2009年11月3日火曜日

支え人

今まで書いてきましたが、僕自身、あと癌で二ヶ月といわれたクリスチャン女性の方にイエス様に導いていただいていますので、女性たちの影響力の大きさは非常に大きいです。

彼女たちの、純潔、清さ、あたたかさ、気力、洞察力、忍耐、思いやりの深さ、また、箴言の最後の章に書いている姿を地で生きていらっしゃる方・・・。

自分たちにはいつも厳しく、「怠りの糧を食べることをしない」どころか、そんな姿を一度として見た事がないほど、働かれます。作られる食事、デザートはいつも工夫と愛情があります。工夫、時間のかけ方、材料の選び方、努力、食べる人への思いやり、季節感、手を抜かない・・・食べ物を見ればすぐにわかります。

「信仰は料理に現れるのよ」「喜ぶ顔がみたい、という心で作るのよ」ととっても簡単におっしゃいます。作られた料理に、現れているので「そうだな・・・」と納得せざるを得ないです。ニンジンを不器用にトン、トトンと切っている僕は、言葉もでない状況です。しかも、それでいて、「ごめんね」との心を決して忘れられません。

家庭、教会をいつも明るい雰囲気に変えてしまいます。罪を罪と呼ばれますが、また、思いやりのないことをとっても嫌われますので、そばにいるだけで、「これは、まずいな・・・」と自らの思いやりのなさにすぐ気がつきます。

心の謙遜さは、全身から表れています。お会いしただけで、「自分は傲慢だ」とすぐわかります。1日中、それこそ謙遜に徹してきて、夜、お会いすると、「なんて自分は傲慢なんだ」とわかります。

服装はいつもセンスがとっても良く、当然のことですが、清潔です。

快活で、ユーモアがあり、それでいて、人の痛みがよくわかっている。また、奥が深い・・・。また、陰で祈っていてくれていることがわかる・・・。

「女は支え人として造られたのよ」「だから女が支えないと男の人は倒れるのよ」「男の人は、車輪、女は心棒なのよ」「まず女が変わらなければだめなのよ」「男の人が飲んだくれで、乱れていても、女は子供のために身を清く保たなければならないのよ」

単に傍から聞くこの言葉の印象と、自分だったらどうだろう、すなわち自分が女性だったらこう話せるかな・・・と思うことでは、とんでもない違いがあります。

ご自分にも厳しいですが、また、「愛はすばやく発見する」と本に書いてありますが、その洞察力は本当にすごいもので、まるで生活の隅々まで見ているかのよう。また心まで見通しているかのようです。

「彼女たちの目に恥じ入ることのないように」と思うだけで相当意識が変わります。
そして、その純潔な、また清らかな人生、雰囲気、そしてそれがごく自然・・・がどれほど人生の力になっているか測り知れないほどです。

僕にとって、クリスチャン女性の評価は非常に高いです。多分、今まであった方々の素晴らしい影響力により、クリスチャンの女性って、みなそうなんだという方向で人を見ているだろうなあ、と思っています。



さて、しかし、「そうか、女性の方々がんばってください」なんてまったく思いません。みな人形ではなく、感情もあり、躓いたり、疲れたり、失望したり、悲しんだり、怒ったりする、人間ですから。「試練、耐えがたい悲しみ、抵抗しがたい誘惑を持っていない人は一人もいない」とあるとおりです。彼女たちのイエス様への献身により、数々の御業が現われるのでしょう。

クリスチャンは「善においては互いに競争者」ですので、心ひそかに「負けてたまるか・・・」と思いつつ・・・。

たとえが適切でなかったらごめんなさい。おとぎ話の中に、「孫悟空が釈迦から逃げようと思って、金と雲にのって世界のはしっこまでずっと逃げていきます。もう、追って来れないだろうと思います。しかし、それは気づいたら釈迦の手の中だった」という話がありますが。
結構「あれ?いろいろやっているようだけど、彼女たちの細かい配慮や陰の働き、忍耐、お祈りの中で、泳いでいるだけじゃないか」と気づいたりします。

それどころか、人生の真っ只中にあって、危機の時、精神力が限界まで働いている時、主イエス様は、主の僕の方々「支え人」を置いてくださり、「時にかなって」助けていただいています。

本人たちは、ほとんど無意識のことが多いように思えますので、最後の日にどれほど彼女たちを通して助けられたかを見て、イエス様の恵みを大きさにびっくりすることでしょう。

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