「イエス様は、ひとりひとりの魂の事情をご存知である。
自分は罪深い者だ、とても罪深い者だとあなたは言うだろう。
あるいはそうかもしれない。しかしあなたが悪ければ悪いほど、 イエス様が必要なのである。
主は泣いて悔い改める者を決して退けられない・・・。
主は、ふるえている魂に勇気を出しなさいと命じられる。
主は、赦しと回復とを求めてみもとに来る全ての者を快く赦して下さる。」
この言葉は、礼拝の週報に載っていたものです。
「久しぶりだな・・・」と思わず、思いました。当時、この文章を読んでいたとき、それは「必死」でした。それは、生きるか、死ぬかと真剣でした。それから・・・、これらの言葉は断片的にもいつでも思い出して助けていただいた言葉です。
そして、今は「これらの言葉は真実だった」と証できるかな・・・と思います。
近頃、かつて励まされた数々の聖句、証を思い出す機会がとっても多くなりました。「この約束も、この約束も本当だった」と思い返しています。
僕が、クリスチャンの方にお祈りしていただき、何年も水がたまっていた膝をいやしていただいたことがあります。膝が軽くなった時思い出した言葉は、「いやされたと信じて歩きなさい、そうすれば実現する」。
また、エリヤさんが何年も雨が降らなかった時、7回お祈りされます。そして、僕が小さな雲を見つけると、すぐさま「雨にとどめられないように車を整えて下れ」と王様に言うように命じます。エリヤさんは、小さな雲の中にあふれるばかりの雨を見出した。「これだ」と思いました。すると、痛みのため自転車では上れなかった坂を上れるようになり、正座ができるようになりました。
さて、癒されて1週間後、クリスチャンの看護学生が、とっても優しい声でこう聞きました。「足、大丈夫?」
この言葉は、心に深く染み入りました。
「いやし」の証が出ると、よく言われるのが「本物だろうか」「偽者じゃない」という論争です。僕の中でも反射的に、そういう言葉に身構えている姿がありました。
その時、「神様だもの、癒されて当然」ではなく、「足、大丈夫?」の言葉が心に入ったのです。
本物か、偽者か、そんな醜い裁く心ではなく、「心からその人を思う思いやり」が心を溶かしたのでした。
遠くの国に医療の奉仕に行く方々がいます。「いろいろ問題ある。こんな不正もある。そんなことしなくても、お金だせばいいじゃない」という話も聞きます。
しかし、今は「それで治った方々の幸せを喜ぶ」ようになりました。証を書いていて時々、読み返して「超恥ずかしい」文章にも会います。しかしその時ですら、暖かく「心で受け止めてくださった」方々がいらっしゃいます。
罪と必死で戦っていた姿、それは決して「きれいな」姿ではありませんでした。しかし、その戦っている姿を「いやしめもせず」「馬鹿にすることもなく」じっと、涙しながら見守ってくださった姿、そのおかげで今の人生があります。
心の罪との戦い、それは「聖なる戦い」とも呼ばれています。ビルに突っ込むことが聖なる戦いではありません。心の中の戦いです。
「彼らの聖なる戦いを記録天使に書いていただこう。彼らの涙を綴ってもらおう」。
「この醜い心」と「難行苦行によって」ではなく、「悔い改めの心によって戦う」ことが「聖なる戦い」です。
信仰の戦いの中にある「クリスチャン戦士」の方々に出会うとき、「あなたの姿が一番きれいだ」と言える心の目をもっていたいと思っています。
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