たちのために重荷を負ってくれた人々に会って、あいさつをするとき、どんなにかすばらしい喜びがわくにちがいない。そして自分の楽しみのためでなく、祝福をほとんど持ち合わせない不幸な人々の祝福となるために生きてきた人々は、どんなにか心を満たされて感激することであろう。『彼らは返礼ができないから、あなたは幸いであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう』というみ約束に彼らは思い当たるであろう」

「救い主の来臨をあまりにも長く待っていると思うようなとき、すなわち、悩みに負け、骨折りに疲れ果てて、もうわれわれにゆだねられた仕事を終え、名誉ある免除を受けるために戦いから身を引くことに待ちきれないと思うならば、次のことを思い出そう―また、不平が出るごとにそれを思い出そう―神様は我々があらしや闘争に会い、クリスチャン品性を完成し、み父であられる神様と兄であられるキリストとよりよく知り合うように、また、主のために多くの魂をキリストに導く仕事をするように、そうして、『良い忠実な僕よ、よくやった。主人と一緒に喜んでくれ』という御言葉を喜びの心で聞くことができるように、われわれをこの地上に残しておられるのだという事を。」

他の人々は、飢えている者に食を与え裸な者に着物を着せた人々に感謝を表すであろう。
「信仰をもたずに失望していたとき、主はあなたをわたしに送ってくださり、希望と慰めの言葉を語ってくださった。あなたはわたしの肉体的必要を満たすための食事を持ってきてくださった。また、神様のみ言葉をわたしに開いて、霊的必要に目覚めさせてくださった。あなたはわたしを兄弟として扱い、わたしが悲しんでいる時に同情し、打撲傷を受けて傷ついたわたしの心を回復させてくださった。だからわたしを救ってくださろうと差しのべておられたキリストのみ手をわたしはつかむことができたのだ。わたしが無知であったときに、天国にはわたしを養ってくださるみ父がおられることを、あなたは辛抱強くわたしに教えてくださった。あなたは神様のみ言葉のとうといみ約束を読んでくださった。神様がわたしを救ってくださるのだという信仰を私に吹き込んでくださった。キリストが私のために払ってくださった犠牲のことを考えたとき、心は和らぎ、しずめられ、くだかれた。私は命のパンを求めて飢えるようになり、真理が私の魂になくてはならないものとなった。わたしは救われてここにいる。永遠に救われ、永遠に神様と共に住み、わたしのためにご自分のいのちを与えてくださったおかたを賛美するのである。」

「能力に応じて『それぞれ仕事』を割り当てられたお方は忠実な働きに無報酬ですますことは決してなさらない。忠義、忠実な行為にはことごとく神様の恩寵と賛成の特別なしるしを受ける栄誉が与えられる。すべての働き人に『種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう』というみ約束が与えられている。」

「報酬のことは全く神様におまかせして安んじていることを、主はわたしたちに望まれる。キリストが魂に宿られると、報酬のことは、第一の関心事ではなくなる。それがわたしたちの奉仕の動機ではない。」

「良い事をすることは病気に対する最もすぐれた療法である。みわざに携わる人々は神様をたずねるようにと招かれている。そして神様ご自身は、彼らにこたえると誓っておられるのである。彼らは良き物をもって満たされ、潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。」

「他の人々に注がれた光線はことごとくわれわれの心にも反射する。悲しむ者に語りかける親切で同情深い言葉、しいたげられた者の心を和らげる行為、同胞の必要とするものを補うための贈り物、神様のみ栄えのために与えられたり、なされた事はことごとく、与えた者に祝福となってもどってくる。このように働く人々は天の律法に従っているのであり、神様の承認を受けるのである。」

「わたしは、ひとりの男がある冬の日に、吹き寄せられた深い雪の中を旅をしていて、寒さに感覚を失いかけ、知らず知らずのうちに活力がほとんど奪われそうになったという話を読んだ。そして、彼は寒気に包まれてこごえ死にそうになり、もう生きるための戦いをあきらめようとしていたちょうどその時に、彼と同じように凍死しかかっている別の旅人のうめき声を聞いた。彼はその人を助けたいというけんそんな気持ちになった。彼は雪だるまになっているその気の毒な人のからだをさすり続け、かなりたって後その人を立たせた。彼は、その人が立つことができなかったので、自分ひとりでは行けないと思っていたその雪の中を、親切にその人をだきかかえていった。そして、彼は、仲間の旅人を安全な場所にまで運んだその瞬間に、隣人を救ったことで自分をも救ったのだという事実に気づいた。もう1人を救いたいといる彼の熱心な努力が、彼自身の血管の中で凍りかけていた血液を生気づけ、手の先まで健康的な暖かみを生み出した。」

この最後の証は実際に力をいただき、命を助けていただいた証です。

そして、いまもなお、人から人へ伝えられ・・・多くの人々に明るい光を与え続けています。

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