「必要なのは熱心なクリスチャンの熱意である。・・・何かを行うことによって示される熱意である。・・・ナイヤガラ瀑布(ばくふ)の流れを止めることができないように、キリストを身につけている人に対して、主を証することを妨げることはできない。」
「今立つことのできる人は、心から全く決心している男女である。キリストはしもべたちを何度も振るわれて、ある時には、クリスチャン教会の基礎を置くのにわずか11人と2、3人の忠実な婦人しか残らなかった。負わねばならない重荷に遭うと退くが、教会のすべてが燃えているときには、彼らは熱中して歌い、叫び、有頂天になる。しかし彼らを見つめてみよ。その熱が冷めたとき、わずかな少数の忠実なカレブたちだけが前に出てきて、ゆるぎない節義を示すであろう。こういう人は風味を保つ塩である。教会に本当の助けが現れるのは、御業の進展が困難なときである。」
「奉仕のために男女を選ぶに当たって、神様は、学問があるとか、雄弁であるとか、世的な富があるかとかお尋ねになるのではない。神様は『わたしが彼らにわたしの道を教えることができるような謙遜さで歩くだろうか。わたしは言葉を彼らの唇におくことができるだろうか、彼らはわたしを代表するだろうか」とお尋ねになる。」
「敗北の屈辱は、神様のみ助けなしに御心を行うことが出来ないのだということをわれわれに示してくれるので、かえって祝福となることがよくある。」
「真心から神様を称えることは、祈りと同様の義務である。罪に陥った人類への神様の驚くべき愛を感謝するとともに、神様の無限の冨の中から、いっそう大きな祝福を受けることを待望していることを、私たちは世界と、そしてすべての住民たちに示さなければならない。私たちは今まで以上に、もっと自分の尊い体験語る必要がある。聖霊が特別に注がれると、主にある喜びとその奉仕における能力とは、神様の子らに対する神様の慈しみと驚くべき御業を私たちが語ることによって、著しく増大するであろう。
こうしたことは、サタンの力を後退させる。それはつぶやきと不平の精神を取り去り、誘惑者を退却させる。それは地上の住民の品性を天の邸宅を継ぐにふさわしく涵養する。こうした証は人々に感化を及ぼす。魂をキリストにかち取るのに、これ以上有効な方法はない。」
0 件のコメント:
コメントを投稿