さて、むか~し聖書の中で、僕が一番欲しい賜物がありました。
それは、「癒しの賜物」・・・らい病人をいやし、足なえの足を立たせ・・・
「この奇跡があれば、伝道もさぞかし・・・」
そして・・・聖書に書いてあるような「癒しの賜物」はいただいていませんが・・・
数々の癒しの御業は見てきました。それは、今もなお多くの人の心に残っています。
しかし・・・?必ずしも癒されたから「よし、イエス様にお答えして・・・」というわけではないことを知ります。
心臓病で、足が悪く、お金もない・・・方が教会に来られ、
心臓病がいやされ、足も直り、売れない細い土地が売れて・・・よし残りの生涯は献身?ではありませんでした。
「よし、これから山に遊びに行こう!」
その後、信仰から離れていかれました。
10人のらい病人が癒されても、帰ってきたのはたった一人、
また、生まれつき盲目の方が、シロアムの池に行って目を洗い、いやされて、証ししたら、両親から見捨てられ、会堂から破門されて・・・との話は、今も同じであることを見ることになります。
紅海が分かれ、マナが降り、岩から水が吹き出したのを目の当たりに見たイスラエルの人、
三日?ぐらいで御業を忘れ、つぶやきはじめます。
これは、今もなお、現実の話・・・
僕も脳腫瘍の方が、クリスチャンの方の祈りと、愛と、食事で癒されたり、喘息が癒されたり、アトピーが癒されたり、末期すい臓癌の方が命を永らえ、などなどたくさん見てきました。
また、もはや助からないと言われた方が、オリーブ油の祈りでいやされたり・・・
ある妊婦さん・・・出産後・・肺塞栓症になり、心肺停止、必死の救急蘇生でもよみがえりませんでした。医師があきらめ、死亡診断書を書こうと決意した時・・・急に顔に鮮やかな血色が戻り、患者さんは助かりました。
陰の控え室で看護婦さんが集まって祈っておられたそうです。
他にも、拒食症になり、医師が死亡診断書を書いた時、牧師さんの祈りでいやされたり方、交通事故で、眼球が飛び出て、耳がちぎれ飛んで、人工眼球も用意され、命も助からないといわれた方が牧師さんたちが病室に入って膝まづいてお祈りされ癒された話、・・・
すべて厳粛な事実も聞いてきました。
自らもひざを癒されたり・・
もちろん、
「弟子であると公言するだけでは何の価値もありません。魂を救うキリストに対する信仰とは多くの人が表明しているようなものではないのです。彼らは「信じなさい、信じなさい、あなたは律法も守る必要はない」と言います。しかし、服従へ導かない信仰は臆断です。使徒ヨハネは、「『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない」と言っています。だれも、特別な摂理や奇跡的なあらわれなどがあるからといって、彼らの働きやその主張する思想がまちがいない証拠であると考えてはなりません。人々が神様のことばを軽んじて語り自分の印象や感情や行動を神様の標準以上に見なす時、彼らのうちには光がないことがわかるのです。
服従は弟子であることの試金石です。私たちの神様に対する愛の真実性を証拠だてるのは律法の遵守です。わたしたちの受け入れる教理が心の中の罪の根を断ち、魂を汚れから清め、清きに至る実を結ばせるなら、わたしたちはそれが神様の真理であることを知ることができます。」
「神様のみこころの一点をあえて無視することによって、私たちの最初の祖先は、この世界にわざわいの水門を開いてしまいました。そして彼らの例にならう者はみな、同様の結果を刈り取ります。神様の愛がその律法の一つ一つの戒めの基礎です。そして戒めを離れる者は、自分で自分の不幸と破滅をもたらしているのです」
なのですが・・・
イエス様は9人戻ってこられないこともご存知でいらしたのにおいやしになられた・・・
イエス様のユダヤ人も、サマリヤ人も、盲人の両親や祭司たちもお救いになられたかった・・・
イエス様は人の幸せしか考えておられないようです。その愛をほんのちょっとずつ知っていくことになります。
「許しを与える神様の愛を受け、また、その精神をあらわすために欠くことのできない一つのことは、神様がわたしたちに対していだいておられる愛を知り、かつ信じることです。わたしたちがその愛を認めないように、サタンはあらゆる欺きをもって働いています。彼は、あやまちや罪があまりに大きいので、主はわたしたちの祈りをかえりみてくださらず、わたしたちを祝福し、救ってはくださらないと思わせようとします。わたしたち自身のうちには、欠点以外何も見られず、神様にとって魅力のあるものは何も見られません。サタンはむだだ、品性の欠陥を改めることはできないとわたしたちに告げます。わたしたちが神様のもとに来ようとする時、敵は祈ってもむだだ、あなたはあの悪事をしたではないか、あなたは神様に対して罪を犯し、自己の良心にそむいたではないかとささやくでしょう。
しかしわたしたちは「御子イエス様の血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」と敵に告げることができます。わたしたちが罪を犯した、祈ることができないと感じる時こそ、まさに祈るべき時なのです。恥し、誇りをいたく傷つけられているかも知れませんが、祈り、かつ信じなければなりません。・・・・」
放蕩息子のお兄さんも、弟も、すべては これからの人生・・・
「神様の愛は、難攻不落の要塞です」
僕も信じています。それはこの地上の誰よりも、深い愛・・・
いえ・・宇宙で一番大きな愛を持っておられる御方であると・・・
イエス様と、人の思い、あまりにも当然・・・人では到底測り知れないくらい・・・ちがうようです。
「品性を評価するにあたって、神様と人との標準は、なんと大きな相違があることであろう。世の中や親しい友人さえも知らない、家庭内や心のなかの誘惑、数々の誘惑に打ち勝ったことなどを神様はごらんになる。自己の弱さを知って、けんそんにしていること、一つの悪い思いでさえ、心から悔い改めることなどを、神様はごらんになる。また、神様は、ご用のために心から奉仕する人をごらんになる。自己とのはげしい戦い、そして遂に、その戦いの勝利したことなども注目なさるのである。これらのすべてを、神様が知っておられ天使も知っている。主をおそれ、主の名をおぼえる者のために、主の前に記憶の書がかかれている」
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